娘が「悪役令嬢」に憑り殺された日。あるいは、あの子が死んだ日の話
「わたくし、今までの行いを振り返って反省しましたの。
今日からは心を入れ替えて、公爵家の令嬢としてふさわしい淑女になりますわ」
高熱で伏せっていた娘が回復したあと、初めて一緒に摂る朝食の席で告げられた言葉に、私も夫も思わず顔を見合わせた。
娘がこれまで気に入っていた豪奢な縦ロールや、フリルがふんだんに使われたドレスをやめた為だけではない。
その口調が、今まで我儘放題だった娘とは思えないほど落ち着き払ったものだったからだ。
まるで、妙齢の女性のような言葉ぶりだった。
娘がこんな事を言い出した理由について、思い当たる節はある。
先月、娘と王太子殿下が正式に婚約した。
目的はもちろん王家と公爵家の結びつきを強化する為だから、王太子殿下へ好意を寄せていた娘の想いが実ったわけではない。
けれど、それを知っていてもなお娘は喜んでいた。
気持ちは分かる。私も、氷の貴公子と謳われた夫との婚約が決まった時はとても嬉しかったから。
少しでも彼に気に入ってもらえるよう、ドレスやお化粧から立ち振る舞いまで全てに力を入れたものだ。
結婚して始めて迎えた夜、実は夫も私と同じ気持ちだったと知らされた時は、それこそ天にも昇るような思いだった。
娘も、私と同じように少しでも王太子殿下に気に入られようと意気込んでいるのかもしれない。
あの子の、同年代の少女を殿下に決して近寄らせようとしない独占欲には頭を悩ませていたから、ちょうどよかった。
公爵家の令嬢としては、あまり褒められない振る舞いだもの。
好きな人に自分だけ見ていてもらいたい気持ちは、痛いほど分かるけれど。
「そう。それはいい事ね。
もう少し自分の独占欲を押さえれば、殿下とも仲睦まじくなれるでしょうから」
「え……」
励ましのつもりで掛けた言葉を聞いて、娘の顔色が変わった。
それはもう、熱がぶり返したのかと心配になるほどに。
「どうしたの、マリー?」
「頭が痛むのかい? それとも、気分が優れないのかい」
「まさか……もう手遅れだったというの……」
問いかける私たちをよそに、娘は空中を見つめて何事かを呟いていた。
やはり、体調が完全に治っていないのかもしれない。
部屋の隅で待機していた侍女達に娘を部屋まで送るよう命じようとした瞬間、娘が勢いよく顔を上げた。
「お父様、お母様。その婚約、なかったことには出来ませんか?」
「ええ?」
声を上げたのは私ばかりではない。
普段は表情が顔に出にくい夫も、この時ばかりはとても驚いていた。
初めて殿下にお会いした時から一週間前に熱を出して寝込むまで、娘は口を開くと殿下の話ばかりだったというのに、どういう心境の変化なのかしら。
もちろん、そんなことが出来るはずもない。
公爵家から婚約破棄を申し出れば、間違いなく王家との関係性は悪化する。娘の次の婚約者もなかなか見つからないだろう。
いつまでも結婚せずにいれば、夫や私が亡くなった後にこの子が苦労するのは明白だ。
家の為にも、マリーの為にも、そんなことはできない。
「……分かりました」
私と夫の説明に納得したのか、娘は静かに頷いた。
その目に明らかな諦めが宿っていたのは、きっと気のせいではなかったのだろう。
その時から、娘は変わった。
トップデザイナーでも思いつかないような斬新なドレスをデザインしたかと思えば、それまでは観賞用として扱われていた「コメ」という作物を使って全く新しい料理を発明するといった、多くの才能を開花させ始めたのだ。
今までももちろん優秀だったけれど、それはあくまで七歳の子供としての話でここまでではなかったはずなのに。
十三歳になった頃には、娘の多才さは社交界でも噂になっていた。
才能だけでなく、性格も変化した。
これまでの我儘ぶりが嘘のようになりをひそめて、メイド達を気遣うようになった。
もちろんそれはいいのだけれど、時折気遣いがいきすぎることがある。
身の回りのことくらいは自分でやれるからとメイドを呼ばずにドレスを着替えようとしたり、部屋を掃除しようとしたり。
先日、新入りの侍女とまるで友人のように話しているのを見た時など、思わず倒れそうになった。
彼女たちは使用人で、私たちは貴族。
その線引きを間違えれば、お互いの不利益となるだけなのに。
「使用人とあまり親しくするのはよしなさい。あなたは公爵令嬢なのですよ」
そう窘めた私を、娘は心底「失望した」という目で見つめた。
「お母様、使用人だって人間です。
どうして身分で差別しようとするのですか?」
「マリー、あなた……」
少し前までは理解していたはずの貴族の常識を、娘はすっかり忘れたようだった。
絶句した私を見て、娘が更に口調を強くする。
「貴族というのは、平民がいてこその存在でしょう。
それなら、彼らを平等に扱うべきだと思います。
失礼いたします、お母様」
そう言って娘は、私の言うことなど聞きたくないと言うかのように背を向けて歩き出した。
私は、娘の凜とした後ろ姿をただ見送ることしか出来なかった。
使用人が娘のことを「我儘をおっしゃらなくなった」「お優しくなられた」と噂しているのは知っている。
娘のおかげで公爵領の利益が伸びていることも。
多くの才と美貌を兼ね備えた娘を持つ私は、世間一般からすれば恵まれているのだろう。
実際、周囲の人々は口々に娘を褒め称えて、そんな娘をもって幸運だと言ってくる。
けれど、私は昔の娘が好きだった。
少し我儘なところがあって、今のような多才さはなかったけれど、たった一人の私の娘。
こんな事を思うのは母親失格なのかもしれないけれど、私は今の娘を娘とは思えなかった。
どこか年不相応なものが見え隠れする口調や振る舞いは、まるで娘の中に別人が入っているようにしか感じられない。
そんな馬鹿げたこと、あり得るはずがないのに。
「マリーは最近、宰相や騎士団長の息子達と仲がいいようだ。
二人きりで部屋に籠もって話をしたり、抱きしめ合ったりしていたと報告を受けた」
「まあ……」
その夜、マリーの様子を相談しようと夫の部屋を訪れた私に告げられたのは、これまでよりも更に驚くべき事実だった。
マリーは既に殿下と婚約している身。当然、異性との噂が立つような行為は避けなければならない。
まして、抱きしめ合うなどふしだらな真似が外部に知られたらどうなることか。
侍女をつけておいたはずなのに、どうしてこんなことが……。
「うん、私もそれは気になってね。
調べさせたのだが、どうやらマリーは自分付きの侍女をすっかり手懐けているらしい。
二人きりになりたいというマリーの指示に従って、部屋を出たそうだ。
ひとまず彼女たちは解雇して、新しい侍女をつけさせたが……全く。マリーはどうしてしまったのか」
「明日、私からも再度叱っておきます」
「すまないね。こんな時に大変な思いをさせて」
そう言って、夫が私の膨らんだお腹をそっと撫でた。
医師によれば、もういつ生まれてもおかしくないらしい。
この子が生まれたら、娘に構える時間は今より少なくなる。
今のうちに、あの子に公爵家の令嬢としての生き方を教えなければ。
その試みは、実行に移す前に終わった。
「お父さま! アンナ達を解雇したというのは、本当ですの?!」
「マリー、静かになさい」
「黙ってなどいられません! わたくしの大切な友人達を、どうして……」
その言い分に、少し目眩がした。
侍女は侍女。友人ではないと、昨日あれだけ言って聞かせたのに……。
娘は納得していないようだったから期待はしていなかったけれど、どんなに小さな子供でも分かるはずの理屈をどうして娘は忘れてしまったのかしら。
「彼女たちは自分の職務を放棄した。だから解雇した。それだけだ」
「職務? アンナ達は、とてもよく働いてくれて……」
「君を宰相や騎士団長の息子達と二人きりにさせたのは、どんなときでも君に付いているようにという私の命令に反している」
「そんな! マーカスやカールは、単なる友人です」
「最近は、ただの友人と抱きしめあうことが普通なのか?」
夫の言葉に、娘の顔が真っ赤に染まった。
今の反応を見る限り、自分の行動が周囲にどう見られているのか自覚がなかったのかしら。
それが羞恥ではなく怒りによるものだと気がついたのは、娘の声を聞いてからのことだった。
「あれはただ、マーカスを慰めていただけです。
お母様も、私がマーカスと幼い頃から交流があることはご存じでしょう。
それなのに、どうして……」
声を荒げた娘を遮って、夫が更に言葉を続けた。
「それを判断するのは君ではなくて私だ。
マリー。君はこの頃疲れているようだ。
顔を合わせる度、殿下に「いつ婚約破棄してくださっても構わない」と告げているそうだね。
この婚約はあくまで政略の為、ということを忘れたのかな」
「それは……でも、殿下は将来私との婚約を破棄して、他の女性と……」
他の女性と?
娘の言葉が気にかかったのか、夫の言葉も途切れた。
もしかすると、自国の公爵家ではなく外国の王女を婚約者として迎え入れようという動きが王家であったのかしら。
だとすれば、大問題になりかねない。
「他に、マリーよりもふさわしい身分の女性がいると殿下がおっしゃったのか?」
「いえ、そんなことはありません。
ただ、殿下には近い将来、もっとふさわしい方が現れるのです」
それからは、夫や私が何を言っても「将来婚約は破棄される」の一点張りだった。
まるで、それが既に決まったことなのだというように。
悩みすぎたせいか、先ほどから腹部が妙に痛む。
気のせいかしら、時間が経つごとに増しているような……。
その時、景色がぐらりと揺れた。
「エミーリア!」
「お母様!」
二人の声が重なって耳に届く。
あの子が変わってしまう前、私が熱を出した時にお見舞いに来てくれた時の娘と同じ声。
ああ、よかった。私たちの娘はちゃんとここにいた。別の人間なんて入っていなかった。
今までの違和感は全部、私の考えすぎだったに違いない。
安堵に包まれながら、目を瞑る。
そこで意識が途切れた。
その後の事は、よくおぼえていない。
あの痛みはどうやら陣痛だったようで、子供の為にも朦朧とする意識をつなぎ止めることに必死だったから。
その甲斐あってか、産まれた子供―――アレクシスは、とても元気なようだった。
「よく跡取りを産んでくれた」と喜ぶ夫の顔を見ると、これまでの悩みなど全て忘れてしまいそうな気分になる。
ただ一つ、気になることと言えば。
「十三下の弟……やっぱり、ゲームと同じなのね。
シナリオの強制力は、どうあっても変わらないのかしら……」
生まれた弟をみて暗い顔をしていたマリーが、ぽつりと呟いた一言だった。
私は目を閉じていたし、夫や医師は向こうの部屋で話をしていたから誰も聞いていないと思っていたのかもしれない。
ゲームもシナリオも、私にはよく分からない。
でも、もしそれが娘を悩ませている原因なのだとしたら、それを取り除いてあげたい。
私はマリーの母親だもの。
「お母様……」
悲しそうな顔をしたマリーが、ベッドに横たわる私の手を握った。
アレクシスを産んだ後、私の身体は弱っていく一方だった。
もともと私の身体はあまり強くないから、分かってはいたけれど。
夫は必死に医師や薬を手配してくれていたけれど、死期が近いことは他でもない私がよく分かっているから止めてもらった。
薬で延命するよりも、少しでも長く夫やマリー達と一緒にいたいから。
けれど、それもそろそろ終わりのようだ。
一つ呼吸をするごとに、命が吐き出されるのが分かる。
「お母様。お願い。死なないで」
「私もまだあなたたちの傍にいたいけれど、もう無理みたい」
「そんな……」
マリーが息を詰まらせた。
私が倒れてからと言うもの、マリーは様々なハーブや薬草を煎じたり、魔法で私を癒やそうとしてくれた。
思っていた以上に長く生きられたのも、マリーのおかげかもしれない。
「マリー。どうか泣かないで……」
ベッドの上に突っ伏したマリーの頭をそっと撫でる。
その時、マリーの口から小さな言葉が漏れた。
「やっぱり、ゲームの強制力が働いてるのね」
まただ。
また、ゲームや強制力という言葉が出てきた。
ああ、やはりこの子はそれらに悩まされているのね。
「かわいいマリー……最後に一つだけ、教えてちょうだい。
あなたは一体、何に悩んでいるの?」
「お母様……」
夫によく似た紫水晶の瞳を潤ませたマリーが、じっとわたしを見つめた。
震える唇が、そっと開く。
「あのね。わたくし、本当は……」
その後マリーが語ったことは、信じられない事実だった。
あの、高熱を出した後。
マリーの中で、こことは異なる世界で「オオツカ ルミコ」という別の女性として生きていた記憶が蘇ったらしい。
そこでマリーは、この世界の未来を「ゲーム」としてプレイしたと言った。
「悪役令嬢」のマリーは婚約者である殿下を平民の女性に取られ、断罪される役割だったとも。
「記憶が蘇って以来、わたくしは断罪されない為に生きてきたわ。
マーカスやカールと仲良くしたのも、味方を増やして断罪されない為よ。
でも、ずっと不安だったの。
私がどんなに努力してもシナリオの強制力は変わらないんじゃないかって。
だって、シナリオ通りに弟は生まれたし、薬草の品種改良に取り組んで医療の質を改善させたのに、お母様はこうして死にそうになっているもの。
お母様。どうか、どうか死なないで」
……ああ。
そう。そうだったのね。
「マリーは、あの時からもういなかったのね」
「お母様、何を言っているの? マリーはここにいるわ。私がマリーよ」
マリーの皮を被った少女が何事かを叫ぶ。
違う。この子はマリーじゃない。
ずっと……あの子が変わってからずっと言いたかった言葉をそれに投げかける。
「あなたは「オオツカ ルミコ」でしょう。
マリーは、厨房に入ったり木登りをしたり、男性と部屋で二人きりになったりしないわ」
「それは……私、殿下よりもルーカスの方が好きだから……」
「マリーはね、殿下が大好きだったのよ。
縦ロールが好きだった。フリルのついたドレスが好きだった。
あなたとマリーで一つでも一致している好みがある?」
「…………」
だから、あなたはマリーじゃない。
私の、私と夫のたった一人の娘を返して。
そう言うと、オオツカ ルミコは呆然としていた。
どうして気がつかなかったのかしら。別人が、マリーの皮を被っていることに。
マリーが高熱を出した日、その魂は既に殺されてしまっていたことに。
「返して、返して、返して……」
手近にあったナイフを握ると、オオツカ ルミコは悲鳴を上げて私から離れようとした。
その手首を力一杯握りしめる。
死にかけの身体でも、渾身の力を込めれば引き留められるものね。
ああ、マリー。今更許してなんて言えない。けれど、せめてあなたの仇だけは取らせてちょうだい。
あなたを殺したオオツカ ルミコは、私がちゃんと地獄へ連れて行くから。
ナイフを振り下ろした瞬間、生暖かい液体が頬に飛んだ。