泣き虫と赤面症
放課後、友人と雑談をしているとまた一人、また一人と教室から出て行く。最後に残ったのは涼と春樹のグループだった。
それを確認した涼が春樹のグループを見ると、その内の一人が指で丸を作る。そして他の二人に目配せをして同時に鞄を手に取った。
「それじゃ帰るわ。じゃあなー」
「あ、え?」
会話をいきなり中断され、春樹は戸惑う。
「俺らも行くか」
「おう」
涼と話していた友人たちも荷物を持ち、涼を軽く叩いてから教室を出る。廊下に出た友人たちに唇で『ありがとな』と伝えると、親指を立てて扉を閉めた。
「あ……」
二人きりになって意図を理解したのか、春樹は慌てて荷物を手に立ち上がった。
「僕、用事あるから」
言い訳のように呟く春樹に追いつき、腕を掴んで振り向かせる。
「逃がさねえぞ」
だが春樹はうつむき、目を合わそうとしない。
「……忘れて」
懇願するような震え声に一瞬躊躇する。春樹の触れてはいけない部分に触れようとしている。だが涼には確信があった。拒絶の言葉を口にしながらも、自分に助けを求めている。
「あんな顔を見せられて、忘れられるわけないだろ」
観念したように掴んだ腕から力が抜け、春樹はすとんと椅子に腰を下ろす。
「……なんでキスしたんだよ?」
長い躊躇のあと、春樹は顔を上げた。だが口を開いても言葉が出ず、唇を噛んで目をそらす。涼はただじっと言葉を待った。
部活が始まり、遠くで運動部の声や笛、ブラスバンドの音出しの音色が聞こえてくる。その雑音がありがたかった。緊張で胸の中がムカムカとし始め、全くの無音だったら耐えられずに吐いていたかもしれない。二人きりでこんなに緊張したのは初めてだった。それほど春樹のことがわからない。
春樹は膝に置いた手を強く握りしめ、関節が白く変色していた。だがすっと力が抜けて色味が指す。
「好きなんだ。涼ちゃんのこと」
ぽつりと、独り言のように呟いた。
「いつから?」
「ずっと前、小学校の時から」
春樹は下を向いたまま顔を横に振る。
「気持ち悪いよね、ごめん」
「そんなことねえよ」
「……嘘でも嬉しいな」
「違う。俺はホントに……!」
訴えても春樹は顔を上げないまましゃべり続けた。
「涼ちゃんは昔から優しかったよね。明るくて、友達思いで人気者で。なのにいつも僕のことを気にかけてくれて、守ってくれた。それに……ずっと甘えてた」
「甘えてた? そんなこと……」
全く思わなかった。自分から離れていくことに寂しさを感じていたくらいなのに。
「涼ちゃん、僕が赤面をからかうこと、本当は嫌だったんでしょ?」
顔上げた春樹は目に涙をためていた。
「わかってた。だけど止められなかった。自分ではどうしようもないことをからかわれるのは、辛いって分かってるのに」
どうして、と言いかけて涼は思い出す。春樹も昔はすぐに泣いてからかわれていた。それを赤面症と重ねている。
「でも僕にはこれ以外に涼ちゃんの心に触れる方法が残ってなかった。涼ちゃんのことがどんどんわからなくなっていたから」
春樹も涼と同じように、昔からのやりとりを大事にしていた。なのにその意味は全く反対だった。涼は絆を感じ、春樹は罪悪感を持っていた。
「催眠術だってそうだ。直接聞く勇気が出なかったから、言い訳に使っただけ。涼ちゃんなら、かからなくてもフリをしてくれるって期待してた」
「……それだけじゃないだろ」
春樹は涼の気持ちを知るためだけでなく、赤面症が治ることに期待していた。そうすれば、今の変えようのない関係が変化を起こすかも知れない。あんな古い雑誌にすがるくらいに追いつめられていたんだ。
「やっぱり涼ちゃんはすごいよ。僕のこと、何でもお見通しだ」
涙を浮かべながら春樹は微笑む。
「このままだと、一生弱虫のまんまだぞ」
声色を変え、誰かの口調を真似をする。
「昔、涼ちゃんが泣いてばかりいる僕に言った言葉。涼ちゃんは覚えてないかもしれないけど、僕はこの言葉で変わろうと思ったんだ。涼ちゃんに守られてばかりじゃ駄目だ。もう泣かないって決めた」
声が震え、滴になった涙が床に落ちた。
「……でもやっぱり僕は弱虫のままだ」
鼻をすすり、袖で顔を拭う。長い間流せなかった分が溢れたように涙は止まらない。
「涼ちゃんの近くにいると弱虫な僕は甘えちゃう。こんなの、良くないよ。だから──」
「止めろって」
その言葉を言わせるわけにはいかない。語気を強めて、涼は春樹の肩を掴む。
「お前は弱虫じゃねーよ! こうやって勇気を出して話してくれたじゃねえか」
「けど……」
「ずっと辛くて、苦しかったんだろ? なのにずっと気持ちを隠して俺の側にいてくれた。それを弱いなんて言わない」
ハッとしたように春樹は顔を上げ、涼の顔を真っ直ぐに見る。
「俺、お前の気持ちに気づけなかったのが悔しいよ。お前のことわかってたつもりになって、自分のことばかり考えてた自分にすげえ腹が立つ」
肩に触れた手に自然に力が入る。いつもの柔和な笑顔を見せながら、裏では泣いていたに違いない、どれだけ涙を流したのか涼には想像もできなかった。
「俺は嬉しいよ。お前の本音を聞けて嬉しい」
涼も弱虫だ。勇気を出して気持ちを伝えていれば、春樹にここまで辛い思いをさせずにすんだ。だから何もかも伝えてやりたい。
「俺、ハルの全てが好きだ。お前の顔見るとホッとするし、声を聞くと幸せな気持ちになる。お前の笑顔はカワイイし、お前になら赤面をかわかわれても幸せだ。お前が他の奴と楽しそうにしてると嫉妬するし、できるならお前とどんな時も一緒にいたい」
一息に伝えると頭が追いつかないのか、春樹は少しの間ぼうっとしていた。だが理解した瞬間、耳まで赤くなる。
「あ……そんな」
目線を泳がせる春樹を涼は抱きしめた。
「それにハルは俺のこと見くびってるぜ」
「え?」
「甘えたいならいくらでも甘えろよ。俺は全部受け止めてやるからさ」
背中を昔のように優しく叩くと、息を詰まらせる音が耳元で鳴った。宙に浮いていた手が背中に回され、ぎゅうと制服を掴んで握りしめる。
「……ズルいよ。そんな格好良いこと言われたら、また好きになっちゃうじゃん」
息が震え、咳を切ったように春樹は泣き始める。しゃっくりが混じり、何度も鼻をすすった。
「制服、汚れちゃう」
離れようとしたが、涼はさらに手に力をこめる。
「いいから」
髪をくしゃりと撫でると、春樹は肩に顔を押しつけ、声を上げて泣いた。
長い間泣き続け、ようやく落ち着いた時には春樹の目は真っ赤に腫れていた。
「落ち着いたか?」
「……うん」
涙は完全には止まらず、揺れた器から零れるように不意に涙がにじむ。拭う袖も濡れきってしまい、何かないかポケットをまさぐる。すると、ハンカチが出てきた。
「これ使えよ」
春樹は苦笑する。
「なにこれ、シワシワだ」
長い間入れっぱなしになっていたハンカチは潰れていた。
「う、うっせーな。つかわねーならしまっちまうぞ」
手に押しつけると、春樹はハンカチを目に当てる。
「涼ちゃん、小さい時からずっとハンカチ持ってたもんね」
その言葉に涼は苦笑した。ハンカチを自分の為に使ったことは一度もないのに。お互いの気持ちが通じても、気づいていないことはまだたくさんある。
それを少しずつ知っていきたい。そう涼は強く思った。
***
「でさ。俺たち、そういうことでいいんだよな?」
「なにが?」
春樹の涙が落ち着き、帰り道の途中で涼は尋ねる。
「その……付きあう、っつーことだよな?」
顔を見れずに、空を見ながら尋ねる。夕焼けで良かった。でなければ、真っ赤になった顔を隠しきれなかった。
「う……うん」
「えっと、それじゃ……よろしくな」
「うん。よろしく」
それきり会話は止まり、無言のまま歩き続ける。顔の熱さは収まっていくが、代わりに体や心が太陽に照らされたようにじんわりと温まる。心地良いのにむずがゆくて、体がかゆくなる。
もっと話したいのに、何を話しても浮ついた会話にしかならなさそうで言葉が出ない。けれど次第に今日の別れが近づいてくる。明日もまた学校で会えるのに、別れを挟むことが寂しかった。
もっと一緒にいたい。そんなことを言ったら引かれるだろうか。
いつも別れる交差点にさしかかると、勇気を出して涼は春樹に向き合った。
「あ、あのさ、ハル──」
すると目の前に春樹の首元が見え、額に柔らかい感触がした。
顔を離した春樹は笑顔を見せる。
「ばいばい。また明日」
「ば……ばいばい」
放心状態のまま、手を振って春樹を見送る。その姿が角に消えると体の力が抜け、その場にしゃがみこんだ。
「はー」
額を両手で抱える。今になって顔が熱くなってきた。その中でも唇が触れた場所だけ、さらに熱い。
「……なんでオデコなんだよ」
小さく毒づく。もっとして欲しい場所があったのに。
心臓の鼓動が耳を強く打つ。キスされたからだけじゃない。夕日に横から照らされた春樹の顔が妙に大人びて見えて、息ができなくなった。可愛いと思っていたのに、あんな格好いい顔をするんだ。ギャップが大きすぎて気持ちが落ち着かない。
大きく深呼吸を三回して、ゆっくりと立ち上がる。春樹が曲がった角を見つめた。
落ち着くと急に悔しくなってくる。まんまとしてやられてしまった。
明日は俺からキスして驚かせてやる。
そう決心して家へと歩き出す。いつキスをしてやろうか。様々な場面を想像してみたが、なぜかそれらは全て失敗しそうな予感がした。
理由がわからず、今までの春樹とのやりとりを思い出す。すると、ふとあることに気づいた。
涼はずっと春樹のことを守ってると思っていた。だけど本当は、春樹に振り回されていたんじゃないだろうか。
「んなわけねーよ」
声に出して迷いごとを頭から追い出し、悪巧みを再開する。
だが何度も想像の中で失敗し、春樹に「何やってるの」とからかわれる。その度に頬が熱くなったが、不思議と嫌ではない。むしろそれを期待している自分がいた。
了