五円玉と涙
放課後、お互いの時間が合えば。そんな消極的な約束しかできなかったせいで、進展は遅かった。涼のソフトテニス部と春樹のバスケ部の休みの合う日は火曜しかなく、週に一度のペースで催眠術は進められた。
だが催眠術には相変わらずかからず、春樹はあれ以来、変わった素振りは見せない。催眠術というよりカウンセリングに近かった。
「どんな時に顔が熱くなる?」
「恥ずかしい時」
「赤面症に気づいたのはいつ?」
「幼稚園の時」
「あれ、そんなに前なんだ」
春樹は驚きの声を出す。
当然だ。小さい時、涼は春樹に決して赤い顔を見せなかった。
その頃の春樹はよく弱虫だといじめられいた。背が低く、大人しくてすぐに泣く。いじめっ子が目をつけないはずがない。それを涼はいつも助けていた。弱い奴は見ていてイライラしたが、それをいじめる奴らはもっと嫌いだったから。
そんな涼をいじめっ子たちは、ヒーロー様だと呼んでからかった。今なら間違いなく顔が赤くなるアダ名だが、同時は純粋で、そう呼ばれることに誇りを持ち、らしく振る舞おうとした。
大粒な涙を流して泣く春樹を抱きしめ、背中を叩いて落ち着かせる。泣き止まなければハンカチを手渡す。強く鍛ようと一緒に空手を習ったこともある。だから赤面症が出るようになってからも弱い所を見せまいと必死に隠した。
たが春樹への気持ちが『好き』に変わると、もうコントロールできなかった。おそらく春樹はその頃に赤面症になったと思っているのだろう。
「初めて自分が赤面症だと思ったのはいつ?」
「わかりません」
春樹は質問を続けたが、無難な答えを返す。春樹の問題も、涼の問題も進展はほどんどない。
せっかく二人きりになれる時間を無駄に使っている気がした。そろそろ中止を提案してもいいかもしれない。この時間があれば、どこかに遊びにいける。
「うーん。今日も駄目か」
今日はこれで終わりそうだ。少し時間があるからカラオケでも誘ってみよう。そんなことをぼんやりと考えていた。
「ねえ」
急に声をかけられ、つい返事をしかけたが、声色がいつもと違うことに気づく。口調は軽いのに、諦めの混じりどこか悲しげな声だった。
「涼ちゃんは僕のこと……好き?」
その言葉は涼には広すぎて、即答できなかった。
春樹のことは好きだ。涼は催眠術にかかっているのだから素直に答えればいい。けれどその言葉を口にすれば、確実に赤面してしまう。だが友達としては好き、と答えるのは不自然だ。
気持ちが揺らぐ。今なら本当の気持ちを言っても催眠術にかかっていたと言い訳が出来る。この気持ちを春樹に伝えられる。長い間抑え続けていた思いが、少しずつ溢れてきた。
「俺は……」
答えを言う前に頬に熱を感じた。赤面したのではなく、誰かの手が頬に触れたのだと気づいた時には唇に何かが触れていた。
「え……」
目を開けると、目の前に春樹の顔があった。重ねられた唇はわずかに震えていて、顔を離すと唇同士が弱く貼りつき、皮膚がわずかに引っ張られる。
「ハル?」
今、キスされたのか? 唇に残る体温と感触に、顔が一気に熱くなった。
「あ……」
気持ちがバレてしまう。手で顔を隠して俯こうとしたが、その前に春樹の顔が目に入る。キスしたのに泣きそうな顔をしていた。唇をかみしめ、ぐっと手を握りしめる。
「僕……弱虫だ」
そう吐き捨てると春樹は鞄を掴み、止める間もなく教室から出て行く。
呼び止めようとした手は中途半端な位置で止まり、涼は廊下を走る足音をただ聞いているしかなかった。
悩み続け、眠れないまま朝になった。
寝不足の体を動かし、登校して教室へ向かう。入る前に中の様子をそっと伺い、春樹がいないことを確認する。ほっとして自席に座ると腕を枕にして目をつぶった。春樹にどう声をかけるか、まだ決めかねていた。
「おほよぉー」
そこにあくび混じりの挨拶が聞こえた。顔だけを上げて見ると、春樹がクラスメイトと挨拶を交わしていた。涼と目が合うと、手をひらひらと振って柔和な笑顔を見せる。
「涼ちゃん、おはよー」
「お、おう。おはよ」
斜め前の席に座り、クラスメイトと会話の再開する。
それだけ、なのか。あまりの淡泊さに拍子抜けし、同時に困惑した。
キスされたのは驚いたけど、嫌じゃなかったのに。
もしかしたら春樹も涼のことが好きなのかもしれない。冗談でキスをするような奴ではないから。そんな反応を期待していたのに、何もなかったかのように振る舞っている。
まさか昨日のことは夢だったのだろうか。本当に催眠術にかかり、そう思いこんでいるんじゃないだろうか。疑心暗鬼になっていると春樹の横顔が見え、整った形の唇に視線が向く。その感触を思い出して赤くなった顔を伏せて隠した。
やはり昨日のことは嘘じゃない。なら、どうして何も言わないのだろう。
直接、問いただしたかった。けれどあの泣きそうな顔が、弱虫という言葉が邪魔をしていた。あの時の春樹はキスしたことを後悔しているように見えた。
涼は髪をぐしゃぐしゃとかき回す。
なんでこんなに春樹のことがわからないんだろう。昔は何でも話せて、考えていることが話さずとも理解できたのに。
考えてみると、二人の関係が変わったのは、春樹が泣かないようになってからだった。ある日から、泣いても「泣いてない」と急に意地を張りだし、その理由を聞いても答えてくれなかった。
初めて春樹の気持ちがわからなくなって、幼心にショックを受けたのを覚えている。
その時に生まれた距離がいつの間にか、話しかけられないほどにまで開いてしまっている。
ふと春樹が涼を見ていることに気づいた。眉を下げ、悲しげで、何か涼に訴えようとしている。弱虫と言った時と同じ顔だった。
「……」
すぐに顔を前に向けて、会話にもどる。けれど何かが引っかかった。何か大事なことを忘れている。
授業中も涼は必死に考えた。あと少しで何かを思い出せそうだった。
毎日のように泣いていた時、春樹は──。
「あっ!」
涼は声を出して立ち上がる。
「うーさーかーわー?」
苛ついた声で名前を呼ばれて我に返る。数学教師が腕を組み、苛ついた声を出す。授業中なことを忘れていた。
「あっ、えっと……。すいませーん。エロい夢見てましたー」
ポケットに手を突っこみ、勃起してるように指を立てる。教室が笑いに包まれ、背中を友人に叩かれながらも、涼は背中を向けたままの春樹から目を離せなかった。
どうして忘れてしまっていたんだ。昔ならすぐに気づいていたのに。
春樹が泣くのは、涼に助けを求めている時だ。