催眠術と幼なじみ
秋は嫌いだ。嫌でもセンチメンタルな気分にさせられる。
教室の窓から外を見ると、寂しくなった街路樹に一枚だけ葉が残っていた。冷たい秋風が吹くと、枝からちぎれて地面に落ちる。乾燥して丸まった葉はそのままボールのように転がっていく。
右に左に動いていたが、やがて吹きだまりになった流し場の凹みに入り、、他の枯れ葉と混ざって区別がつかなくなる。
「宇佐川?」
まるで人生みたいだ。ひとたび寄り木を失ってしまえば、世間の冷風になすすべもなくもてあそばれる。風の弱い場所に逃げこんでも、そこには同じような葉が集まる。次に起こるのは人間関係の軋轢だ。枯れた体を互いにぶつけ合い、最後には粉々になって土に還る。
「おい、宇佐川」
遠くで自分の名前が呼ばれたような気がした。けれど答える気になれず、また思考の渦に入ろうとした時、するどい痛みが額に走った。
「いてっ!」
我に返り、額を手で押さえる。当たったものを目で追うと、輪ゴムが音もなく床に落ちた。
誰だ? と思った瞬間、押さえつけるような怒声が響き、涼は肩をすくめた。
「おい宇佐川涼!」
「は、はい?」
前を見ると、数学の教師が黒板の前で不機嫌そうに腕を組んでいた。
数学担当なのに体格が良く、筋肉を見せるためか半袖のポロシャツを着ている。その四角く太い指で黒板を荒くノックした。
「前に出て、この問題を解いてみろ。授業中にぼうっとしてる余裕があるなら簡単だよなぁ?」
黒板には連立方程式の問題が書かれていた。x、y、zの文字が混ざった式が三つ並ぶ。記号が二つのものは見たことはあるが、三つは初めてだった。もちろん二つでも解き方はわからない。
「早くしろ」
ノックで急かされて仕方なく前に出ようとした直前、斜め前の男子生徒がすっと手を上げた。
「先生ー、僕が解いてもいいですか?」
どこか呑気そうな声で、苛立っている教師にも臆せずに聞く。
「織山か。じゃあ、やってみろ」
「はい」
織山春樹は立ち上がる時に一瞬だけ涼を見ると黒板に向かった。チョークを手に取り、よどみない動きで連立方程式を解いていく。
「できました」
「よし、正解だ。良かったな宇佐川、良い友達がいて」
軽い嫌味を言われただけなのに、ほんのりと顔が熱くなる。
……また赤くなってしまった。
周りに気づかれないよう机に頬杖をつき、顔の半分を手で隠す。
すると自席にもどりながら春樹は教師に見えないように胸の前に手を上げる。指を伸ばして銃を作ったかと思うと、銃口を涼に向け、イタズラっぽい笑顔と共に音の出ない弾丸を発射した。
***
休み時間になってすぐに涼は席を立ち、春樹の肩を小突く。
「ハル、余計なことすんなよ」
「えー? 助けてあげたのにひどくない?」
「誰が助けてくれって言ったんだよ」
「だってあのままじゃ、涼ちゃんみんなの前で顔真っ赤になってたでしょ。からかわれるのわかってるのに、放っておけないよ」
もしあのまま前に出て、みんなの前で嫌味を言われていたら耳まで真っ赤になっていただろう。その光景を想像しただけで顔が熱くなる。
「う、うるさいな。体質なんだからしかたねえだろ」
赤面症じゃなくて、緊張や汗など見えないものなら良かったのにといつも思う。顔は隠しようがなく、一度赤面すると、周りに見られているのが恥ずかしくてますます赤くなってしまう。
「まあ……助かったけどさ。ありがとな」
「どういたしまして」
春樹はまだ丸みは残っているが整った顔をしている。落ち着いた雰囲気と誰にも公平に接する優しい性格。そのおかげか『信用出来る奴』とクラスで一目置かれていた。ただお節介なところもあり、それが気に入らなくて涼はその度に春樹を小突く。
「けど別にハルに助けてもらわなくても、どうにかできたんだぜ」
例え赤面したとしてもボケて笑いに変えてしまえば良かった。この体質とは長い付き合いだから対処法くらいは身につけている。
「けど、涼ちゃんは本当は嫌なんでしょ?」
「う……」
言い当てられて涼は黙りこむ。
「赤くなった。当たりだね」
「人の顔で答え合わせすんな」
少し力を入れて肩を叩くと、「痛いよ」と苦笑で返された。
恥ずかしいなら自分から道化になればいい。だけど春樹の言うとおり仕方なく演じている部分はあった。ただ根本的な解決にならなくても、からかわれるよりはマシだ。
「でね。そんな涼ちゃんにいいもの見つけてきたんだ」
春樹は鞄の中から一冊の雑誌を取り出して机に置く。
「じいちゃんの家にあったんだ」
とても古い雑誌だった。聞いたことがない名前で表紙には空飛ぶ円盤や、顔まで青一色のタイツを着こんだ男が銀河をバックに座禅を組んだ絵が描かれている。
そして古くさいゴシック体で、『アカシックレコードは夢とつながる』『ムー大陸の痕跡、沖縄で発見』『クリスタルスカルが予言する人類滅亡の日』とものものしい単語が並ぶ。
「なんだこれ」
「夏休みに行った時に倉庫で見つけたんだ。暇だったから読んでたら、涼ちゃんにぴったりの記事があってさ」
春樹は雑誌を手に涼の隣に移動する。そのまま無理やり同じ椅子に腰を下ろし、押されてお尻が半分中に浮く。
「こら。もうちょっと遠慮しろ。お前デカいんだから」
肘で押しやろうとするが、ビクともしない。
春樹は涼よりも十センチ近く背が高い。昔は逆だったのに、学校が上がってから急に伸びて逆転されてしまった。なのに行動は昔と変わらないせいで、身の危険を感じることが度々あった。いきなり背中に飛び乗られて、何度潰されたことか。
「僕は平均くらいだよ。どちらかっていうと涼ちゃんが小さいんじゃない?」
俺だって伸びてはいると主張しようにも、涼の身長はクラスで一番低かった。悩みすぎてシークレットシューズを買って親にバレて笑われたことを思い出し、ほのかに顔が熱くなる。
「う、うっせーな! 俺は遅生まれだから今から成長期なんだよ! ほら、いいから見せろ!」
雑誌をひったくって広げると乾ききった紙がかさついた音を立てる。
四十年近く前のものだった。ページの外側は茶色に変色し、インクも劣化して荒い印刷がさらに荒くなっている。まるで古文書を本にしたような印象を受けた。
「ここ」
春樹が本の一部を指さす。その拍子に頭が近づき、長めの髪が涼の耳をくすぐった。すると心臓が音を立て、頬が熱を発し出す。さらにいつも使っているシャンプーの匂いがすると、さらに顔が熱くなった。あまりに熱すぎて春樹に伝わっていないか不安になる。
「どうかな?」
「ん? 何が?」
「何がって……記事がだよ」
いつの間にか『催眠術でコンプレックス解消』という記事のページが開かれていた。
「これ試して……あれ、どうかしたの?」
春樹が涼を見て、顔が赤いことに気づく。
「あ、いや。こ、これだよこれ」
とっさに目に入ったイラストを指さす。女性に催眠術をかけるシーンが劇画タッチの漫画で描かれ、なぜか裸で胸が露わになっている。
「涼ちゃん、エッチだなぁ」
春樹が苦笑すると涼は心の中で安堵のため息をつく。
良かった。なんとか誤魔化せた。
涼は春樹のことが好きだった。
小さい時から一緒だから、いつ好きになったのかはわからない。けれどいつの間にかただの親友ではなくなっていた。
春樹は涼の気持ちに気づかず、今までと変わらず体を近づけ、着替えの時は目の前で服を脱ぐ。けれど葉を隠すなら森の中。いつも赤面しているからか誤魔化すことができていた。それだけは赤面症に感謝していた。
「なにボーっとしてるの? もしかして風邪?」
手を伸ばし、額に触れようとしてくる。
「ち、ちげえよ。チンコ勃っちまったから他のこと考えてたんだよ」
「……声大きいよ」
呆れた顔をされ、涼はさらに赤くなった顔を伏せて記事に集中する。
それは催眠術でコンプレックスが解消できるというものだった。催眠状態にはいった相手とカウンセリングを行い、深層心理にある原因を探り出すとある。文章は断定調で書かれ、専門の医師のコメントも掲載されていた。
「うさんくせー。こんなの嘘に決まってるだろ」
「待ってよ。もうちょっとだけ読んでみて」
仕方なく続きを読んでいると、不意に『今では使用が禁止された単語』が現れて涼はドキリとした。これは読んで良いものなのだろうか、不安になりながら読み進めると、、そんな人間を治すと自信ありげに書かれていた。
「すごいでしょ」
「ああ」
春樹も同じインパクトを受けたようだ。胡散臭いと思うのに、もしかしたらと思わせる妙な説得力がある。
「やってみようよ。赤面症、治るかもしれないよ」
「けど、俺は別に……」
あまり乗り気にはなれなかった。涼だって赤面症は治したいが、そしたら春樹への赤面を誤魔化せなくなる。春樹への気持ちを感づかれたら今までの関係を続けることはできないだろう。
ただでさえ学校が上がり、交際範囲が広がったことで二人の時間は減っていた。別の部活に入ったことで春樹には涼の知らない友達が増えた。それは悪いことではないと思う。けれど知らない奴の話を楽しそうにされたり、自分以外の人と楽しそうに話しているのを見ると嫌でも嫉妬してしまう。
俺以外の奴と仲良くすんな。何度そう言いかけたか覚えていない。だが春樹には春樹の生活があり、涼にはそれを邪魔する資格はないのもわかっている。
だから少しでもつながりは残しておきたかった。こうやって昔から繰り返している赤面症の話をすることで二人の時間は減っても、自分たちはまだ特別な関係だと確認できたから。
その為ならいくらからかわれても、道化になっても構わない。
「大丈夫だって。ちゃんと練習してきたから!」
だが涼のことを思う春樹の気持ちを無下にするのも気が引けた。
「……わかったよ」
十数年近く続いたものがそう簡単に変わるはずがない。どうせ効かないだろうと涼は楽観的に考えていた。
放課後の教室で二人っきりになると春樹はさっそく五円玉と紐を取り出し、穴に紐を通す。そして渋い顔をする涼の前に垂らした。
「うさんくせー……」
実際に目にすると文字の説得力が吹き飛ぶくらいに安っぽい。
「涼ちゃんだってやるって言ったでしょ。今さら止めたは無しだからね」
五円玉を揺らされ、涼は仕方なく目で追った。こうしていると催眠状態に入るらしい。
「顔は動かしちゃ駄目だよ。目だけ動かして」
「わかってるよ」
子供に諭すように言われ、頬の内側がわずかに熱くなる。
「貴方はだんだん眠くなってきます」
首に力を入れて目だけで五円を追うが、一分もすると飽きてきた。
「なあ、効かないんだけど」
「涼ちゃん、真面目にやってる? こういうのって本人にやる気がないと上手くいかないんだよ」
「はいはい」
けれどいくら続けてみても、それらしい兆候は感じない。逆に暇すぎて眠くなってきた。このまま寝てしまえば春樹はふてくされてしまいそうだ。今も真剣な表情で五円を一定のペースで揺らすことに集中している。
こうなったら演技でやり過ごそう。涼は目を動かしながら、それらしくゆっくりと瞼を下げていく。
「涼ちゃん?」
目を完全に閉じると、春樹が名前を呼ぶ。答えずにいると、「え……」と戸惑いの声が聞こえた。
「ホントにかかった……?」
あれだけ積極的だったくせに春樹は心底驚いていた。目の前で手を振ったのか、かすかな風が顔に当たる。すると雑誌のページをめくる音が聞こえ、春樹は質問を始めた。
「貴方の名前は?」
「宇佐川涼」
「えっと次は……身長と体重、誕生日を教えて下さい」
「151センチ。42キロ。二月四日」
雑誌の手順通り、住所や家族の人数など差し障りのない質問が続く。だがある質問の前に妙に長い沈黙があった。どこかためらいの混じった声で、次の質問を口にする。
「好きな人は、いますか?」
そんな質問はリストになかった。予想していない質問に思わず身じろぎしそうになったが、鼻で深呼吸をしてから答える。
「小川明莉」
「……どうしてですか?」
「胸が大きいから」
小さい時から春樹しか見ていなかったので、涼は女子を意識した経験はない。けれど友人とどの子が好きかの話題になることは多く、その中で普通の男子は可愛くて胸の大きな子が好きだと知った。
昔はどうして可愛い子の選択肢に春樹が入らないのか不思議だったが、同性をそんな目で見ることがないと知ってからは周りに合わせていた。
「そっか。そうなんだ」
わずかに声を震わせ、また春樹は黙りこむ。
どこか様子がおかしい。うっすらと目を開けて様子をうかがうと、狭い視界の中で春樹は背を向け、袖で顔を拭っていた。鼻をすする音がした。
泣いている?
春樹が振り向き、慌てて目を閉じる。その顔を見ることはできなかった。
「一、二の三で僕は手を叩きます。貴方はかかっていた間のことを全て忘れてしまいます。いいですか?」
「はい」
「一、二、三」
手を叩く大きな破裂音と共に、涼はそれらしく頭をガクリと前に倒す。顔を上げると意外そうに周囲を見回して見せた。
「あ、あれ? 俺、かかってたの?」
「うん。そうみたい」
「マジかよ……。すげーな、それでどうなったんだ? 原因わかったのか?」
春樹は顔を横に振る。
「ううん。上手くいかなかった」
机の上に広げていた雑誌を掴むと教室前に向かい、黒板横のゴミ箱に用済みと言いたげに放り入れる。
「あーあ、うまくいくと思ったのになー」
大きく背伸びをして体を伸ばす。柔和な表情もしゃべり方もいつもと変わりなく、それだけならさっきのことが嘘のようにも思えた。
「涼ちゃん、帰ろ」
「……ああ」
鞄を手に二人は教室を出る。話題は明日の小テストのことに移っていたが、涼は足を止め、先を歩く春樹を呼び止めた。
「あのよ」
「ん?」
「催眠術、またやってみようぜ」
「えー。でも効かなかったじゃない」
「いやー、それがさ。なんかさっきから体が妙に軽いんだ。もしかしたら、ちょっとだけ効いたのかも」
その場で反復横跳びをしてみたが、春樹は困惑した目を向ける。
「いいからやってみようぜ。カウンセリングだって一回じゃ意味ないんだからさ」
そのんまま強引に話を進め、しばらく催眠術を続けると約束させた。
春樹が何を考えているのか、わからない。
けれどその赤くなった目がどうしても気になった。