月の見えない空の下
「じゃあ、私先生に用事があるから」
十六夜は朝岡から逃げようと廊下の真ん中に立っていた彼の左側を通って職員室へ向かおうとしていた。
「あの男が好きなの?」
朝岡は十六夜に対して質問をした。
「さあね」
「ほんとに誰だよ、あの男」
「だから、あんたには関係ない」
「俺、お前のこと諦めないからな」
「しつこい」
「じゃあ何で月岡はあの男とあんな夜に会ってるの?俺じゃダメな訳?」
「あんたが思ってるような関係じゃないから。そんな付き合うとか低レベルなものじゃないの」
廊下から見える外の景色は猛吹雪が支配し、窓の角に粉雪が積もっていた。
「しつこいから。着きまとまわないで」
朝岡は何も言えずに黙っていた。
「私には時間がないの。早くしなきゃ時間が来ちゃうの」
小さな身体に付いていた真っ白な肌の頭はいつの間にか俯いていた。
「少ない時間しか与えられてないから、その限りない時間を俊に使いたいの。だからあんたには関係ないから」
十六夜は口を開かなくなった朝岡を背にして突き当たりを右に曲がった。
「ハクション!」
昨日の夜で身体が風邪に侵された。よく「くしゃみが出ると誰かが噂をしている」と聞いたことがあるが鼻炎持ちの俺にとっては1日に何回もくしゃみが出るためそんな通説は嘘だと自分の中で結論付けていた。しかし天気は昨日と急変して猛吹雪となっていた。1月の中旬に降った大雪の痕はまだ消えずに歩道に車が見えないほど雪が残っていた。北高のグラウンドにも沢山の雪が山となって居座っており、部室まで行くのに大変だと顔見知りの陸上部が言っていた。生徒よりも学校のブランドが何より大切に思っている自称進学校ではそろそろ学年末考査が近くなっており学校へ着いたら椅子に座って勉強している生徒がほとんどだった。そんな忙しい時期に入ったのか。と、心の中で思いながら「良くないこと」が起きる前兆なのか、身の毛がよだつような寒気が俊を襲っていた。
「38.5℃。こりゃ早退だね。両親と連絡取れる?」
「母は仕事で父はいません」
「あら、ごめんなさい。じゃあ保護者の方と連絡は?」
養護教諭の先生は決まりが悪そうな顔を隠しきれないまま俺にそう聞いた。
「祖母なら連絡が取れると思います」
「じゃあおばあちゃんに連絡と。翁長くんの緊急連絡先っと」
養護教諭は引き出しを漁りながら
「私が連絡してあげるから。あなたは口を開かないこと。マスクをちゃんとすること。いいね」
その後ばーちゃんが学校まで迎えに来てくれて病院へ行ったところインフルエンザと診断された。インフルエンザは実に小学生以来だった。「馬鹿は風邪を引かない」という言葉を聞いたことがあるが「馬鹿と陰キャは風邪を引かない」に訂正してみんなに発信したい。それくらい俺は風邪を引かなかった。インフルエンザってこんなに辛かったっけ?病院から自宅へは戻らずWiFi環境のないばーちゃんの家へ行き、そこで布団を敷いてもらって横になった。
「何か食べたいものでもある?焼肉?ステーキ?」
ばーちゃんがインフルエンザで寝込んでいる人に浴びせる言葉とは思えない健康な状態なら至福の言葉を俺に対して言った。
「今はいいや、とにかく寝てたい」
俺はそう言って目をつむり、次の日の朝まで寝ようとしていた。
「こうなるから東高の方が良いって言ったのに」
と、聞こえるようにばーちゃんが俺と反対の方向に独り言を放った。
インフルエンザになっても十六夜のことは頭にあったようで授業中だと思うが十六夜にLINEをした。
「昨日寒かったけど風邪引いてない?大丈夫?」
どうせ十六夜のことだ。こちらがどんな状態でも自分のことばかりだろう。早く返信してくるとは思わなかった。
「少ない時間しか与えられてないから」「あんたには関係ないから」日出の頭に十六夜が放った冷たい言葉が回っていて授業に集中できずにいた。外は猛吹雪。窓の景色を楽しむどころかストーブの効いた部屋でも身体が冷えてしまいそうで授業から逃げる要素を失い机に頭を伏せていた。部活もボランチの杉本に「具合が悪い」と言って放課後すぐに家路を辿った。家に着くと姉貴がストーブを独占しその前でココアを飲みながらスマートフォンの画面を見ていた。
「あれ、今日部活は?」
「ダルいから休んだ」
「あら、根性ないね」
「途中で部活を辞めたあんたに言われたくないです」
「ダルいから部活なんてやるもんじゃないでしょ?高校なんて特にみんなガチだからさ」
姉貴は中学の頃陸上部で800mを走っていたが高校に入って中学時代の緩い雰囲気とのギャップに圧倒されて3日で辞めた。
「なんか今日はヤケに落ち込んでいるように見えるね〜、どうしたの?」
「いや、別に」
「あ、こりゃ女だな」
「黙れ」
「へっへ〜、当てちゃった〜」
俺は何も言わずに黙っていた。少しして
「ココア飲む?お湯なら沸いてるよ」
「いや、コーヒーがいい」
「あんた寝らんなくならないの?気が知れないね〜」
「どうせ寝れるから」
「砂糖とミルクは?」
「いらない」
姉貴は熊のイラストが描かれているマグカップにインスタントコーヒーを入れてお湯を注いだ。「うわ、苦そ」と顔にも言葉にも出しながら俺のところへマグカップを持ってきてくれた。
「へい、お待ち」
「サンキュ」
「あんたがコーヒーを何もなしで飲むなんて、さてはかーなーり傷ついてますな〜」
「………」
描かれている熊のイラストが可愛らしいのも傷ついた心をジリジリとえぐっていた。コーヒーの香ばしさと苦味だけが哀愁を漂わせながら寄り添って慰めてくれているような気がした。
「んも〜う、そろそろバレンタインなのに、今年もチョコ貰えずに終わるの?寂しいね〜」
「マネージャーから3つ貰いました〜、実際は3個です〜」
「本命じゃないでしょ。なに義理でイキっちゃってんの」
「………」
俺は何とかして言い返したかったので言い返せそうな言葉を瓦礫の山ようにグチャグチャな頭の中に手を突っ込んで探した。
「姉貴はどうなん?好きな人いないん?てか、男にチョコあげる予定とかありそう。叶いもしないような人に」
「んー、それはないな。友チョコぐらい」
「ふーん」
俺は目を細めて視線を姉貴の目と焦点が合うように見つめた。
「そんな事をしたってないものはないですよ。ただのないものねだりですよ。日出さん」
俺はコーヒーを啜った。香ばしくて苦い大人の味が口いっぱいに広がって鼻から抜けていった。
「あんた、まさか自分でブラックがいいって言っといて飲んだら苦くて顔を歪ませてるの?」
姉貴は頬を膨らませてソファーに座っている俺に目線を下ろして目を細めた。「よし、こっから私の番だ」と姉貴の心の声が聞こえた気がした。
「馬鹿じゃないの。失恋したくらいでそんな落ち込んでいる暇なんてないのに。この間にも好きな人が好きな人に振り向いて貰えるように努力しているの。ほら、砂糖とミルクならキッチンにあるから」
俺はソファーから立ち上がり、同じ部屋にある冷蔵庫を開けて牛乳をマグカップから溢れ出しそうなくらい入れた。
「ほんと。あんたは馬鹿か」
姉貴の言う「馬鹿」は何も言い返せない。事実であり小さい頃から運動では勝てても頭を使うものは勝てなかった。元々頭を使うことはあまり得意ではない。思い切りの良さからサッカーではセンターフォワードとしての役割があるがそれがなかったらどうなっていただろうか。
たっぷり牛乳を入れたコーヒーを啜った。まろやかにはなったもののまだ苦かった。もうすぐバレンタイン。非リアな俺らには縁もゆかりも無いイベント。どうせ十六夜はあの男にチョコを渡すのだろう。そして俺はその男に嫉妬するだろう。嫉妬している男は格好がつかない。そう世間が言うのならば俺はノンスタの井上並にイケてない男だろう。そう言うならば隠さずそう言って欲しい。何事においても隠し事をされると嫌と人一倍思う人間だ。それは十六夜の事も例外ではない。だから本当の気持ちは正直に言って欲しいだけなんだ。