十六夜の7時に
その後、ばあちゃんの家に帰ってきたのが7時くらいになっただろう。予定より遅くなってしまったので心配されるかと思い、家路までの足取りが重かった。玄関の扉を開ける前、俺の左胸から心臓の鼓動が確かに聞こえた。たった一人娘の一人孫だった俺は祖父母からとても大切に育てられてきた。もし兄弟がいたならば、もし従兄弟がいたならばこんな気持ちにはならなかったのだろう。扉を開けたが何時ものように「お帰り、寒かったでしょう」というばあちゃんの声と暖気が優しく俺を包んでくれた。
「随分遅くなったね。何かあったの?」
母親が鍋を準備しながらストーブの前から断じて離れなかった俊に話しかけた。
「近くのスーパー行ったら白菜と豚肉がなかったの。だから遠くのスーパーに行ってきた」
「そうだったんだ。そんなんなら1回帰ってくれば良かったのに。車でそっちまで行ったのに」
グツグツと鍋が音を立てるのと同時にいい匂いがして俊の腹の虫を鳴かせた。
「……そろそろ出来るからもう少しだけ待ってて」
母親がそれを察して俊に向けて言った。
その後、大晦日は滞りなく過ぎていった。何故か心の中は十三夜から数えて3日後のことを楽しみにしていた。そういえば、十六夜は俺のTwitterとインスタをフォローしていたと言っていたことを思い出し、スマートフォンを出して調べた。俺のフォロワーはTwitterもインスタも100前後。だから十六夜のアカウントを容易に見つけられた。フォロワーは50前後。始めたばかりだったのか、投稿も12月4日からだった。インスタに関しては12月4日以降、俺の投稿全てにいいねがついていた。画像はTwitterにはほとんどなく、インスタには月の写真がある。自分の名前が月に由来している通り月が好きなのだろう。
1月2日は興味のない駅伝を見ながらばあちゃんの家でみかんを食べているが今年は今まで以上にどうでもよく感じた。早く会いたい。そんな気持ちになるのはいつ振りくらいか。もしかすると今までで感じたことのないくらいかもしれない。昨日の夜に降り積もった雪で外は銀世界になっていた。
昨晩、駅伝では緑のユニフォームの学校が往路優勝したので連覇をするのではないかと話題でテレビは持ち切りだった。そんな事はどうでもよく、今夜の晩、東高の近くにあるあの丘で十六夜と再会できるのだ。起きた時から分かる鼓動が心地よかった。ばあちゃんの家でグータラ生活をしていた母親と俺は家に届いた年賀状をポストから取り出し、各々休みが明けた特別とは遠く離れた日常の準備に明け暮れた。特に母親は夕方から夜遅くまでパートが入っているらしく朝からとても忙しそうに狭いアパートの中を往復していた。外は消雪パイプで雪を解かしていて何時ものアスファルトが顔を出していた。この時期にこの街で珍しい快晴だった。早く夜になれ。俺が起きる前からテレビの中で走っているランナーを見ながら心を落ち着かせていた。いや待て、夜と言われたが何時とは明確に決められていない。これはTwitterかインスタのDMで十六夜に聞かなければならないのか。俺はYouTubeとゲーム以外ほとんど開くことのないスマートフォンを開き、TwitterのDMで十六夜に「今日何時から?」と送った。その瞬間、インスタのDMが届いたことを知らせる通知音が鳴った。内容を見てみると「今日の7時から待ってるよ〜」と、十六夜からだった。俺は彼女らしいな。と、彼女のことをあまり知らないがそんな風に感じた。
日も暮れて窓の外から人工的な光が差し込んだ時、狭いアパートに鍵をかけ、あの丘へ向かった。東高は通いはしてないがばあちゃんの家がその近くにあるため土地勘はあった。俺が小さい頃、あそこは竹林だった。ばあちゃんから「あそこには蛇がいるから近づくな」と教えられてきた。その竹林は最近根こそぎ切られて何もない更地に変貌を遂げていた。何だか昔あったものがなくなっていくのが切なくなる辺りこの街を愛して歳を重ねたと感じた。って、そういえばまだ17だった。月を眺めながら上を向いて歩いていたが十六夜を待たせる訳にはいかない。俊は少し早足であの丘へと向かった。
「しゅ〜ん〜」
あの声だ。俺があの日からずっと会いたがっていた人。俺は後ろを振り向き、十六夜の姿を確認した。
「久しぶり!年取った?なんか老けて見えるよ」
「あんたと同じ17ですよ。同じ学年じゃないか」
「あ〜あ、乙女の年齢を知ってるなんて。口が軽いと女の子に嫌われちゃうぞ」
「また出ましたよ。別にモテなくたって生きていけます〜」
同じ歩幅、同じペースでもう少し坂を登った先にあるあの丘を2人一緒に目指した。
「そうそう、ココア好きでしょ?これあげる」
俊はここへ向かってる途中にあった自販機でココアを2つ購入しここへ向かってきた。
「おおおお!!!気が利く系男子だったのか君は!」
「うるさい」
突然、十六夜が小走りになり俊の視界の正面に立った。
「ありがとう」
十六夜が俊の目を見てそう言った。
「何で目を見てくれないのさ〜」
「目を合わせる必要ないだろ。何でもいいじゃん」
「ほほ〜う、ひょっとして私に惚れたな」
「それは月が地球に落ちてくるくらい有り得ない話だ。そんな馬鹿けたことは言わないで欲しい」
「んもう、強がりさんなんだから。ほら、着いたよ!」
東高の南側にある丘は雪の解けかけでグチャグチャしていた。小高くなっていて月を見るのにはもってこいの場所だった。その丘の1番高い所へ登り2人で十六夜を見た。
「この丘さ、東高に転校してきて最初にいい場所だって思ったの。ここで月を見たいな〜ってね」
「え、転校してきたん?」
「うん、家の都合で」
「そうだったんだね」
あれ?上手く話せない。もっと話したいこと沢山あるのに。これって『見つめ合〜うとすな〜おにおしゃ〜べりでき〜な〜い』ってやつか?確かにできない。
「私ね、顎の下にアザがあるんだ。生まれつきの」
と言って十六夜は顎の先を月の方に向けて俊に見せた。
「ほんとだ。丸いあざがある」
「暗くてよく見えないかもしれないけど今日の月と同じ形しているんだよ。丸くなくて少しだけ端が欠けてるの」
「だから十六夜って名前になったの?」
「おお!!勘がいいね〜!そゆこと!ほんと単純だよね〜」
十六夜は笑いながら俺に明るい表情を見せていた。しかし、十六夜の笑顔から大きな何かを小さい体で抱えている気がしてならなかった。
「嫌がる質問かもしれないけどしてもいい?」
「えー、何聞くの〜?スリーサイズ?」
「そんな下品な事は聞きません」
一瞬それも考えたが見るからになさそうだ。聞いても無駄だろう。
「……身長っていくつ?」
大きな何かを聞こうと思ったがそんな勇気は出なかった。
「それ聞く?小さいの分かってて聞くのって絶対馬鹿にするためでしょ〜」
「それはどうかな〜。俺がそうゆう人間に見える?」
「うん、見える」
「いや何処がだよ」
「んー、3択にするね!私の身長は、128cmか148cmか178cmです」
「128だろ」
「ぶっ殺す」
十六夜は俊の右肩を小さな拳で大きく振りかぶって殴った。
「う〜、いったくね〜。てか、その3択分かりやす過ぎでしょ。178あったら俺より大きいもん」
「むむむ。間違えた!もう1回作り直す!」
「もう分かったからいいよ。作り直さなくても」
「も〜、俊の馬鹿」
また俊に拳が飛んできた。しかし痛くない。
「そういう俊はどのくらいなの?私より高いんでしょ?」
「そりゃ勿論。頭1つ分くらい」
「何cmなのさ〜。お姉さんに言ってみ?」
「お前をお姉さんとは思えないね。172cmくらいだったな」
「うわちっさ」
「お前が言うな」
「いいもん!来月には俊の身長越してるから!」
「そんなことになったら足が痛くてここまで来れやしない」
「うるっさい。根暗」
「チビが馬鹿にすんな」
「ぶっ殺っハックション!」
十六夜が小さなくしゃみをした。これは俺の上着を貸すべきか?
「……寒くなってきたしそろそろ解散にしよっか」
違う!!違うぞ俺!そこはそう言うんじゃない!
「え〜、まあ、そうしよっか。ちょっと寒くなってきたね」
晴れていたせいか放射冷却でグチャグチャしていた地面が半分凍っていた。あの丘へ行く途中に通った道も所々凍り始めていて俊の間違った判断は正解だったかもしれない。東高へ向かう坂を下り、T字路へ差し掛かって「バイバイ!」と左へ向かう俺に十六夜は手を振った。俺は何も言わずに十六夜に手を振り返した。十六夜と過ごしていると時間を忘れてしまう。スマートフォンを開けると時刻は9時になり、街中に蛍の光が流れていた。とても楽しい時間だった。
しかし、十六夜が背負っている大きな何かの手がかりは見つからなかった。