桜の日の満月に
十六夜は俺の前世について話してくれた。一言一言俺に伝えようと丁寧に。
時は江戸時代。十六夜ではなくその時代ではお月と呼ばれ、町一番の武士の家に生まれたお嬢様だったらしい。しかし体が弱くずっと寝たきりになっていた。そこで家が貧しく出稼ぎに俊ではなくその時代は俊之助という者がお月の家に来たそうだ。お月は殆ど家から出ていないせいかとても人見知りだった。ある時、お月の唯一外の世界の空気を吸える庭を俊之助が掃除に来たそうだ。
「あなたがお月さんですか?」
シャッシャとほうきの音を立てている庭の隣で枕の脇に置いてあった水をお月が飲んでいるときに俊之助が聞いてきた。
「はい。そうでございます」
「寝たきりですと暇になりませんか?」
「これが私の人生です。運命であるのです」
「そうでございますか」
俊之助はシャッシャとほうきを鳴らした。
「外へ出られたことはありますか?」
「はい。でも半年以上前に」
「では滑稽な踊りを江戸で学んできた長兵衛という者はご存知ないですか?」
「庭の塀越しに聞いた事があります。長兵衛、長兵衛と通る人通る人が仰ってます」
「その長兵衛が犬を飼い始めたらしく毎朝稲の成長を見ながら犬の散歩をしていて。あ、犬の名前は短兵衛。長兵衛の相棒だから短兵衛だと。その短兵衛はとても可愛らしく町のどんな人にでも懐くのだがとうの長兵衛には懐かなかったらしく散歩している姿は短兵衛が長兵衛を連れ回しているようであった。またある日に短兵衛かわ長兵衛を連れ回して散歩している時」
川が流れるように止めどなく話していた俊之助の声が聞こえなくなった。
「短兵衛が飼い主の長兵衛に向けて小便をしたそうだ」
そう言い終えた俊之助の顔はニヤリと笑っていた。それにつられてお月も笑ってしまった。
「短兵衛はどうして長兵衛に懐かないのでしょうね」
お月は少し嬉しそうに俊之助に言った。
それから毎日俊之助のようなみすぼらしい格好の元気な出稼ぎとお月のような上品味溢れる病弱なお嬢様との毎日が始まった。たまに俊之助は庭のほうき掃きをサボっているところを見つかって怒鳴られることはしばしばあったがいつもお月のために面白い話を持ってきては話した。ネタがないときには俊之助が3里も4里も離れている家から竹馬でお月のもとへ行ったりして楽しませていた。案の定怒られてはいたが。
ある日、お月のもとに医者が定期検診をしに来て病気の状態を見てもらった時、医者は「思った以上に治りが早そうだ。咳も殆どしていなくて顔色も良い」とお月とそばにいた母にそう言った。
「何か良い事でもありましたか?」
「特別な事はありません。ただ毎日来る使用人と話して笑っているだけでございます」
医者はお月がそう話すと少し微笑んで診療で使った道具を片付け始めた。
「俗説ですが笑っている人は病気で死なないんですよ。泣いている人は残念ながらすぐに病気でお亡くなりになってしまうんです。」
道具を入れた箱と重い腰を持ち上げて俊之助より少し背の高い医者はお月の布団の横に立って
「笑っていられるのは生きる力があるからですよ。これからも無理なさらずに」
と付け足すように語りかけ軽く会釈をしお月の母に案内され、床の間から出て行った。
庭に植えていた桜の木には数え切れないほどのぷっくりと膨れた蕾が枝にしがみついていた。冬の日に俊之助が作った雪だるまというものはすっかり庭から消えていた。
「何作っておられるのですか?」
真っ赤になった俊之助の手足を見てお月が尋ねた。
「雪だるまというものでございます。長兵衛が江戸にいる時に大きな黒い船に乗って日本にやってきた外国人から教えてもらった雪で作るものでございます」
「随分大きいのね」
「肌の色が白く目が青い外国人は長兵衛が空を眺めるように話さなければならないほど背丈の高い人らしいです。だからこんなに大きいのでしょうね」
「見てみたいですね。少し怖いけど」
そう言ってお月は少し微笑んで白い息を吐いて雪玉を腰の高さまで大きくしている俊之助を見つめていた。
お月はだんだんと笑顔を見せるようになってきた。それは紛れもなく俊之助のおかげだ。出会った頃は真っ青で石像のように動かなかった口が付いていたお月の顔は頬を血色の良いピンクで染めてクシャッとなる笑顔を俊之助だけでなくたまに庭へ来る屋敷の使いにも見せていた。たまに床から離れて庭を歩くことだってある。実際に桜が満開になった頃、お月と俊之助は屋敷をぐるっと1周して桜を見ていた。ずっと寝ていたこともあってかお月はゆっくり、小さく、度々休みながら、できる限りはしゃいだ。
「見て!桜が満開だよ!」
「見ればわかりますよ。これで何回目ですか?」
「見て!こっちも満開!」
「目は節穴ではないので安心してください。ちゃんと自分の目で見えていますので」
「綺麗だな〜!動けるって嬉しいな〜!」
はしゃぎながら喜んでいるお月を見て俊之助も嬉しくなる反面、動きすぎて心配にもなって思うようにはしゃげなかった。
「そなたが俊之助という屋敷の使いか?」
後ろから野太くその中から温かさがある声がした。
「はい。そうでございます」
俊之助が後ろを向くとこの町で知らない人はいないお月の父が少し微笑んだ顔で立っていた。
「君のおかげで娘が元気になっているんだ。本当にありがとう」
「いえいえ、そんなお礼を言われることはしていませんよ」
俊之助は気恥ずかしくなり顔が熱くなっているのが自分でも分かった。
「ただ、ずっと寝ていたら退屈だと思って喜ばせたいって思っただけですので。お気になさらずに」
俊之助は軽く会釈しお月のいる4つ先の桜の木まで走っていった。
「父上と何を話していたの?」
「んー、ヒミツですね。賄賂をもらったなんて誰にも言えませんから」
「え!そうなの?」
「嘘でございますよ」
お月は「も〜」と頬を膨らませた。
日が真上から少し傾いた頃から散歩をし一周する頃にはすでに空はオレンジ色に染まっていた。
「ねえ、俊之助」
「何でしょう?」
「私、俊之助に感謝してもしきれません」
予想外の言葉に俊之助は黙ったままだった。
「昨年の桜が雨で散ってしまった頃、具合が悪くなってそれからずっと寝たきりになってしまったのです。とても退屈でした。蝉が鳴いているのも庭のもみじが赤くなるのも全て体を横にしながら過ごしていました。でも雪が積もる前に俊之助が来てくれたのです。それから私の退屈は何処かへ消えてなくなってしまったのです」
「出会いは一期一会ですね」
俊之助はお月がしゃべり終わった後にそう話した。
「実はこの屋敷に出稼ぎに来るきっかけはお月様のお父様なんです」
俊之助はこの屋敷に来る前にも出稼ぎで別の屋敷に通っていた。その主は隣町の悪代官で屋敷の使いは失敗をすると酷い仕打ちを受けていた。去年の春にそこへ出稼ぎに通っていたが不満でいっぱいの使いの者は新人の俊之助を目の敵のように扱った。梅雨明けのある日に俊之助は屋敷に行くことを拒み貧しい家の畑の草取りをしていた時、悪代官の使いが俊之助の家を訪ね家族に刀を突きつけて俊之助を呼んだ。「家族の命が惜しければ今すぐ屋敷に来い」そう脅迫して俊之助はあの屋敷に戻らなければならなかった。
その後、俊之助に対する仕打ちは酷くなり、雪が降り出しそうな寒さの頃にボコボコにした俊之助を隣町である今の屋敷の通りに放り投げた。全身が青あざだらけで起き上がろうとすると身体中が痛み鼻と瞼の上から血が出てきた。そんな俊之助を助けてくれたのがお月の父だった。俊之助を見つけたお月の父は乗っていた馬から降りて駆け寄り「大丈夫か?立てるか?」と声をかけて今の屋敷で治療を受けた。
「家族が殺されてしまう」そう思った俊之助はその旨をお月の父に話した。まだ痛む全身の痛みをぐっと我慢しできるだけ細かくわかりやすく説明した。お月の父はしばらく腕を組んで考えて「待っていろ。心配するな」と俊之助に声をかけて馬に乗って屋敷を出た。俊之助は怪我が治るまで屋敷に泊めてくれることになった。その夜は切れた唇を真一文字に保ったまま眠れず朝日が登るのを待った。
次の日お月の父は俊之助に「家族とお前の命は心配するな。今日からここの屋敷の使いになれ」と言った。恐らくあのまま悪代官の使いだったら確実に死んでいただろう。まさに命の恩人だ。ボロボロだった俊之助を助けて家族の命も守ってくれた。行動力もあってこの町の人達から慕われていた。完璧な武士だった。心からそんな人になりたい。俊之助の憧れは右側にいるお月の父だった。
この屋敷へ来た理由をお月に話したら2人の間に壊せそうで壊せない、そんな間が出来ていた。
「そうだったんだね、俊之助も大変だったね」
「はい」
2人が座っている縁側に桜の木の隙間からオレンジ色の光が差していた。ここからはよく見えないが綺麗なまん丸の夕日が見れているのだろう。この時間が一生続けばいいのにな。ふと俊之助はそんな事を心に抱いた。
「ねえ、俊之助」
「何でしょう?」
「私、俊之助のことが好きになっていました」
俊之助の中の時間が一時停止した。その声の主を見ると照れているのか夕日で赤くなっているのか区別がつかなかった。たった一言で俊之助の頭の中はかき乱れてしまった。
「しかし、身分の違いが……」
「それでもいいんです。私を救ってくれた貴方と一緒に一生を過ごしたいのです。それが私の望み」
やっと向けてくれた顔からはアーモンドアイの中にある黒目がその言葉が真剣なことを伝えてきた。口を真一文字にし照れ隠しをしているのがバレバレだった。
「では、武士に成り上がってみせますよ。あなたと結婚するために」
東の空からはなにも欠けていない月が堂々と胸を張るように出てきていた。ボコボコにされたあの頃から考えて日が長くなった。暖かくもなった。フワリと暖かい土の匂いの混ざったそよ風に吹かれて俊之介の1日が終わろうとしていた。