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第八話 名前と約束

 離れを出ても魔女の姿は見えず、気配だけがある。俺は散歩をするような気持ちで、眷属になる前よりも鮮明に見える夜の庭を歩く。


 そのとき、どこからか猫の声がした。屋敷の裏の、俺では登れない塀の上に、一匹の黒い猫がいる――その猫が歩いて、いつの間にか塀の上に座っていた魔女の膝の上に乗る。


 長い黒髪を微風にそよがせ、見上げた先にある銀月の光を背に浴びながら、彼女は俺を楽しそうに見下ろしていた。膝の上の猫の毛並みを、しなやかな指先で撫でながら。


「少年同士が感傷に浸って、心を通わせるところ……私が言うとからかっているように聞こえるでしょうけど。他には得難いほど、美しい場面ね。まるで、気鋭の画家が手がけた絵画のよう」

「そ、それは……言い過ぎです。覗き見は、あまりいい趣味じゃないですよ」

「ええ、ごめんなさい。けれどね、私は同性の友情というものは、愛情と同じくらいに得難いものだと思っているの。魔女同士での勉強会や、交流会をすることで、私達は人間とは違う形の社会を形成している。親しい相手がいなければ、私達の社会は閉じてしまうわ」


 魔女の社会――俺はそれがどういうものか、全く知らない。


 屋敷の外に出られなかったから、それだけではない。俺は自分の境遇に窮屈さを感じていながら、本気で抗おうとはしていなかった。


「僕の世界はユークが来るまで、閉じていました。仲間がいれば、社会を形成できる……そのことが、実感としてよく分かります」

「そう……では、あなたはせっかくできた友人を、これからも大切にするべきね」

「あ、あの……さっきは、ありがとうございました。ユークを治療してくれて」


 感謝の言葉を口にしても、魔女は黒猫を撫でるだけで、何も答えてはくれない――お預けをされたように待ちながら、俺はようやく気がつく。包帯を巻き付け、ガウンを羽織っただけの姿が、見上げていていかに危ういものかということを。


「もう見られているから、あまり気にしないのだけど……そういう興味を持ってもらえることは、悪い気はしないわね。でも、少年には少し早いかしら」

「す、すみません……僕は、貴女の眷属なのに……」


 自分から、そうすると決めた。俺が眷属として生きていくため、知らないことを知るためなら、彼女の言うことは何でも聞くと。


 それなのに、彼女に女性としての魅力を感じたりするというのは、不敬なのではないかと思う。まだ十歳でませたことを言う、と思われても仕方がない。


「……あっ。な、なんですか、笑ったりして、ひどいな」

「笑う……私、笑っているの?」

「は、はい。楽しそうに……違うんですか? 僕をからかっているだけとか……」


 勘違いをしただろうかと慌ててしまう。確かに笑っているように見えるのに、彼女にそういうつもりがないのなら、俺はまるでピエロか何かのようだ。


 ――そこまで考えて、俺は随分と遅れて気がつく。


 聞いたことがないほど綺麗で、氷のように冷たい声。そう感じていたのに、今は違う――穏やかな声だと、そう感じる。


「あなたのその真面目さは、とても興味深いわ。転生する前は大人だったみたいだけど、それほど純粋さを保っていられるのは稀有というか……端的に言って、私の眷属としては、とても好ましくはあるわね」

「……確かに生まれ変わりはしたみたいですが、僕は……」

「心の中では、『俺』って言っているでしょう。私の前では、そうしてもいいのよ」


 そうだ――失念していた。俺の心の中が彼女に見えているのなら、この思考も全部知られてしまっていることになる。


「一度、言ってみてしっくりくる方にしてもいいのよ。あなたにとって、自然であることが大切だから。違和感のある自称を続けていると、言霊が歪んでしまうわ」


 彼女を前にして、自分のことを『俺』と言う。それをまだ、今は上手く想像することができなかった。


 そう、『今は』。彼女を見上げなくてはいけない子供のままでは、ふさわしくない。


「僕が貴女の身長を、追い抜いたら。そのときは貴女の前で、『俺』と言うかもしれません」

「ふふっ……ええ、分かったわ。期待しているわね。あなたに授業をしているうちに、定期的に身長を測りましょうか。追いつかれそうになったら、私は『背が伸びる薬』を飲むかもしれないけど」

「それは……とても軽くて、微笑ましいものですが。僕にとっては『罪』ですよ」

「あら、私の魂まで奪おうって言うの? 悪い子ね……でも、私の眷属としては……」


 とても好ましい。彼女がもう一度そう言おうとしたとき、俺も重ねるように口を動かした。


 もう、疑いようもない。彼女も自分がどんな表情か、分かっているはずだ――こうしてささやかなことで、笑い合っているのだから。


「……必ずしも、仲間を増やすときに従属させる必要はないわ。あの子は、貴方にとって契約で縛る必要のない友人……つまり、私の眷属であるあなたにとって、価値のある人物とみなされる。だから、あなたの手を介して治癒魔法をかけたのよ。あなたと違ってすぐに治るわけではないけれど、傷が持つ熱を冷まして、自己回復力を高めるための魔法をね」


 俺がユークと握手をしたとき、魔女はユークに魔法をかけてくれた。やはり、俺の想像した通りだった――答え合わせができた気分だ。


「本当は、私にとって有益な相手以外には回復魔法はかけないことにしているの。今回だけは、特別だと思っておいて」

「はい……本当に、ありがとうございます。また必要になるときまでに、僕も回復魔法を覚えることができるでしょうか」

「言ったでしょう、私が使える魔法は眷属の貴方も行使できると。けれど、回復魔法は『第二の扉』を開かなくては使うことはできないわ。一つの扉を開くたびに、魔法は深淵に近づいていく……貴方の資質で、幾つまで開けるのか楽しみね」


 彼女はどれだけ『扉』を開いているのか――それを今、あえて問うことはしなかった。


 彼女が覗こうとしている深淵は、俺にとってはまだ遥かに遠い。少しでも近くに行くことができたら、そのとき彼女に聞くことができるだろう。


「さて……あなたと友達のことも見届けたし、今日はこれで失礼するわ」

「あ、あの……っ、さっき、言っていたことなんですが……」


 彼女は聞いていなかったのだろうかと、そう思った。俺が目的を果たしたら、お願いしたいことがあるといったことを。


 しかし、違っていた。魔女は撫でていた黒猫を抱え上げ、その姿をつばの広い尖った帽子へと変化させる。


「っ……ね、猫を、変身させた……?」

「この子は私の飼い猫……使い魔なのだけど、いつもは帽子に化身させているのよ。召喚魔法の類も、第二の扉を開かなくては覚えられない。『使い魔召喚』ができるようになれば、貴方も使い魔を手に入れられるわ」


 自分でも魔法を使えるようになったのに、俺は猫が帽子に変化する光景に、完全に心を奪われていた――遠いものだと思っていた、想像していた魔法らしい魔法が、目の前で使われているのだから。


「服を貸してくれてありがとう。これは、あなたが私のところに自分で辿り着くときまで借りておくわね……その代わりに、もう一つ『魔導書』をあげる。そこに記された魔法を練習して、森に出て、湖を見つけなさい。今のあなたなら、この屋敷を離れる準備を済ませて、外に出ることができるはずよ」

「……はい。きっと近いうちに、お伺いします」


 俺はまだ、レイシェンに対して初めて魔法を使ったくらいでは、彼女に認めてもらえていない。


 だから、まだ聞くのは早い――そう思った矢先に。


「そうだ……教えておかなければね。私の家に辿り着くために、『アトルシア』という言葉を覚えておきなさい」

「っ……あ、あの、それは……」

「ええ……私の名前よ。アトルシア・メリフィセント。真の名前は呪詛をかけるときに利用されてしまうから、この名前は、そうね……私の名前ではあるのだけど、この身体の名前ということになるのかしら」


 肉体と魂に、別の名前がある。俺の前にいる彼女は、アトルシア――。


「ありがとうございます、アトルシア様。教えてもらえて、嬉しいです」

「……そんな無邪気な顔をして名前を呼ばれると、気の迷いを起こしてしまいそう」

「っ……」


 動揺しそうになって、俺は気がつく――別れ際に、彼女は俺をからかっているのだと。


「そうね……私のことは、『お師様』と呼びなさい。その方が、魔法を教えるときも雰囲気が出るでしょう」

「は、はい……よろしくお願いします、お師様。少しでも早くお師様の所に辿りつけるように、頑張ります」

「ええ。あまり待たせると、こちらから迎えに来ることになるから、できるだけ早くするようにね。訪問すること自体はいつでもできるけれど、それではつまらないでしょう。師は、弟子を時に突き放して育てるものよ」


 そう言って、お師様――湖の魔女アトルシアは、塀の上に座ったままで、少しずつその姿を薄れさせていく。


 俺の寝室で、姿を消したときと同じ。今はどんな魔法を使っているのか分からなくても、いずれ理解できるように、彼女の教えを受ける。


 ――あなたの周囲を取り巻く環境を、まず変えてごらんなさい。それを成し遂げて外に出られるようになれば、今度は湖までの冒険があなたを待っている。最初は友達の手を借りてもいいけれど、最後は一人で辿り着くようにね。


 これが『お師様』がくれた、最初の教え。彼女の眷属として本当の意味で認められるためには、避けて通ることのできない過程だ。


 屋敷の中には入らず、俺は離れに戻った。部屋の隅に置かれた椅子の上で、毛布にくるまって眠りに就く。目覚めて誰かに見つかっても、構わない――レイシェンが俺に従っている今は、彼女が『坊っちゃんがどうしてもとおっしゃるので』と言ってくれるだけで、どこで休んでも重い咎めは受けなくなる。


 ゴブリンのいる森を抜けるには、まだ俺の頭の中にある『第一書架』に入れられただけの二冊目の魔導書を開き、記憶に銘記する必要がある。


 魔導書の中に収められた知識を身につけるときの、形容しがたい混沌とした感覚を思い出す――だが、恐れてはいられない。


 剣の腕を磨き、強くなりたいと言ったユークと二人で、森に出る。ゴブリンに勝てずに地を這っているようでは、お師様に呆れられてしまう。


(魔女の眷属として、ふさわしくなれるように。僕は……今よりも……)


 強くなれたなら、何を目指すのか。それを考えているうちに、俺はとても久しぶりに、深い眠りに落ちていった。


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