第六話 魂と罪の均衡
初めてレイシェンを見たときは、淑やかで優しそうな人だと思ったものだ。
しかし彼女が常に浮かべている微笑みは、胸に宿した感情の炎を隠すものでしかないと、子供心にもすぐに気がついた。
「……レイシェン。貴女は、僕を見て何かおかしいと思わないんですか?」
質問を返されると思っていなかったのか、鳶色の瞳に一瞬感情が揺らぐ。表情を失いかけても、まだ口元は笑ったままだ。
「包帯を外されているようですが……いけませんね、せっかく治療をしたのに、自分から外してしまうようでは。それでは傷が開いても仕方がありません」
廊下を照らす明かりは、今は消されている。窓から差し込む淡い月明かりだけでは、『ただの人間の目では』俺の怪我がどうなっているかは視認できない。
俺の表情も、レイシェンにははっきりと見えていないかもしれない。俺が月光の当たる場所に立っていないからか、その表情にはかすかに訝しむような色がある。
(違う……人間は、見えないものを恐れる。夜の闇は、誰でも恐ろしい。だが今の僕は、夜でも恐れずに歩き回ることができる)
「どうしても、どこに行くかはお答えにならないと……それでは、奥様の言いつけに反します。奥様はおっしゃいました、リュカ様がお小さいうちは、屋敷の者がよく見張り、よく教えることを許可すると」
それは半分は事実で、もう半分は誇張だ。だがレイシェンは分かっているのだ――俺を躾けるために罰を与えても、やり方によっては咎められることはないと。
そうやってバレないように子供の俺を虐めて、それを愉しむことを覚えてしまった。ただ歪んでいると言えば簡単だが――今の俺が、思うことは。
「貴女は、可哀想だ。レイシェン・パルティート」
こんな山奥の屋敷で若い時間を浪費して、俺なんかを相手にすることで満足を得ている。
俺の孤独を眺めることが娯楽であることを隠しきれていない。そんな彼女に俺が向ける感情は、ひたすらにこの一言に尽きる――『可哀想』だと。
「何を……おっしゃっているのですか? 私が、可哀想……?」
ギリ、とレイシェンの手がスカートを掴んだ。彼女は就寝の準備すらせず、メイドの衣装を着たままだった――俺をいたぶることしか頭になかったからだ。
「僕はユークとは友達だと思っている。彼をこの屋敷に残すためなら、僕はどんなことでもする。貴女の思い通りには、ならない」
「……本気で言っているのですか? 坊っちゃんがそう希望されているのは、この屋敷の誰もが理解しています。しかし、お立場を理解されていますか? 坊っちゃんは奥様と、私どもとの約束を破り、屋敷を抜け出した。これ以上ユークをこの屋敷に置いておいてはどうなるか、私が何も言わずとも、奥様がどうお考えになるかは明らかです」
興奮を声に出さないようにしながら、感情を抑えきれていない。レイシェンは一気にまくしたてると、言っているうちに自信をつけたのか、余裕のある微笑みを取り戻す。
「ユークをどうしても追い出すと。そして、僕を彼のもとには行かせないと、そう言うんですね」
それは最後に与えた機会だった。レイシェンが、俺の『審判』を回避するための。
だがそんなことに気がつくわけもなく、レイシェンは自分の欲を通そうとする――俺を哀れむこと、追い詰めること。その『罪』に手を伸ばす。
「そうです。私は坊っちゃんを心配して、こうしてお待ちしていたのですから」
――ああ。
こんなに簡単に、『嘘をついて』俺の思い通りの答えを返してしまうなんて。
(……魔女と、その眷属。俺も何も知らなければ、とても恐ろしい存在だと思っただろう。だけど、もう俺は……)
人々に恐られる魔女の側に、両足を踏み入れている。俺のことを愚かで、そして愛おしいと言った、敬愛すべき魔女の傍らに。
頭に浮かんだのは、歌うような詠唱句だった。魔女が俺の傍にいて、共に唱えてくれているように感じながら――レイシェンには聞こえない音が紡がれる。
(『汝が魂魄の重みと、汝が罪科の秤を比べ、我は審判し、裁定する』)
「何を……坊っちゃん、今、何かをおっしゃいましたか……?」
何が起きたのか、レイシェンは全く理解していない。
彼女の頭上に現れたのは、『魂の秤』――召喚した俺にしか見えない存在であり、この世界に干渉する実効を持つもの。
俺の右手にあるのは、『罪の秤』。それもまた、俺にしか見えていない。
二つの秤皿に載せられた重さは、今は『魂の秤』の方が重い。それは、レイシェンが犯した罪を認めておらず、彼女の魂の重みとは釣り合わないことを意味している。
その均衡を崩す方法は、彼女に新たな『罪』を認めさせること。
あるいは今まで俺に対して重ねた罪を、自覚させること。
(そして最後の方法は……『罪』を形として示すこと。この方法からは、誰も逃れられはしない)
「何をおっしゃったのか、とお伺いしているのです。答えていただかなければ……」
「僕は言うことを聞いてばかりの子供じゃない。何もかもをあなたに教える必要はないはずです」
追い込まれた鼠が、猫に噛みつく――きっとレイシェンには、反論する俺がそんなふうに見えていることだろう。
そして彼女は、見切りをつけるのも早かった。自分の勝ちを確定づける材料を、彼女は幾らでも持っている。この屋敷で築き上げてきた信頼というものだ。
(……今の状況を百八十度変える方法は、一つ。付け目は逃さない)
「……坊っちゃんが、私の言うことを聞く気がないことはよく分かりました。このことは、明日になったら奥様に報告を……」
「奥様に言いつける、ですか。僕に『よく教える』ことを許可されているのに、自分では何もできないんですね」
「……っ!!」
「あなたの思う『躾』は、どうやってやるんですか? 僕に教えてみせて……」
その瞬間、乾いた音が廊下に響く――遅れて、頬に痛みが生まれる。
レイシェンが平手打ちをしてきて、俺はそれを甘んじて受けた。唇が切れ、血が伝うのがわかる。
「……ずっと、こうしたかったんじゃないですか? あなたは」
「あ、あなたが……坊っちゃんが、そんなことを……言うからっ……」
自分でも、性格の悪い子供をよく演じられているものだと思う――しかし、今の俺が『罪を形にする』には、望まずともこの手段しか選べない。
流れた血を、親指で拭う。それを目にしたレイシェンの瞳が揺れる。
レイシェンには見えず、俺にだけ見える『罪の秤』が重さを増す。それは彼女が俺にしたことに対して、少なからず罪を認めていることを意味していた。
――もし、認めなかったとしても。『流れた血』は、逃れられない罪の証明となる。
「僕がぶたれたと言っても、この家で味方をしてくれる人はいません。ユーク以外は」
「……そのようなことはありませんが。私のことを、奥様に告げ口するおつもりですか?」
強がっても、『罪の秤』は徐々に重さを増している。しかし問答を続けて、これ以上時間を浪費するつもりはない。
「そんなことはしません。ただ、あなたにも黙っていてもらう。僕がこれからすることを」
「そのようなことができるわけがありません。ユークは追放になるでしょう、そして坊っちゃんも今まで以上に厳しく」
まくしたてるように反論する彼女の言葉が、途中で止まる。
レイシェンの平手打ちで流した血が、『罪の秤』に載せられる――血は秤に載せられるとき、一枚の真紅の硬貨に変化する。
その一枚の重みが、一気に均衡を崩す。裁定が、下されたのだ。
(『汝が罪は、汝が魂よりも重い』)
俺は歩き出す――もう、レイシェンは俺の前に立ちふさがることはない。
たった一枚。俺の血を変換した『罪貨』が均衡を崩し、レイシェンの魂よりも『罪の秤』が重さを増した瞬間に、彼女は審判に従い、償いをしなければならなくなった。
代償に支払われるのは――魂。罪が許されるまで、彼女の魂には、俺に対する絶対の忠誠が刻み込まれる。
「僕が帰るまでに、今日はもう休んでください。明日からは、あなたは名ばかりの従者ではなくなります」
「……かしこまりました……リュカ様。これまでの非礼を、なにとぞ……」
こんなにも、人の心を変えてしまう。それが魔女と、その眷属――。
何も言わずとも、レイシェンは俺の前に跪く。その姿を見ていると、俺の中に今までにない感情が湧きかける。
(これが、誰かを支配するっていうことか……なんて甘美で、くだらないことなんだろう)
だからこそ、惹きつけられる。この力を使ってどうしていくのか、俺の胸に、小さくも確かな展望が生まれる。
これから全てが変化していく。こんなふうに変わった俺を見て、ユークはどう思うだろう。軽蔑するだろうか、それとも――。
俺はレイシェンをその場に残して歩き出す。ユークがどんな答えを出すとしても、それを受け止めなくてはならないと覚悟しながら。
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