第一話 名ばかりの従者
リュカ=ヴェッセル。それが、異世界に転生した俺に与えられた名だった。
ヴェッセル家は王国貴族の中でも下級の家柄で、地方で小さな村を領地として与えられ、政争や隣国との戦とは全く縁遠く、穏やかといえば穏やかな暮らしを送ってきた。
俺は、自分の境遇について全て理解しているわけではない。分かっていることは、俺の父親は簡単に会うことができない人物であること、そして母親は、どうやら父から離縁されているか、遠ざけられているということだった。
父親に少し似ているらしい俺を、母はあまり好ましく思っていないようだった。俺を愛そうとしてくれているのは分かるのだが、無理をさせているというのを察してからは、同じ屋敷で暮らしていても可能な限り距離を置いた。
屋敷には数人の侍従がいて、老執事のノーマンさんが家内を取り仕切っていた。といっても彼は母に与えられた権限である、『領地である村の統治』について指示を受けて代行する立場であり、家事を切り盛りしているのは侍女たちだ。
母の教育方針で、侍女たちは俺に厳格に接していたが、最年少の侍女は特にたちが悪かった。表面上は柔和な態度で、口から出る言葉も優しいものばかりだ――他の誰かがいる時に限っては。
「リュカお坊っちゃん、私は申し上げたはずですよ? 無断で家を出れば命の保証はできない、森は怖いものですと」
ゴブリンに襲われたあと、どうやら一命を取り留めたらしい俺が目を覚ましたのは、自室の慣れたベッドの上だった。
屋敷の一室、最低限の調度品しかない俺の部屋。窓からは差し込む光は朝の光か、まだ判断がつかない。
――とにかく、生きている。包帯をグルグルに巻かれ、片目しか視界を確保できていないが、もう片方の目でも包帯越しに光が見えているのは幸いだった。
頭痛はするが、それは寝起きに苦手な相手の顔を見たからでもあった。初めは『優しい年上のメイド』なんていう相手に幻想を抱きかけたが、それを粉々にしてくれたのが、目の前にいるレイシェンだ。
「坊っちゃんから目を離したことについて、ノーマン様に散々注意を受けてしまいました。あの方はそれだけ坊っちゃんが大事だと言うわりに、日頃のお世話は私たちに任せきりで……全く、口だけが達者な老人には手を焼かされますね」
そう――レイシェンは俺が他言しないと思っているのか、俺の前では内に隠した意地の悪さを表に出し、同僚に悪態をついたりする。
「ふふっ……坊っちゃん、その目はお変わりになりませんね。私のことを軽蔑しているのでしょう?」
そして、彼女は俺の反応を見て愉しむ――俺は別に正義感が強いわけでもないと思うが、露悪的な振る舞いをする彼女に対してどう思うかといえば、感心はできないというくらいだ。
「でも、私に嫌われないようにした方がいいとも思っていますね。だって、ベッドの上からしばらく動けないんですもの……ふふっ。赤ちゃんの時にはお屋敷にいませんでしたから、そちらのお世話をするのは初めてですね」
「……大丈夫、動けますよ。適切な治療をしてもらったことにはお礼を言います、お世話をかけました」
喉が少しいがらっぽく感じたが、問題なく声は出せた。しかしレイシェンは、発言を訂正することはない。
「こんな時くらいは従者に甘えることをお勧めいたします。私も鬼ではありませんので」
「あなたに恥ずかしい姿を見せて弱みを握られる方が、僕にとっては耐え難いんですよ」
「まあ……そんなに強い言葉をお遣いになって。ユークの影響ですか? あの子も大人しいふりをして、やってくれますね。坊っちゃんを唆して外に連れ出すなどと」
「唆してなんていません。僕が彼に頼んだんです。彼は悪くない」
ユークを悪く言われるのは心底気分が悪かったが、レイシェンの口ぶりで、彼が生きていることは察することができた。レイシェンと言えど、人が死んでいたら、そんなふうに笑ったりはしないだろう。
「どうしてもと仰るなら、そのお言葉通りに受け止めましょう……ですが。坊っちゃんとユークが外出した件について、私どもには何の責もないと奥様にお伝えしてよろしいですね?」
俺を辱めない代わりに、そんな交換条件を出す――どのみち、俺が告げ口などすることはないと思っているんだろうに。
まだ子供の俺よりも、六つ年上のレイシェンのほうが身体が大きく、最近剣術を習い始めたとはいえ、単純な力ではかなわない。彼女は俺の存在を持て余している母上に上手く取り入っているため、気分を損ねるようなことをすると後が面倒だ。
(だが……さすがにこんな態度を毎日毎日目にして、逃げ出したことを嘲笑われて。それで黙っているのも、ストレスが溜まるな……)
快くない感情を飲み込み、俺は頷いてみせた。レイシェンは満足そうに笑うと、テーブルの上に置いてある水差しでコップに水を注ぎ、俺に飲ませてくれる。
「これに懲りたら、もう逃げようとなさらないことですね。恐ろしい『森の魔女』に食べられてしまいますよ」
(俺にとっては、あんたの方がよっぽど恐ろしいよ)
反抗すれば、露見しないように痛めつけてくることは目に見えている。彼女の経歴を考えれば仕方のないことなのかもしれないが、その嗜虐趣味には付き合っていられない。
水を飲ませるときもわざと息継ぎを遅らせようとする。むせて水をぶち撒けようものなら、彼女はそれを理由に俺を攻撃しようとするだろう。
俺は、執事や侍女を仕えさせる立場にある――だが、それは母上が俺を庇護してくれていて、お目付け役となる人物がいなければ成立しない。
しかし、この金の髪を編みこんだメイドは、ただ一点においては文句のつけようもなかった。美しく、ただ立っているだけでも男性を魅惑する姿態――自分の武器を彼女も自覚していて、この屋敷の侍女では終わらないという野心を隠しもしない。
「もう少し身体が回復されたら、粥などをお持ちしましょう。これに懲りたら、私どもの目を盗もうなどと思わないことですね」
「……はい」
それ以外の返事をすれば、疑いをかけられるだけだ。彼女には一つ聞いておきたいことがあるので、機嫌を損ねるのは得策ではない。
「ユークは、無事なんですか?」
「ええ。あの子は坊っちゃんを見捨てようとなさったのでしょう? 発見された時には気絶していましたが、『ほとんど傷を負っていなかった』と聞いています」
「そうですか……無事で良かった」
レイシェンの悪意を込めた物言いに腹を立てることはない。ユークが無事ならば、それだけで。
俺は生まれて初めてできた同世代の友人を、失わないでいられたのだから。
そんな反応は期待していないというようにレイシェンが不穏な気をまとうが、彼女は水差しに手をかけはするものの、冷水を浴びせてきたりすることはなかった。ノーマン爺や同僚の手前、彼女は証拠が残りそうな嫌がらせはしてこない。
「坊っちゃんは、首にはっきりと残る牙の跡がついてしまったのに。ユークは打撲と擦過傷程度で済んだ……どうせ『友達だ』などと甘いことを言ったのでしょうが、子供の言葉など信じないことですね」
彼女の言い方にいちいち反感を覚えていては喜ばせるだけだ――それよりも。
(首に……牙? 俺は、覚えている限り、噛まれてなんていない)
レイシェンに言われて、初めて意識する――右の首筋が、熱を持っているように感じる。触れてどうなっているか確かめたいが、レイシェンの前で動いては、彼女の話を長引かせることになる。
「ユークは離れに隔離することになるでしょう。坊っちゃんに怪我をさせたあとあっては、彼をこの屋敷に置いておくことにも、どなたも賛成なさらないでしょうね」
捨て台詞のように言いおいて、レイシェンは部屋を出ていった。少し力を込めて閉められた扉の音を耳障りに感じるが、俺が案ずるべきことは別にあった。
『リュカ様のことを、決して奥様はおきらいではありません。きっと、ボタンを掛けちがえているだけなのです』
そう言ってくれたあの心優しい少年が、控えめに口にした夢が叶うまでは。この屋敷から、決して追い出させるわけにはいかない。