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不器用ですが、結婚します  作者: 川崎 春
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こんな婚約アリですか?

 本田の謎は深まってしまった。

 本田がジグソーパズル好きで、家でずっとジグソーパズルをしている事は分かった。

 でも、何だか噛み合わない。

 家でジグソーパズルに忙しいから、恋愛も見合いもしたくないと言う、マニアな話では無かった。

 死刑囚が、刑の執行まで、暇だからパズルをしている様なイメージを俺は持ってしまった。

 こうやって、すっかり身支度をして待機しているから、放って置いてくれ。という感じだ。

 彼氏なんて、何処にも居なかった。それどころか、男を寄せ付けない、潔癖とも思える、偏った思考をしている事も理解した。

 誰かを好きになるのを、完全に拒絶していた。……あれは、何かおかしい。

 五年近く見ていた観察の記憶が、今回の話と繋がった。本田のインビジブル能力が、人と言うよりも、男の目から自分を隠す為に存在していたと言う結論に辿り着く。

 あれは、恋愛恐怖症ってやつではなかろうか。

 でも、昔に恋愛をして痛手を負って怖がっている……と言う訳では無く、純粋に、恋愛そのものを怖れている気がした。

 最後には、自分の罪をこれ以上大きくしないで欲しいと言われている気がした。俺の感覚が間違えていなければ、だが。

 ……そうだ。まるで、自分で自分を罰している様に見えた。

 飯田の送別会の事もあるから、本田とは連絡を取らなくてはならないし、会社で会ったりもしているが、本田は俺との間にあった事を、完全に無かった事にしようとしている。

 俺は、勢いだけで女に告ったり、触れたりしない。

 そう言いたいのは山々だが、言い出せる雰囲気では無い。

 本田の心理状態を維持するなら、このままにしておく方が良いのかも知れない。本田は思っていたのと違った。脆い。……下手に触ると壊れそうだった。

 精神的な意味で、だ。

 部屋にあげてもらって、浮かれていた気持ちが、一気に冷める位、脆かった。

 しかし、見合いの話を聞いてしまった。

 あれだけ恋愛対象として拒絶されたのに、本田が見合いするのを、面白く無いと思う気持ちが燻っている。

 長く見過ぎていたせいで、区切りを付ける事も出来ない。

 見合いがどうなったのかも知らない。送別会が終われば、本田と個人的に連絡を取る理由は無くなってしまう。

 そして送別会の日が来てしまった。

 俺としてはデートのつもりだった下見の日の事が、遠ざかっていく。

 このまま……消えるのかなぁ。

 俺の気持ちがフェードアウトして行けば、それで済むのかも知れない。

 あんなに頑張ったのに。俺、自分からあれだけ押したの、初めてだったんだけど。

 隣に座っていた経理の女の子が、俺に寄りかかって来る。

「気分悪い?」

「いえ、ちょっと酔っちゃっただけです~」

 コップに一杯も飲んでないじゃないか。嘘言うなよ。っていうか、その語尾を直せ。

「そんなに弱かったんだ。俺、酒の弱い子は一緒に飲めないから苦手なんだ」

 俺の言葉で、シャッキっとしたのを見て、やっぱり演技か、と思う。

 露骨だろう。そこまでして、俺に粉をかけて、何が楽しいんだ?

 親父臭い顔か?サーフィンって言う趣味?それとも仕事が営業って事?

 女の子は可愛い。柔らかくて良い匂いがする。嫌いじゃない。でも、付き合うなら、こんな嘘を言う子じゃない方がいい。

 本田は、最初から嘘を言わなかった。

 隠して黙っている事があっても、聞けば本音で答えてくれる。……また本田の事を考えている自分に嫌気が差す。

「私、日本酒ならいくらでも飲めます~。ビールは苦手でぇ」

 うるさいよ!しゃべるな!

 心の中で、怒鳴っていた。

 こんなの、女の常とう手段で、特に嫌悪する必要も無い、可愛い手管じゃないか。俺が好きだってアピールしているだけじゃないか。

 なのに、何故こんなにイライラしているのか。

「じゃあ、日本酒頼むよ」

「やった~!」

 嘘臭い。喜びながら、こちらをチラリとみる視線に含みがある。……酒を頼んだだけだ。優しくしたつもりは無いぞ?

 俺は席を立って、日本酒の注文をした後、営業部の後輩に俺の席を譲って、トイレに向かった。

「あの子、狙ってたんすよ。ありがと~っす。国塚さん」

 軽い後輩は、そう言って、俺の席に移動して行った。

 俺は四年狙って、仕留め損ねたよ……。何で皆そんなに簡単に行けるんだよ。

 しょんぼりしてトイレに行った。

 出てくると、女子トイレから出て来た人物に息を呑む。

 本田だ。

 キリっとして、姿勢良く立っている姿は、強そうだ。本当は砕ける様な脆さが潜んでいるのに。今日も隙が無い。

 本田は俺を見ると、はっとして、それから困った様に言った。

「社長が、これ……」

 そして、封筒を差し出した。

 中に結構な金額が入っている。今かよ。もっと早くくれたらいいのに!

 とは言うものの、本田の話では、社長秘書である飯田は、今回の送別会の主役だ。金を俺達に渡すように頼めなくて、今日になってしまったそうだ。

 社長の新しい秘書は、先日決まったばかりだ。今日の送別会にも出席はしているが、多分、誰が誰だかちゃんと分かっていない。

 俺達のどちらかへのお使いは難しかったみたいだ。

「集金済みだし、コースだから、今もらってもなぁ。……全員に割って返すのも、すぐは無理だな」

 面倒な事になった。

「そうだね。でも社長の気持ちだし、やるしかない」

 小分けにして、出席者に会費の一部を返金して回るしかなさそうだ。面倒ではあるが、社長の心遣いを、そのまま懐に入れる勇気は俺には無い。本田も同じだ。

「じゃあ、月曜日に私が計算して小分けにするから、国塚君、その後で配るの手伝ってくれる?」

「分かった。それだけでいいのか?」

「大丈夫」

 本田が言うなら、本当なのだろう。

『私一人では出来ないんでぇ、一緒にやってくれませんかぁ?』

 なんて、頭の悪そうな事を言わない。

『任せて!』

 なんて笑って言っておきながら、実は怒っているなんて事も無い。

 そんな所に、相変わらず好感を持ってしまう。いい加減、未練がましいな。俺。

「じゃあ、困った事があったら言ってくれ」

 俺がそう言って立ち去ろうとしたら、本田が言った。

「咲ちゃんに叱られた」

 俺が本田の方を見ると、居心地の悪そうな顔で俺から視線を外していた。

「国塚君に対して、あんまりにも失礼だって。私も後になってそう思って、凄く反省した。……本当にごめんなさい」

 いや、別に気にしてないよ。

 その言葉は安易に言えなかった。社交辞令でもいいから、許すべきだ。それで本田の負担は軽くなる。……理性はそう言っていたけれど、口からは違う言葉が出た。

 俺のダメージだって、それなりに深刻だったのだ。

「本田は嫌かも知れないけれど、ちゃんと話をしたいから、明日にでも改めて、会ってくれないか?」

 馬鹿だとは思う。けれど、今の状態では次に進めない。本田と今後、どうやって接したら良いのかも分からない。

「いいよ」

「車で、昼前に迎えに行く」

 本田が頷いたので、俺達は宴席に戻った。

 俺の隣に居た女の子は、席を譲った後輩と仲良く酒を飲んでいた。

 どうしてあんなに簡単に行くんだよ。

 俺はこっそり舌打ちした。


「理沙ちゃん、それは絶対にダメ。国塚君に謝って」

 様子のおかしい私に気付いた咲に、国塚君との事を全部白状させられた。

 咲は酷く怒って、私に説教した。

「ずっと好きだったって、言ってくれた人を、ばい菌扱いするなんて!酷いよ。断るにしても、もっと言い方があるでしょ!国塚君、別に理沙ちゃんを襲ったりしなかったんでしょ?」

「抱きしめられた」

「部屋に上げたの、理沙ちゃんでしょう!そんなの、襲った内に入らない。今時、高校生でもそんなに純情じゃないよ。他に何もしないで出て行ったんだから、国塚君は紳士!」

「でも、私は触って良いなんて言ってない」

 咲が、更に目を吊り上げた。

「理沙ちゃん、女王様じゃないんだから、そう言うのやめようね。状況的には、据え膳だったって分かろうよ」

 据え膳。つまり私が性的に誘ったと言う事だ。部屋に誘った時点で、成立するらしい。……たしか、食べないのは男の恥とか、そんな言葉も付いていた気がする。

 国塚君は、食べなかった。私がビチビチ暴れまくったからだ。

「そもそも、国塚君は同期だよ?……重みを考えてみてよ。何年も好きだったとしたら、よく我慢したって、私は褒めてあげたい」

 その後も、ネチネチと言われた。咲だけは私の味方だと思っていたのに……。何処までも国塚君を擁護する。

 咲の言い分は、多分正しい。私がその部分に関しては、全面的に悪い。

 私は国塚君に謝る事を決めた。

 国塚君と話した日以来、ジグソーパズルが進まない。遅々として、同じ部分で止まったままだ。

 国塚君の言葉が、ざっくりと私の心を切り裂いて、そのまま穴が塞がらない。

 時間つぶし。

 国塚君はそう言った。そう言われた途端、楽しいと思っていた作業が楽しくなくなった。

「言わないでおこうかと思ってたんだけど、理沙ちゃんは、考えたくないから、ジグソーパズルしてただけじゃない?」

 咲が、国塚君との話をしたら、そう言った。

 悪い思考からの逃避。その手段はあった方が良い筈だ。それなのに、何故そんなに批判的なのか。

「そんなに悪い?」

「悪くはないよ。ただ、理沙ちゃんの場合、ちょっと違和感があるの。もっと、心底楽しそうにしていてくれたなら、私も国塚君も、そんな風には言わないと思う。何がって言われても、上手く言えないんだけど」

 長年一緒に居る咲が、そう言うのだから、無理に思考をジグソーパズルに向けている様に感じられる部分があったのだろう。

 咲自身、重たい問題を抱えていたから、私の話は一切していない。出会ってからの私しか、咲は知らない。

「兄嫁のせい?」

「……そうじゃない。とは言い切れないか」

 咲は、何度も私と一緒に、実家に行っている。

 咲を実家に行くのを避ける口実に使っていたら、咲ごと呼ぶようになったのだ。

 珠代には友達が居ない。高校時代の友人は、まだ独身だったから、人妻の珠代は一緒に遊べなかったのだ。夜遊びなんて出来ないし、合コンにも行けない。

 だから珠代は寂しかったのだ。

 咲さんには、私のお友達になってもらおう!

 珠代はそう考えていた筈だ。と、咲は言う。

 咲は、そう言う気持ちに敏い。初対面で、珠代を嫌いになった。自分を好きになってくれた訳じゃなくて、私への対抗心から近付いて来たから不快になったと言う。

 珠代は、ストーカーの話を知らない。ただ、アパートで隣の部屋の子だとしか思っていない。

 私はおしゃれも出来ないし、化粧も上手くない。インテリアや雑貨にもそんなに興味が無い。料理もしないし、裁縫なんて家庭科以外でやった事が無い。

 咲は女らしいし、おしゃれだ。だから簡単に、自分みたいな可愛い女の方が仲良く出来ると思った様だ。

 そんな訳で、珠代がどういう人間性であるとか、そう言う事を理解しない内に、言動から咲は、珠代を『敵』として認識したのだ。

 美女と可愛い女が、険悪になっていく。

 地味な私は、それを見て黙っているしかない。

 二人の、何となく嫌な言葉の応酬は、二人が会う都度続いた。

 最近まで、珠代は意地で、私と一緒に咲を実家に呼んでいたから、すっかり我が家ではなじみになっていた。

 咲が結婚すると分かって、本気で喜んでいた珠代を思い出す。……当然、祝福では無い。

 私が独身で売れ残った挙句、友人に置いて行かれる事に対する喜びだ。咲がイケメンと結婚するのは納得したくないが、遠くに行ってくれるのは嬉しい。そんな感じだ。

 何より、私に見合いを堂々と勧められる様になった。そこが嬉しい様子だった。

「理沙ちゃんのお兄さん、趣味悪いよ」

 咲の言葉には、笑うしかない。

 咲は、念願のドレスを着た。次は子供。女の子が欲しいそうだ。その子と、おしゃれな服を着て出かけるのが夢だ。

「夢は見るものじゃなくて、自分で叶えるものなんだと思う。私はファッションとか大好きだけど、それとこれは別なの。上手く言えないんだけど……分かる?」

 咲は、私の生き方に、ケチをあまり付けたくないのか、ちょっと申し訳なさそうに言った。

「何となく、分かる」

 私には、そんな未来への具体的な夢は……無い。

 国塚君は言った。何歳まで生きるか分からないと。だから、それまでの長い時間、そんな生き方をするのはおかしいと。

 別に良いじゃないか!と、心の中で反論した。夢とか未来への展望とか無くても、生きて行ける。実際、ここまでそうやって生きて来た。

 でも指摘されて気付いたら、自分の主張が、酷く薄っぺらな物に感じられた。

 どうしてそう思うのか、私にも分からない。

 ただ、自分が紙になった様な気分が続いている。

 今の自分を、自分でも肯定出来ない。イライラ、モヤモヤしたままだ。

 とにかく、国塚君に謝って許してもらう。

 そうは思っているのだが、会っても、ごめんなさい、の言葉すら言えない自分に絶望する。

 言いたくない訳じゃない。言いたいのに、喉につかえて言えないのだ。……国塚君を傷つけた自覚はある。だから余計に言えない。

 本当に悪い事をした時に謝るのは、勇気が必要なのだ。勇気の無い私は、何も無かった様に振る舞って、国塚君に謝れないままだった。

 咲に、早く謝れと要求される、親からは、見合いを本格化させたいと言う話が来る。ジグソーパズルは進まない。

 毎日がぐちゃぐちゃだった。

 全てを捨てて逃げ出したい。もう何も考えたくない。

 そこで逃げた場所は、諸岡先生の書道教室だった。

「理沙ちゃん、最近よく来てるね。また、ここで教えてみる?」

 夜の九時まで教室は開いていて、子供だけでなく、大人も練習に来ている。

 諸岡先生本人も現役で指導しているけれど、娘の香織さんが、今は子供達の指導を行っている。

 夜に、大人や中高生に指導をしているのが諸岡先生なのだ。

「師範代なんて……昔の話ですよ」

 迷いなく書けた文字が、今では全く書けない。自分でも分かるから、情けない。

 そんな私の書を見て、先生は言った。

「うん。奥深い字になった」

 奥深い?全然まとまってないのに?

「迷わない字は美しい。けれど、迷った末に産まれた字は、更に美しくなる。奥深さが増すんだよ。君の今の迷いは無駄じゃない。迷うだけ迷ってみるといい」

 先生はそう言って、別の人の所に行ってしまった。

 思えば、書道をしている時は、無心になれるから続けていた。

 書いている時に、迷った事なんて無かった。ただ、素晴らしい先人の様な、美しい文字を。それだけを考えていた。

 どうして……今はそれが出来ないのか。

 過去の問題は、私では、どうにも出来ない場所にあって、それから逃げていたから。私には、逃げる以外の方法が無かったのだ。

 けれど今回は、私の力でどうにかしなくてはならない。だから、逃げてはいけない。それを分かっていながら逃げているから、字が定まらないのだ。

 書道教室に逃げ込んでも、私は使い物にならない。迷い続ける事になるからだ。逃げても苦しいのでは、逃げた意味が無い。

 謝らなければ。どんな結果になったとしても。

 そして、ようやく謝る事が出来たものの、国塚君は赦すか赦さないか、答えてくれなかった。ただ、話をしたいと言った。

 勿論、拒否しなかった。……出来ない。酷い事を一杯言った自覚はある。

 私は、腹を括った。

 何故、私がこうなのか、咲にも言っていない。けれど、国塚君には説明しなくてはならない。する必要がある。

 それを考えると、あまり眠れなかった。


 午前十一時半。からりと晴れた日曜日。

 車内は、曇天だ。

 俺と本田が、丘陵公園にある駐車場で黙って座っているからだ。

 何故、こんな状態なのか。

 本田が寝ているからだ!

 何処か行こうにも、話が話だから、閉塞感が無くて、人に聞かれない場所として、ここを選んだ。

 本田は俺を怖がっている。怖がらせたくないと言う配慮をしたつもりだったが、到着までの三十分で爆睡とか……。

 声をかけようか迷って三十分。未だに起こせていない。触って起こすのは……前回二人で会った時の記憶があるから、無理だ。

 警戒している癖に、寝るとか、おかしいだろう!

 突っ込み所満載の本田。何でこんなに、ちぐはぐなんだろう。

 俺が大きくため息を吐くと、瞼が動いた。

 目を開いた本田は、ぼーっと俺を見て、周囲を見回すと、目をパチパチさせて、シートから上体を起こした。

 ……そんな仕草を、堪らんとか思う俺は、ダメだと思う。

「ごめん。昨日眠れなかったんだ。大きな車で座り心地良かったから、つい」

 俺の車は、キャリアが付いたSUVだ。

 本田は、大きな車だ、大きな車だ、と何度も言った。

 乗ってからも、目線が高いと驚いていた。

 可愛いかも。

 惚れていると言うのは厄介だ。子供みたいな発言でさえ、好意的に映るのだから。

 目的地の丘陵公園の事を言うと、

「知ってる。子供の時に行った事ある。お兄ちゃんが、凧を飛ばすのについてったから」

 なんて答えが返って来た。実家が近い様だ。

 そんな訳で出発した訳だが、本田が気付くと返事をしない。

 で、今に至る。一時間以上一緒に居るのに、肝心の話は、全くできていない。

 俺はようやく本題に辿り着けそうな事に、ほっとする。俺としても、このままの状態はもう苦しいのだ。決着を着けたい。

「外の空気、吸うか?」

「そうだね」

 車を降りて、外を歩く。

 緩やかな登りスロープを二人で並んで歩く。

「いい天気だね」

「そうだな」

 辺りは、植樹された色々な木が植わっているだけで、他は何も無い。

 聞こえてくるのは、鳥の声、後は遠くにある遊具で遊んでいる子供の笑い声。

 平和な光景が広がっている。

 本田とこれがデートだったら良かったのに。二人で会うのは、これが最後か……。

 俺は、軽く息を吸って言った。

「本田、俺はお前が好きなんだ。多分、お前が筆で字を書いているのを見た時から、ずっと。何年も前からだ」

 本田が俺の方を見て立ち止まった。

「俺だけが好きなのは自覚してる。いきなり、好きになって欲しいと言えないのも分かってる」

 恋はするものじゃない。気付くと落ちている穴みたいなものだ。俺だけが落ちている穴に、本田が入って来るとは思えない。何年も落ちろと思っていたけれど、そんな気配は無かった。

「だから、どうしてそんなに恋愛を嫌うのか、教えてくれないか?それを聞かないと、諦めきれない」

 性格の不一致。これはどうにもならない。諦める理由になる。

「俺が嫌いなら、そう言ってくれて構わない」

「違う」

 ……そんな事、即答しないでくれ。嬉しいけど苦しい。本田は、俺に恋をしない。分かっているのだ。

「とにかく納得できる理由があるなら、ちゃんと線を引くよ。会社の同僚として、普通に接して行きたいから」

 本田の目が、一瞬揺れた気がした。

「誰にも言わないって約束できる?」

「する。誰にも言わない」

 フラれたからって、相手を悪く言う程、俺は落ちぶれるつもりは無い。

「あっちにベンチがあるから、あそこまで行こう」

 本田が指さしたのは、丘陵公園のてっぺんだった。

 視界が開けて、だだっ広い芝生の敷地に、点々とベンチが置かれていて、犬の散歩をする人や、子供を連れている人達が見えた。

 空いているベンチを探して、並んで座った。

 飲み物を自販機で買って、お互い手の中には、ペットボトル。

 ペットボトルをもてあそんでいると、本田が言った。

「私、養子なんだ」

 養子……実の親はいないと言う事か。

「私は、お母さん……実際は叔母さんに当たるんだけど、そう呼んでいる人の妹の娘なの。生まれてすぐ、引き取られたから、本当の母親の事は良く知らない」

 複雑な家庭環境。それが恋愛を避けている理由なのだろうか。

「産みの母はね、どっかの会社で社長の愛人やってたんだって。私が出来たのがきっかけで実家に帰って来て、自殺したって知ったのが、中学生の時」

 本田の方を見ると、空をぼんやりと見ていた。

「何処にでも、意地の悪い親戚って言うのは居るものでね、どんなに家族が隠しても、私の耳に入って来る。おばあちゃんのお葬式で、言って来るんだ。身持ちの悪い女の子供だって。親戚に自殺者なんて恥だって。だから、恋愛も結婚もしないって、決めた」

「それが、恋愛を嫌いな理由?」

 本田は頷いた。

 口をつぐんだ本田は、ペットボトルを開けて、お茶を少し飲んだ。

 俺も飲む。

「そこで終わったらまだ良かったんだけど、私、今の家に養子に入る前に、その社長って人に認知されていたの。産んだ母が死んで、遺伝上の父は、責任感じていたんだって」

「そこで放置とか、ゲスじゃないか」

「そうだろうけれど、放置しておいてくれれば良かったんだよ」

「どういう事?」

「遺伝上の父が死んで、遺産相続が発生したの。高校生の時」

「……ドロドロだったのか?」

「うん。ドロドロ」

 大人でも辛いだろうに、思春期にそれは辛い。

「未成年はね、成人を後見人にして手続きするんだけど、お父さんがやるって言ったら、何処から聞き付けたのか、お母さんの親戚から文句が出たの。理沙の母親は、うちの親戚だ。お前は赤の他人じゃないかって。お葬式で私に酷い事言った人達が、そう言う事言うんだよ」

「じゃあ、お母さんが後見人になったのか?」

「ううん。お母さん、裁判所に行くかも知れないって話になったら、怖くて出来ないって言い出したの」

「裁判所?」

「相続額が多かったの。向こうは養子に出た愛人の子供に、お金をあげたくなかったから、色々理由を付けて、相続をやめさせようとしていたの」

「聞いていい?幾らか」

 本田は俺を見て暫く考えてから、指を三本立てた。……三千万じゃない。多分三億だ。

 そんな金持ちの考える事は、俺には理解できない。

「遺伝上の父はいきなり死んだから、遺言も無くて……減らした金額で和解しようとしたんだけど、相手側が譲らなくて。一切与えたくない、謝罪しろの一点張りだったの。結局相手の言い分は通らなくて、私は法律で定められた分を全額相続する事になった」

 相続した事をちっとも嬉しそうに話さない。明らかに嫌だったと言う顔をしている。

「何で、相手の言い分を飲まずに、相続したんだよ」

「育ててくれたお父さんとお母さんに、返したかったの。私を育てたお金を」

 養子である本田は、義理の両親に養育してくれた恩を返したい。しかし、高校生の本田は一人では戦えない。誰か、大人が必要だったらしい。

「結局、八歳年上で、成人していたお兄ちゃんが後見人を引き受けてくれた。でも、両親もお兄ちゃんも、そのお金は私の物だって、受け取ってくれなかった」

 そんな訳で、本田は、未だにその遺産は手の付けられない金として、どこぞに預けて放置しているそうだ。

「短大に入った年に、お兄ちゃんが結婚した」

 話がいきなり変わった気がした。……そう言えば、実家に本田の見合いを吹き込んでいる兄嫁が居るって話があったな。

「兄の嫁は、結婚して戸籍を見ているから、私が養子だって知ってる。お兄ちゃんは、私が何処の誰なのか、兄嫁である珠代に一切話していない。珠代は、血縁関係の無い子だと思ってる」

「従妹だって教えてやればいいのに」

「それを話すと、その後の事もバレるかも知れない。私が多額の遺産を相続している事を、絶対にばらさない為に、親もお兄ちゃんも私の出自を言わない事に決めた。うちのお母さんの親戚の何人かは……私の相続金額を知らないけれど、相続したのは知ってる。未だに様子が怪しい。会いたくないって思う程度には、金の亡者な感じ」

 ドロドロもドロドロ。俺の高校や大学時代なんて、アホみたいに思える程の事が、本田の人生には起こっていた。

「兄嫁の珠代は、私と年が一緒で、同じ中学の出身者なんだ。高校卒業と同時に、お兄ちゃんと結婚した」

 国語教師と生徒の禁断の恋愛だったらしい。

「お兄さん……手が早いな」

「私もそう思う。珠代は見た目が凄く可愛い。中身もそんなに難しくない。リスとかハムスターを思い出す感じ。しかも一途。お兄ちゃんの好みだったんだと思う」

「兄嫁に対して、もうちょっと優しくなれよ。仲良く出来ないのは、そこが問題なんじゃないか?」

 くすっと本田は笑ってから言った。

「そうだね。でも、私はこんな女だよ。……とにかく、血の繋がらない妹とずっと暮らしていたのに、どうして同じ年齢の自分を選んでくれたのか、珠代はそれが不安で仕方ない。確かに、従兄だから結婚は出来るんだけど、私達はお互いをそんな風に見た事が無い。その事は、ちゃんとお兄ちゃんも話しているみたいだけど、信用していない。物凄く大事にされているし、お兄ちゃんの子供まで産んでいるのに、まだ心配している」

 億単位の金を持っている妹を気に掛ける兄の様子を、勘違いしているのだろう。

「それで、見合いか」

「そう。私を結婚させて、安心したいと思ってる。両親も、私をこのまま一人で放って置く訳にいかないってずっと思ってるし、意見が合っちゃったんだね。見合いなら、私の境遇やお金込みで引き受けてくれる人を、親が探せる訳だから、都合がいいんだろうね」

 本田は、グビっとペットボトルの中身を飲むと、ほーっと息を吐いた。

「私の話はこれでお終い。国塚君は、誰にも言わないって信じて話したんだから、その信用だけは守ってね。……こんな事情で振り回して、本当にごめん」

 肩の荷が下りたと言う様に、本田はほっとした顔をしている。

「……終わってない」

 俺は言った。

 本田が、怪訝そうに俺を見ている。

「見合いはどうした?」

 本田の顔が強張る。

「まさか、育ての親に義理立てして、その相手に嫁ぐつもりか?」

 図星だったらしい。

 本田は恋愛をしない。産みの母親みたいになりたくないから。

 そして、どうしようも無い問題に付き合って、育ててくれた両親と兄に逆らえない。

 親の面子を潰す気など、今の話を聞く限り、無い。お金を受け取ってくれなかった分、何としてでも報いようとする筈だ。

 諦める筈だったのに……畜生。

「俺にしないか?」

 本田は黙っている。

「見合いなんかやめて、俺にしろよ」

「どうして私なの?」

 俺も知りたい。

「さっき言った!何度も言わせるな。自分でも馬鹿だと思うけど、俺はお前に見合いして欲しくない。こうやって話を聞いても」

 本田がぽかんとしている。

 俺は耳まで赤い気がするが、続けた。

「俺にもそれなりの稼ぎがある。多くは無いけど、暮らすには困らない。……そんなに金が重いなら、何処かに寄付してしまえ」

 金じゃない、本田が欲しいと言う意味で言った。それなのに……

「それは出来ない。苦労して相続した金だ。うちの親の老後とか、お兄ちゃんが困ったときに使いたい」

 俺の言わんとする意味を、全然分かっていない。ここまで言って、まだそれか!

 ちょっとは、察しろ!

 本田の鋼鉄っぷりに怒りが湧いて、更に言い募っていた。

「そんなに恩義感じてるなら、俺と結婚して安心させてやれよ!俺はお前がいい。事情ももう知ってる。文句あるか?」

 プロポーズ。最低なプロポーズ。雰囲気も何も無い。喧嘩みたいだ。

 本田は、まじまじと俺を見ている。

「国塚君は、それでいいの?」

「くどい」

 何度も、好きだって言わせないでくれ。お前、俺の事ちっとも好きじゃないだろうに……。好いてくれていないと分かっている相手に、好きって連呼するのは辛いんだよ。

「じゃあ、そうする」

 え?

 ……今度は、俺が黙り込んで、本田をまじまじと見る番だった。

 子供がキャーキャー言いながら、遠くの芝生を走っている。

「よろしくお願いします」

 本田は俺の方へ体を向けて、深々と頭を下げる。

「こちらこそ……」

 本田と話をして、諦めるつもりだったのに、気づけば、付き合いをすっ飛ばして、結婚の約束を取り付けてしまった。

 嬉しいと言うよりも、本当にこれでいいのか、考えてしまった。


 私は、国塚理沙になる事に決まった。入籍日は、私の二十七歳の誕生日である九月二十八日に、国塚君……慶人君が決めた。

 国塚慶人、二十八歳。フルネームは、結婚が決まってから知った。最初に聞いた気もするけれど、すっかり忘れていた。何か、立派で画数の多い名前だと思う。

「慶ちゃんって呼んでもいいぞ」

 なんて言われたけれど、そんな呼び方は、恥かしいので拒否した。今のまま、君付けする事にする。

 あっちは、私の下の名前をちゃんと知っていた。

「似合わないでしょ?」

 って言ったら、

「そんな事は無い。理沙ちゃんって呼んでやるよ」

 なんて言われたので、慌てて言った。

「年下だし、呼び捨てにして」

「じゃあ、今度から理沙って呼ぶからな」

 そんな訳で、下の名前で呼び合う事が、即決定した。

 見合いの話は進んでいた。早急に断る必要があったので、丘陵公園で話をした後、実家も近いので、車に乗せてもらって、そのまま実家に行った。

 両親はびっくりしていた。……当たり前だ。ほんの数十分前に結婚すると決めた相手だ。それまで男の影など無かったのに、いきなり湧いたのだから。

 明らかに不審そうな目を向けている両親に、慶人君は深々と頭を下げた。

「俺がずっと片思いをしていて、さっきようやく俺の気持ちに応えてくれました。どうか、娘さんを……理沙さんを俺に下さい。お見合いは無かった事にしてください」

 当然、金の事を知っているのかという話になる。私の相続した金があれば、多分、働かなくても暮らせる。

 でも、そんな風に思う奴に私はやれない。と言うのが、両親の考えだ。

「さっき私が、全部話した」

 私の言葉に、両親が目を見開いている。……我が家のトップシークレットだ。安易に話して良い内容じゃない。

 私が、自分の口から他人にこの事を話したのは、初めてかも知れない。

「俺の金じゃないので、理沙さんに今後も、そのお金の事は任せます。無い物と思って暮らします。……信用できないなら、ご両親で預かってください」

 私が差し出しても、受け取らなかったお金を、両親に受け取らせるようにしてくれるなら、ありがたい。

 私も頷く。

「それがいい。そうしよう」

 すると、両親の空気が変化した。

「理沙、その人とはどういう関係だ?」

 会社の同僚である事すら言っていなかった。

 慶人君は、焦っていて、手土産すら買って行かなかったと、凄く後悔していた。

 私達は、見合い阻止にばかり頭が向いて、それしか考えていなかったのだ。

 その後、同じ会社の同期である事、大学を出ているので、二歳上である事、営業部に居る事なんかを話した。

 慶人君は、特に日本酒に詳しいので、その話をしていた。今日のご無礼のお詫びに、今度は良いのを選んで持ってきますと。

 そして、私に長い間ずっとアプローチしていたが、全く通じなかったと、両親に平然と言った。

 そんな事を言われたら、私が悪者じゃないか!

「やめてよ。そんな事、言わないで」

 私が怒ると、両親は笑った。

「理沙は鈍いものね。この子の相手は大変でしょう?」

 母がそんな事を言う。

「覚悟はしています」

 慶人君はしれっとそう答えて、更に両親の雰囲気が緩んだ気がした。

「珠代ちゃんを見ていると、理沙の事が心配で心配で……でも、この子の性格を分かった上で、そう言ってくれる方が居て、本当に良かった」

 父の言葉は決定打だ。これで見合いは無くなった。相手には、両親から断わりを入れると言う話になって、慶人君と一緒に、再び頭を深く下げた。

 慶人君のご両親への挨拶も、すんなり済んだ。実家はここから離れていて、三百キロの距離を、SUV車で移動する事になった。

 慶人君は、男三人兄弟の真ん中で、三歳離れて兄と弟が居る。全員、実家から離れた県外に就職したそうだ。まだどちらも独身だとか。

 ご両親は、慶人君が結婚する事を、大喜びしていた。

「娘だよ。お母さん、娘が出来るよ」

「本当に可愛い。女の子、素敵ね」

 慶人君が、嫌そうな顔をして両親を見ている。娘?女の子?凄く歓迎されているけれど、嫁として扱われていない気がする。

 どうしても娘が欲しくて、三人頑張ったけれど、男ばかりだったと言う話をされて、孫は出来るなら女の子が良いと言われた。

 ……男の子三人の育児は、心が荒むから、絶対に女の子を産みなさい。と慶人君のお母さんは力説していた。

 私が話さなくても、ご両親がどんどん喋るので、黙って聞いているだけで良かった。でも、結婚すると言う事の意味を色々考えさせられた。

 子供、産まないといけないのか……。人工授精で、誰か慶人君の子供、産んでくれないかな。

 そんな事を考えていると、慶人君は、我慢出来なくなったのか。むっとして言った。

「もう帰る!あんまり色々言わないでくれ。理沙が怖がるだろうが。それで兄貴が彼女に逃げられたの忘れたのか?」

「縁がある人とは、ちゃんと結婚するわ。たまたまよ」

 このご両親を見て、引く女性は少なからず居るかも知れない。男の子産んだら可愛がってもらえなさそうとか、一方的に話すから口が挟めないとか、そんな事は、全然気にしていなさそうとか。

 帰りには、一人暮らしだから食べきれないと言ったのに、どっさりと、趣味で作っていると言う、家庭菜園の野菜を持たされた。

「ああ言う親なんだ。これから付き合う事になるんだけど……近くに住んでないから、あんまり気にしなくていいよ」

 結婚すると、親戚が増える。当たり前の事を失念していた事に私は気付いた。

「理沙は料理しないよな。それ、俺が料理する。一緒に食おうぜ。いきなり送り付けられるから、慣れてるんだ」

 何か、負けている気がする。私だって、やれば出来る筈だ。

「これから覚える」

「それはいい事だ。是非頼む」

 共同生活者にばかり、負担をかけてはいけない。

 新居も決まって、私は引き続き、経理で働く事にした。

「辞めるか辞めないか。理沙が決めて」

 慶人君がそう言うので、私は辞めないを選択した。

 私のもらった金はアテにしない。そう慶人君は言ったけれど、働いて稼いだ金は、夫婦の共同資産になる筈だ。

 その分くらいは、稼ぎたいと思ったのだ。

 あんな大きな車に乗ってるし。

「中古車だよ!」

 サーフィンしてるし。

「家計圧迫する程じゃないよ!」

 ジグソーパズルも、書の軸もある。出来れば保管場所が欲しい。レンタルスペースを借りたい。その金は私が出したい。

「ちょっとは、整理しろ!」

 色々突っ込まれたけれど、とにかく働く。

 電話で結婚を報告すると、咲は凄く喜んでくれた。まるで自分の事みたいに。

『理沙ちゃん、良かったね。国塚君が打たれ強くて、本当に良かったね』

「余計な事も言われた気がするのは、気のせい?」

『そんな事ないよ。ばい菌君扱いだったのに、旦那さんになってくれるなんて、普通無いよ』

 冷静に考えると、それは確かだ。慶人君は凄いかも知れない。

『愛されてるんだから、ちゃんと、夜の方も頑張るんだよ』

 夜の方……。

 私が返事をしないと、咲はぼそっと言った。

『理沙ちゃん、まさか結婚するのに、ナシで行こうとか思ってないよね?』

 思ってました……。

「ダメかな?」

 咲の声が耳に響いた。

『ダメに決まってるじゃない!っていうか、結婚決まってるのに、何もしてないの?何時の時代の人よ!』

「今の時代の人だよ。結婚式の手配に追われていて、それどころじゃない感じ」

 新居には、来月から入居するけれど、別々に部屋を確保している。

 サーフィン仲間のお誘いで、慶人君は、休日にいきなり消える。そのせいだろう。

「一緒に寝てたら、途中で起こすかも知れないから」

 慶人君はそう言って、別室で寝る事を提案してきた。

 波の状態は、前日位まで分からないと言う話は、前に聞いている。それなら、仕方ないと思った。

「遠くまで、朝から車で行くんだよね?気を付けてね」

 慶人君は、変な顔をしてから言った。

「俺、別にサーフィンの予定はすぐやめられるから。何かあったら、遠慮なく言えよ」

「好きな事やめてまで、一緒に居て欲しいと思ってない。行っていいよ」

「そう……」

 慶人君は、力なく返事をして、暫く口を利いてくれなかった。……好きな事を自由にやって欲しいと思うのは、いけないのだろうか?

 そんな感じで、結婚する事が決まって以来、仕事の打ち合わせみたいに結婚式の準備をして、それ以外はバラバラである事を白状したら、咲が言った。

『このまま結婚したら、上手く行かない。何とかして』

「そんなに大事?」

『大事』

 咲の即答が怖い。

「どうしても?」

『大事な妻の役目です』

 経験者の重い言葉が圧し掛かる。

『とにかく、しないって言う選択肢はないから。早く国塚君と話し合って』

 咲はそう言って、電話を切った。

 まだ言い足りなかったのか、長いメールで、結婚という契約について、淡々と解説をされた。夫婦になると言う事は、家族計画を一緒に決める権利も含まれているとか。

 妻の役目……。

 世界中の夫婦という夫婦は、自分の遺伝子を残す目的も含めて、結婚という契約をしているのだと、改めて思い知る。

 同じ家に住んで、戸籍を書き換えるだけ……という訳にはいかない様だ。

 でも、手も繋いだ事が無いのに、とても出来るとは思えなかった。


 見覚えの無い番号から電話が来た。

 出ると飯田咲だった。今は吉田咲だ。

『理沙ちゃんから聞いた。結婚おめでとう』

「ありがとう」

 そう言えば、理沙と友達だったな。と思い出す。

『今、ちょっといい?』

「いいよ」

 現在は、午後八時半。帰宅して指輪のカタログをネットで見ていた所だ。

 理沙は、婚約指輪なんていらない。と言った。

「何で?」

「無くしたら嫌だから。あれって、婚約している間だけの物だよね?勿体ない」

「結婚指輪は?」

 俺の顔を見て、少し考えてから理沙は言った。

「慶人君が選ぶなら、する」

 何か、面倒な仕事みたいに押し付けられた気分なのはどうしてだ?

 そんな訳で、結婚指輪を俺一人で検討中な訳で……。飯田からの電話を、わざわざ遮る用事は無い。

『理沙ちゃんと、何処までいってる?』

 何が?って思うまでも無く、一瞬で意味を悟る。最近、その事ばかり考えているせいだ。

 結婚すると簡単に言った理沙。

 引っ掛かりはあったが、俺は受け入れた。結果、結婚したら何をするのか、全く考えていない事もすぐ分かった。

「何も」

『嘘でしょ?』

「本当」

 はっきり言えば、キスもしていない。挙式が初キスになりそうとか……何の修行かと思う。そもそも、飯田とこんな話をしている事自体が、おかしい。

『ねえ、何で理沙ちゃんなの?国塚君なら、誰でも行けたと思うんだけど』

「誰でもいいって訳じゃないだろう?結婚して、一生一緒に居るなら」

『国塚君って、案外、古風で重いんだね。ダメなら離婚とか考えないんだ』

「飯田……。俺を何だと思ってるんだ。何気に酷いぞ」

 婚約中の男に何を言い出すんだよ。こんな女だったのか……。

『理沙ちゃんが守ってくれたから、私は今幸せになれてる。私は理沙ちゃんに恩があるの。どうしても、理沙ちゃんの事だから、確認したくって』

「守ってくれたって、何があったんだよ?」

 聞けば、凄い話だった。

 飯田は、ストーカーに遭っている所を、同じアパートに居た理沙に助けられた事から、友達になったそうだ。

 自分が綺麗だと言う事がプライドだったのに、そのせいで酷い目に遭った飯田は精神的にズタズタで、夢も諦めて投げやりになっていた。理沙は、そんな飯田を元気づけて、ずっと一緒に居たのだとか。

 何だよ!その良い話。

 理沙は、色々あったとしか言わなかった。……男前過ぎるだろう。惚れる。

『理沙ちゃんは、女としては残念な部類だけど、人間としては最高だから』

「そうだな……」

 友達なだけあって、良く知ってる。残念とか言われているが、俺はその残念女が好きで、結婚する。きっと、物好きとか思われているのだろう。

『それでね、理沙ちゃんは私からちょっとだけ焚き付けて置いた。潔癖さんだから、興味無かったみたいだし』

 興味が無い。そうだろうなぁ。分かるよ。

「お前ら、一緒にそう言う話はしなかったのか?」

『全く。高校時代とかも、そう言うの興味無かったみたいだね』

 そうだ。そんな事に興味を持てるような出生じゃない上に、思春期は、それどころでは無かったのだ。

「焚き付けたって、何したんだよ?」

『妻の役目について、説教した』

 思わず、携帯を落としそうになった。

 それ……理沙に対して、ハードル高すぎるんじゃないのか?あいつは、見合いか俺かで、俺を選んだに過ぎない。

 責任とか義務が発生しているなんて考えると、変な方向に行きそうな予感がする。

「マジかよ」

 俺は頭を抱える。

 理沙が壊れる!今はダメだ。

『一生しないつもり?』

「そんな訳あるか!ただ、もうちょっと……こう、段階を踏んでだな」

『だから何年も、いい同僚だったんでしょ?』

 飯田……厳しい。

「何で、そんなに人の家庭の事情に……」

 即死しそうな状態で、俺は飯田に聞いた。

『理沙ちゃんの赤ちゃんが見たいから』

「は?」

『理沙ちゃん、おしゃれしないし、化粧も上手くないけど、色が白くて可愛いよね?国塚君もおじさんっぽいけど、格好良い。きっと、美形が生れる』

 飯田の思考に、俺はついて行けない。

「俺と理沙を、繁殖用の馬か何かみたいに言うなよ」

 飯田は、俺の文句を無視した。

『そう言えば、理沙ちゃんのお兄ちゃんのお嫁さん、会った?』

「会った」

 珠代の事か……。

 会ったが、珠代は女子力で、全てを片づけている様な女だった。原動力は家族への愛だ。

 娘に、自然食品を選んで食べさせているとか、調味料に合成化合物が入って居るとダメとか……。趣味が裁縫とか。

 飯は液体燃料で、婚約指輪をいらないとかいう女と、話が合う筈が無いのだ。

 鋼鉄で出来ている理沙に対して、わたがしみたいな女だった。

 どっちが悪いとか言う問題じゃない。偏っていると言えば、どっちも偏っている。そのせいで、壊滅的に相性が悪い。俺はそう思った。……飯田とも、合わないみたいだ。

『あの子、社会で揉まれてないから、考え方が幼かったでしょ?』

「他所の家の事だから、俺はノーコメント」

 そんな事を言ったら、理沙のお兄さんである誠さんが可哀そうだ。この話題は良くない。

 しかし、飯田は続けた。

『とにかく、あそこの子より、可愛い子作って、珠代をぎゃふんと言わせて!』

「何でそんなに怒ってるんだよ」

『あの子、理沙ちゃんが実家に行くたびに待ち構えていて、手料理振る舞って、お前には出来るまいって、ドヤ顔してたし。子供が出来たら出来たで、自慢しっぱなし』

「会った事あるのか?」

『何度も。お友達もご一緒にって、何で家族のイベントとかに、私まで呼ぶのよ。最初は私を味方に付けて、理沙ちゃん孤立させようとしてたし、失敗したら、私とセットで、理沙ちゃんを他人扱いするし。理沙ちゃんは黙ってたけど、私はあの子が許せないの』

 飯田は、本田家の事情を知らないのか……。珠代は、理沙を本田家の人間として認めていない。小動物的思考で、必死に威嚇していただけだ。……精神年齢が低いとは、確かに思う。ただ低すぎて、言い返したら、ぺしゃんこに潰れそうな感じだ。理沙もそれが分かっているから、何も言わないのだ。

「その辺は、俺がうまくやるから」

『女の子よ!』

 何でそうなるんだよ……うちの親も、飯田も。

「それじゃない」

『とにかく、結婚の中身がお粗末だって話になったら、珠代に馬鹿にされる。理沙ちゃんが幸せそうに……こう、愛されてツヤツヤする様に、絶対に何とかしてね』

 ……理沙が、愛されてツヤツヤ。

「分かった」

 珠代にどう思われてもいいけど、幸せにはしてやりたい。

 結婚式に飯田は呼ぶ事になっている。というか、この状態だと、呼ばなくても来そうだ。

 会う前にツヤツヤさせておかないと、文句を言われそうだ。

 俺だって、本当はツヤツヤさせたい。何でもうすぐ同居するのに、手も繋いでいないのか……。俺、精神的に、死ぬかも。

 デートすら出来ていない。

「わざわざ出かけなくても、会社で会ってるし、これから一緒に住むんだから、別にいいよ」

 とか、言われたのだ。

 いきなり襲いそうな自分が怖いから、部屋は別にした。新婚なのに。

 一緒に寝たら、一晩我慢できない自信がある。それを遠回しに言ったら、サーフィンに朝早くから出かけるからだと、勘違いされた。

 サーフィンも推奨。じゃんじゃん行けって感じだった。少しも寂しそうじゃない。

 理沙は無欲だ。そして酷い。

 飯田にすら教えていない自分の秘密を、俺に暴露しておきながら、指一本触れさせてくれない。

 欲しい物も、行きたい場所も無い。

 俺は、何かしてやりたくても、何もしてやれない。どうすれば、理沙が俺を好きになってくれるのか全然分からない。

 でも、結婚する。

 俺は、どうなってしまうのだろう……。


 同居する為に、新居に引っ越した。

 部屋の片づけの途中で、夜になって、晩御飯をどうするか相談して、宅配のピザを取って済ます事にした。

 引っ越しと言うのは、疲れるのだ。

 慶人君は、ピザを無言で食べている。

 共同のスペースであるリビング兼ダイニングキッチンのある部屋と、私達の各部屋二個という造りの新居は、新しく買いそろえた家具や家電もちゃんと置かれている。

 本当にここで今日から暮らすのだと思うと、何だか落ち着かない気分になった。

 そう。落ち着かない。咲のせいだ。

 慶人君と何もしないのは、おかしい。妻の役目とまで言われた。

 それが間違っていないのも、会社でちょっと分かって来た。

「ねえ、婚約指輪もらってないの?」

 経理で、結婚している四十代の人にそう聞かれた。

 先日の結婚のお祝い飲み会での事だ。

 主賓が自分なんて初めてだ。

「いらないので」

 私がそう答えると、周囲も、えっ?と言う顔をした。

「最近の若い子はドライねぇ」

「いやいや、私は欲しいですよ。婚約指輪」

「私も!」

 他の子達が、そう言う。……そう言うものなのか。

「でも、国塚さんなら、指輪なんて、どうでも良くなるくらい大事にしてくれそう」

「めくるめく天国への扉が……きゃっ!」

「大人な感じだもんね。あ~男欲しい」

 経理は女の園。酒が入れば、明け透けな会話が飛び交う。男の上司や後輩は、怖いモノを見る様な目で端っこに固まって、チビチビ酒を飲んでいる。

「新婚旅行は沖縄に行くんだっけ」

「そうです」

 何処に行きたい?と聞かれて、何処でも良いと答えたら、がっかりされた。

 だから、とりあえず暖かそうな沖縄にしてみたのだ。

 慶人君に、どっちでも良い、何でも良いは禁句だ。

 はっきりと希望を伝えた方が喜ばれる。

 そんな訳で、沖縄。行った事ないけど、サーファーには良さそうだし。

「本田さんも、サーフィンするんですか?」

「いえ、私は……」

「じゃあ、昼は別行動なの?新婚さんなのに」

「ずっと我慢しておいて、燃え上がる夜!凄そう」

 そんな、キャンプファイヤー待ってる子供みたいな事、考えて無いし。

 私がそんな風に思って聞いている間も、話は盛り上がっていく。

「いいな。私も誰かに愛されたい」

「愛されてると、ホルモン出て、お肌も綺麗になるらしいよ」

「ダイエットにも効果的って前、雑誌で読みました」

「どんだけよ!」

 笑い声がこだまする。

 知らない……。こんなの、知らない。

 でも、皆が普通にやっている事だとしたら、私はどうすべきなのか。手も繋いでいないのに。

「深刻な顔をしてるけれど、マリッジブルー?」

「引っ越しの準備で疲れちゃって」

 嘘じゃない。帰って色々やるのは大変なのだ。泣く泣く、ジグソーパズルの多くを手放した。完成したジグソーパズルは、定着スプレーで固定して額に入れてしまうと、もうバラバラにして遊べない。……飾る絵として、ネットオークションに出してみたが、売れなかった。

「大変だよね。引っ越し。そう言えば、うちも今年更新だ。どうしよう!」

 話題は引っ越し談義に変更されたが、私の頭の中は、夜のやつとやらに対する不安で一杯だ。

「理沙」

 はっとして顔を上げると、そこに慶人君が居た。ピザが残っている。

 意識が過去に飛んでいて、自分の居場所を忘れていた。

「もう食べないのか?」

「あ……うん」

 慶人君は、最後の一枚を食べてくれた。

 私はゴミを片づけて、やる事が無くなった。

 微妙な雰囲気で、机を挟んで向かい合わせに座っていると、慶人君が言った。

「隣、行ってもいいか?」

 全身に緊張が走る。

「い、いいよ」

 噛んでしまった。

 慶人君は、苦笑して立つと、私の隣に座った。

「これからずっと一緒に暮らすんだから、そんなに緊張しないでくれよ」

 そう言いながら、慶人君は私の手の甲に自分の手を重ねた。

 驚いて慶人君を見ると、

「嫌か?」

 と聞かれた。

 この程度は……深刻な妻の役目問題に比べれば、嫌の部類に入らない。

「ううん」

 私がそう言うと、慶人君の指が、私の指の間にぎゅっと入って来た。

 何か、恥かしい。

 手を引こうか迷って、結局そのままにした。

 最近、慶人君のがっかりしている顔を見ると、心が痛む。

 私がここで引けば、慶人君はがっかりしても、私の意思を尊重して引いてくれる。けれど、見合い相手よりも、慶人君の方が良いと決めておきながら、我慢をさせ続けるのは、確かにいけない事だ。

「咲ちゃんに、言われた」

 そこで、全部言わせてもらえずに、慶人君が言った。

「妻の役目は忘れろ」

「……何で知ってるの?」

「飯田から電話が来たから」

 咲が何を言ったのか分からないが、何だか、慶人君は不機嫌そうだ。

「あのな、俺はまず、デートしたい」

「デート?」

「指輪も一緒に選びたい。お前の意見も聞きたい。ずっと付けて置くんだから」

「私、センス無いよ」

「いいよ。今回は俺と一緒だ」

 一緒。……何となくピンと来るものがあった。

「結婚するのに、一人暮らしの延長みたいなの、俺は嫌なんだ」

 慶人君は、私と一緒に決めたり、何かしたかったのだ。それも無しに、妻の役目を担えと言う人では無い。

 咲の言う事も間違いじゃないと思うけれど、私に本当に足りなかったのは、こっちだったのだ。

「ごめんなさい」

 するりと、謝罪の言葉が出た。

「私、自由に今まで通り暮らすのが、一番負担にならないと思ってた」

「負担?」

 慶人君が、片眉をしかめる。

「私は、人の気持ちが分からない」

 言いたくない自分の欠点。けれど、言うしかない。

「慶人君にも酷い事を一杯言った。これからも言うと思う。それを思うと、迷惑を掛けているとしか思えなくて」

 慶人君の握り込んだ手が持ち上げられて、私の手首が、慶人君の唇に当たった。

 スローモーションみたいに見えるその動きに、心臓が壊れそうだった。

「それは違う」

 唇を離して、慶人君が言った。

「知ってて結婚を決めた。何度も言った。俺はお前がいいって」

 慶人君は、まっすぐに私を見ていた。

「理沙にも、俺がいいって言わせたい」

「そう言う気持ちって、伝染病みたいなものだって私は思ってる。治ったら、忘れてしまうよ」

 私の産みの母は、この病気が原因で、人の道を踏み外し、私を産んで死んでしまった。

「じゃあ、死ぬまで病気で居ればいい」

「そんな……」

「理沙も一緒に、病気になればいいんだ」

 慶人君は、にやっと笑った。

「俺の病歴は長い。治らないと思う。それを、お前にうつしてやる」

 手首を引っ張られて、腕の中に閉じ込められた。前みたいにじたばたするよりも、心臓がバクバク音を立てていて、驚いて声が出ない。

「……今日は暴れないんだな」

「何か、びっくりして」

「ごめん」

 謝りながら笑う声が、温度と共に振動として伝わって来る。大きな体、低い声……異性なんだと強く意識してしまう。

「俺だって、本当は飯田の言ってた事は考えてる」

 やっぱりか……やっぱり、必要なんだ。

「でも、それでお前が俺を嫌いになったら、それはそれで、結婚生活が地獄になると思わないか?」

 そうか、前にあれだけパニくってしまったのだから、慶人君がそれを心配しているのだ。

 しかも同居している。逃げ場がない。

「理沙が、俺がいいって言ってくれたら……その時に頼むよ」

「それでいいの?」

「じゃあ、今頼んでいいのか?」

「それはだめ」

 ……何も知らないまま大人になってしまった私が悪いのだが。正直、今は困る。

 頭の上に息がかかった。ため息だ。

 ぎゅっと抱きしめる腕の力が強くなる。

「早く、俺がいいって言ってくれ」

 声が情けなくて、笑ってしまった。

「白髪が生えるまで言わなかったらどうする?」

「それは困る。もうちょっと早く」

「それは分かりません」

「理沙~」

「もう離して!」

「もうちょっとだけ」

 男の人に抱きしめられたまま、冗談を言って笑うなんて……私の人生には起こらない筈だった。

 これを傍目に見たら、私も十分に病気の感染者だった訳だが……私には自覚が全く無かった。


 理沙とデートだ。

 結婚も間近で、同居もしているけれど、正真正銘のデートはこれが初めてだ。

 やった!凄く嬉しい。

 同居した昨日の夜から、理沙の雰囲気が柔らかくなった。

 あのまま一緒に暮らしても、多分上手く行かない。何とかしなくてはいけないとは思っていたけれど、本当にうまく行って良かった。

 話すのは大事だ。うん。

 家を出る所から一緒とか……萌える。何もやってないけど。

 出かけたのは、宝飾店だ。結婚指輪を選びに来たのだ。理沙は予想していたが、結婚指輪を見て言った。

「どれも同じに見える」

 ……そうだな。お前の感性ではそうだろうな。

 書道の文字の微妙なバランスを感じるのに、パズルピースのつなぎ目を目ざとく見つけるのに、こう言う物に対する感性はゼロだ。……きっと全部、銀色の輪に見えている。

 俺の好きなデザインにするとごつくなって、理沙の指に合わない。だから女に人気のメーカーの店にわざわざ来たのに……頼りにならない。

「こちら最新のデザインになっております」

 緩やかに波打った筋の入ったデザインの指輪が出て来て、これは違いが分かる筈だと思って理沙を見ると、

「これにする」

 と言った。即答……え?俺の意見は?

「これでいいのか?」

「慶人君、サーフィンするでしょ?このぐにゃっとしたの、波みたい」

 ぐにゃ……今、店員が嫌な顔をしたぞ。

「サーフィンは、理沙の趣味じゃないだろう」

「だから、いないときはこれをはめていれば、慶人君を忘れない」

 連想する為のアイテムかよ!そんなに簡単に忘れるのか?

 ……でも、これをしていれば、俺を忘れないと言うなら、これにするしかない。俺としても、いつも身に着ける分には、悪い感じじゃない、と判断する。

「じゃあ、これにしよう」

 そんな訳で結婚指輪が決定した。

「何処かで休むか」

「うん」

 コーヒーの専門店に入って、一緒にコーヒーを飲む。

「何処か行きたい所あるか?」

 俺が聞くと、予想通り理沙は頭を横に振った。……無欲で無趣味。これがデート最大の試練だ。

 好きな物も……実の所、よく分かっていない。

「理沙はさ、何が好き?」

 単刀直入に聞くと、理沙はちょっと困った顔をした。

「具体的に。ジグソーパズルは抜きな」

 ジグソーパズルは、理沙と一緒にやってみた。……結果、会話が全く無い。黙々とパーツを探してしまう。部屋に座りっぱなしになるし、凄く疲れる。面白く無いとは言わないが、あればかりしていたら、俺がダメになる。だから、却下しておく。

 暫く考えてから、理沙は言った。

「これみたいなの。探しているの」

 理沙が、バッグの中から、何か出してきた。

 七宝焼きのキーホルダー?いや、ガラスだ。古い。外国の物だろうか?

「これは?」

「ヴェネチアン・グラスのペンダントトップ」

 何か、理沙っぽくないアイテムが出て来た。

「お母さんと産みの母が、一緒にヴェネチアに旅行した時に買って来た物だって、もらったの。色違いは、お母さんが持ってるの」

「形見か?」

 理沙は頷いた。姉妹で旅行した時の思い出の品か。

「これはこれで、そのままにするけど、こういうのが、私も欲しい」

 ちゃんとあるじゃないか。欲しい物。

 理沙の言い分では、形見を身につけているのは、事情が事情なだけに、居心地が悪い。でも綺麗だから、自分用が欲しいと思ったそうだ。

 理沙はネットで調べてみたものの、似たものを見つけられない。しかも、自分のセンスにも自信が無い。だから、なかなか購入に至らない。

「咲ちゃんには、家の事情は話していないから、一緒に探すのは、頼めなかった」

 なるほど、それで俺か。

「慶人君なら頼りになる。休みの日には、ネックレスをしてるチャラ男だし」

「一言多いよ!」

 チャラ男じゃない。好きで付けてるだけで、別にみせびらかしたい訳じゃない。だから、ちゃんと場所は弁えている。

「二十年以上前の物か……手がかりが少ないな」

「うん。それは分かってる。綺麗だけれど、これはお母さん達に似合う物で、私に似合うか分からない。だから、私用の物を、捜して選んで欲しい」

 宝石やプラチナリングより、ガラスが良いと言う理沙。

 いつも鞄に入れて持っていたのだとすれば、並々ならない想いがある筈だ。

 これは大仕事だ。

「こんな事なら、新婚旅行、ヴェネチアにすればよかった」

 俺がそう言うと、理沙は首を横に振った。

「イタリア語なんて分からないから、別にいいよ。物が手に入れば、それでいい」

 理沙のバッサリが出た。……言うと思ったよ。情緒とか過程を楽しむ思考が無い。これは直してやった方がいいだろう。何とかしよう。

 俺としては、パソコンの画面を見て、品を物色するよりも、店で実物を見て探したい所だ。大きさや感触も、身に着けるには大事だから。特に、ガラスのペンダントトップは、大きいと重そうだ。

 デザインが気に入っても、身に着けて不快だったら意味が無い。

「こんな感じの大きさだったら、ヴェネチアン・グラスで無くてもいい」

 似た物が欲しいだけ?……違う。何か、複雑な思いが沢山詰まっている。

 物を手に入れたら終わりと言う問題じゃなさそうだ。漠然とそう思う。

「もうちょっと、イメージを絞りたいから、そう言うの売ってる店に行こう」

「分かった」

 そんな訳で、雑貨屋を何軒か巡る事になった。思っていたよりも、軽くて、小さい物が多い。技術も昔と違うのだろう。中に凄く細かくて精巧な模様が入っている物もあった。

 少し遅い昼食を取って、理沙に感想を聞くと、

「綺麗だけど、何か、思ってたのと違う」

 と言う、返事が返って来た。

「そうか。俺もそんな感じだ。今日はこれくらいにして、気長に探そう」

「うん」

 ガラス細工を沢山置いている雑貨屋の人に、こんな感じのを探していると言って、ペンダントトップを見せたら、言われた。

 手作りのガラス細工は、全部一品物なので、同じ物は一つとして無いと。気に入る物を探したいなら、こまめに品を見て探すしかないそうだ。

 馬鹿に出来ないな。ガラス。貴金属より難しいじゃないか。俺は、ガラスに対する認識を改めた。

 理沙の為に出来る事があった。俺は、それをちょっと喜びながら、この後も、理沙と同じ家に帰れる事が嬉しくて、幸せをかみしめていた。

 夜中に、隣の部屋で理沙が寝ているのに、何も出来ない事に悶え苦しむまで。

 それはそれ、これはこれ。

 昨日の夜は、引っ越しの疲れもあったから、すぐ眠れたが、今日は良い雰囲気のまま家の中で一緒に晩飯を食って、テレビも並んで見てしまった。……でも別室。

 これがずっと続くのかと思ったら、頭を抱えてしまった。


 実家に行くと、珠代の様子がおかしかった。

 ウェディングドレスを選ぶ事になった訳だが、当然私にはそのセンスが無い。

 と言う訳で、母を頼って一緒に選んでもらう事になった。慶人君は一緒に来なかった。

「親孝行しておけ。湧いて出た様な大金渡すよりも、ずっと大事だぞ?」

「ドレス選ぶ事が?」

「うちの母親はな、娘とこれがしたくて、男を三人産んだんだ」

「じゃあ、お義母さん、呼んだ方がいいんじゃない?」

「それは止めとけ。……多分、理沙のお母さんの意見が入らなくなる」

 凄い勢いで話していた、慶人君のお母さんを思い出す。あの勢いで色々と勧められたら、確かに、母の意見は聞き入れてもらえなさそうだ。

「兄貴も勇人も居るから、そっちの嫁に任すよ」

 私みたいなこだわりの無い女よりも、それはまずいんじゃなかろうか。咲みたいな子が嫁に来たら、結婚前からもめるのでは……。

 慶人君には、独身の男兄弟が後二人存在する。どちらも、他県で働いているから、結婚式まで会う予定が無い。……慶人君曰く、両親に会うと、早く結婚しろと言われるので、出来るだけ接触を避けているだけだと言われた。

 写真を見た限り、二人共、慶人君と良く似ていた。イケメンだと思うのだが、何故独身なのか。

 慶人君もそうだが……きっと女の趣味が悪いのだろう。

「今、何か失礼な事考えていただろう?」

 喉から変な声が出た。

 最近の慶人君は、私の顔の表情から、思考を読む。……ちょっと怖い。

 顔を会わせてお互いの顔を見て話す機会が増えたせいだろう。

「当日、楽しみにしてる。頑張って選べ」

 そう言われてしまえば、一緒に来いとは言えない。流れ的に、私のウェディングドレスは、慶人君へのサプライズと言う扱いになってしまった。

 咲が人生の目標にする程のウェディングドレス。どれも白くてヒラヒラとか言ったら、口を利いてもらえなかったのを思い出す。

 慶人君は、式場の人との打ち合わせで、さっさとグレーのフロックコートに決めてしまった。パンフレットに載っていたのと同じにしたのだ。サイズもあったので衣装選び終了。

「私もそれでいい」

 と、投げやりにパンフレットのドレスを指さしたのがいけなかったのだろう。

「飯田に報告してもいいか?式の当日に」

 慶人君の言葉で、私は自分の発言を撤回した。……それはやめて。

 そんな訳で、重大なミッションが発生したのだ。当然、母の助けは必須だ。

「珠代ちゃんも、一緒に行ってもらおうと思って」

 実家に到着すると、母は、わざわざ珠代を呼んでいた。

 珠代はニコニコしているが、ちょっと殺気立っていた。……お母さん、気付いて!

「心ちゃんは、誠が見てるから平気よね?たまには、育児を離れて息抜きしないと」

 兄の娘は心と言う。今年三歳になった。

 兄のマンションの部屋には、心ちゃんの写真が、アイドルのポスターみたいに飾ってある……らしい。珠代が怖いので、私は兄の家には行った事が無いのだ。

 そんな大判の写真、見た事ないし、現像した事ないけど、兄が苦笑して言っていた。

 職場の同僚が来て、驚いていたそうだ。

 本物がちゃんと家に居るのに、大写しの写真とか、どうなんだ、と私も思う。

 けれど、兄は珠代のやりたい様にやらせる。

 珠代が大好きだからだ。

 それなのに、珠代は……。

 心ちゃんも兄も居ない場所で、私と母と一緒に出掛けると言う事態を、受け入れ切れていない様子だった。

 私と母は結婚しても、縁が切れる訳じゃない。養子だからって、そんな事にはならない。

 私が嫁に行くのを喜んでいた珠代だが、家族として付き合いが続く事実を悟って、じわじわとおかしくなってきている。

 慶人君は、文句を付ける様な容姿をしていない。あえて言えば老け顔かも知れないがイケメンだ。おしゃれだし、体も引き締まっている。しかも、人間的にも出来た人だ。

 そんなハイスペックな人が、私の相手である事も(これに関しては私も同意見)、結婚してからも私が働く事も、珠代的には理解不能なのだ。

 そう。否定する以前に、分からないのだ。

 否定するには、理解が必要だ。けれど、珠代はそれ以前の状態なのだ。

「何で、働くの?」

 珠代が、両親が席を外した隙に言ったのを、思い出す。

「個人の自由でしょ?」

「お料理とか、洗濯とかお掃除は?」

「慶人君と当番制」

 珠代が信じられないと言う顔をする。

「男の人にそんな事させて、恥かしく無いの?」

「一人暮らしなら、誰でも出来る。男とか女とか、関係無い。……お兄ちゃんも出来るよ。まさか、出来ないとでも思ってたの?」

 今まで色々言われた事もあったので、最後にちょっと毒が入った。

 この一言が、珠代には大きなダメージを与えたのだ。

 誠さんには、私が必要なの!

 そんな自信を木っ端みじんに打ち砕いてしまったのだ。珠代には、社会人としての経験が皆無だ。兄と娘だけが存在意義だから、自分が不要なのかも知れないと思い始めて、怖くなって来たのだ。……小動物的な思考は、凄く分かりやすい。

 そして今日。母が呼んだ事によって、兄は、心ちゃんの面倒まで見られる事を実証しようとしている。

 そんな訳で珠代は、自分の存在定義が揺らいで、おかしな状態になっているのだ。

 ヒラヒラな衣装を見て、喜ぶ余裕なんて、欠片も無い。

「じゃあ、行きましょう」

 母は、すっかりご機嫌だ。

 珠代の様子を気にしつつ、運転手である父に車で送ってもらって、私達三人は、ブライダルサロンに到着した。

 担当さんが、サロンに置いている、レンタルドレスの部屋に案内してくれて、思わず息を呑んだ。

 凄まじい数のドレスが、ずらっと吊るされている。……これから一着を選ぶのかと思ったら、目まいがした。

 お母さんは、意気揚々と、担当さんと一緒にドレスの海に飛び込んで行った。

 何着か選んで持ってくると言っていた。

 珠代は、突っ立っている。

「珠代ちゃんは、どんなの着てたっけ?」

 心理的には呼び捨てだが、普段はちゃんを付けて呼んでいる。兄への敬意からだ。

 本当は覚えているが、あえて聞く。ミニスカートみたいな丈の短いのを着ていた。凄く変わっていたから、私みたいなのでも覚えている。

 若くないと無理なデザインだったんだなぁ、と今は思う。

「覚えてるでしょ?あんたが絶対に選ばないデザイン」

「そうかもね……」

「あんな、お侍みたいな人、紋付き袴の方がいいんじゃないの?」

 いきなり慶人君批判。確かにそうしておけば、私はここに来なくて済んだ。けれど、何となく咲の影響もあったし、慶人君の強い要望もあって、ウェディングドレスを選んでしまったのだ。

「慶人君が何を着ようと、慶人君の自由だから、何でもいいの」

「自由、すぐに自由って言う。あんた好きよね」

 珠代は、近くのソファーに座って、私を睨んだ。

「自由の何がいけないの?」

「私をカゴで飼われてる鳥みたいに思ってるの、知ってるんだからね」

 ちょっと焦る。鋭い。何か、いつもの珠代じゃない。睨みつけて来る珠代の目に、涙が浮かんでくる。

「ちょっと、どうしたの?」

 私が慌てている中、珠代が言った。

「パートの面接、落とされた」

 パート?面接?

 私が横に座って、ハンカチを渡すと、珠代はそれで涙を拭って続けた。

「あんたが結婚しても仕事するって言ったでしょ?それで、私も働こうかと思ったの」

 まさか、そんな事になっていたとは。

「心ちゃんはどうするの?」

「幼稚園行ってる」

 そうか。日中は暇なのだ。それでパートか。

「三つ受けたけど、何処も、またの機会にって断られた。理由が全然分かんない」

「それ、お兄ちゃんに言った?」

 珠代は首を左右に振った。

 就職活動をした事が無い、履歴書もちゃんと書いた事が無い珠代の事だ。一人でやってみたが、書類や面接の受け答えで、不備でもあったのだろう。

「私……何も出来ない」

 そう言って、私のハンカチを握りしめて、続けた。

「あんたなんて、嫌い」

 憎々しい女ではあるが、別に挫折している姿を見たかった訳じゃない。嫌いなのは知ってる。私も嫌いだから、お互い様だ。

 珠代の小動物みたいな心理を考慮して、家を出た。私も嫌だったのだ。私のせいで、兄の家庭が崩壊とか、人の家庭を壊す罪は、産みの母が犯した。私までとか……耐えられない。でも、両親に金銭的な負担を強いるのは、絶対に嫌だった。

 究極の選択。

 私が恨んでいるとすれば、学生用アパートに住むお金を、遺産から捻出せねばならなかった事だ。絶対に手を付けたくない金に手を付けた苦痛は、酷いものだった。

 学業をおろそかにするなら家から出さないと言われたので、アルバイトは増やせなかった。

 実際、一人で暮らしてみて思った。これ以上アルバイトを増やすのは絶対に無理だと。

 私は真面目にやっていないと、勉強が全然ダメだった。

 推薦で早々に進路を決めていたので、高校三年の後半は、受験も無くて、勉強をしていなかったのだ。だから、勉強に集中するとか、すっかり忘れていたのだ。

 家に帰って来て、母のハマっている海外ドラマを一緒に見たり、友達に借りたマンガを読んだりして、ダラダラしていた気がする。

 家事も料理も苦手だった。人間、向き不向きがある。咲には本当に助けられた。一人暮らしの基本は、咲に教わったのだ。

 咲が一人は不安だというので、同じ会社ばかり就活で受けた。咲は謝っていたが、別に行きたい会社があった訳では無い。ただ、自活できるだけの給料が欲しかっただけだ。

 そんな志の低さも影響したのだろう。咲ばかり良い報告が来て、私は面接で落とされ続けた。

 簿記とパソコンソフトの資格を辛うじて取ったものの、他は何も資格を持っていないから、凄く凡庸だったのだ。正に大勢の中の一人でしか無かったのだ。

 同じリクルートスーツで面接に挑めば、咲が綺麗な事は一目瞭然だ。隠せない。秘書検定に花を添える。咲は十分な売りを持っていたのだ。

 後でそれに気付いた私は、とにかく覚えてもらう為に、書道の腕前を面接でアピールする事にしたのだ。書道教室に就職しろとか言われるかと思っていたが、案外、評判が良かった。

 そうして、咲と一緒に内定が来たチョイスに入社したのだ。

 そんな経緯もあったから、珠代に優しく接するなんて無理だ。お前が居なければと言う気持ちは、こっちにもあるのだ。けれど、嫌いだから貶めようとした事は無い。

 兄の嫁だし、結婚生活を維持する為に、心を砕いて頑張っている。若いから出来ないなんて言わせない。という強い意思があった。

 私の結婚とその生活を聞いて、珠代は珠代なりに考えたのだ。この女は、精一杯頑張って生きている。

 仕事をしているとは言え、夜はジグソーパズルで頭の中を一杯にして、食生活もおざなりだった私に比べたら、遥かに努力していた。

「子供も産んで育ててるんだし、そんなに欲張らなくていいんじゃないかな。お兄ちゃんは、そんな事望んでないよ」

「何で家族じゃないあんたに、分かるのよ」

 家族じゃない。

 珠代が、そう言葉にしたのは、これが初めてだ。やっぱりそう思っていたのか。

 実際に言われると、ズキンと胸が痛んだ。

「家族よ」

 ドレスを持って現れた母が、いつの間にか立っていた。

「お義母さん……」

 珠代は、母に聞かれた事に戸惑っている。

 まだ帰ってこないと思っていたけど、案外早かった。と言うか、何処から聞いていたのか、私も分からない。

「理沙はね、私の妹の娘なの。妹が理沙を産んですぐに亡くなって、うちで引き取ったの」

 珠代が絶句している。今まで言わなかったもん。驚くよね。

「血の繋がりは、ちゃんとあるのよ」

 珠代は、火が付いたみたいに泣き出した。

 母は、担当さんに私を任せ、珠代と一緒に出て行ってしまった。

 担当さんは驚きつつも、速攻で気分を切り替えて、

「お母さんのお勧めはこの二着です。着て見て下さい。携帯でお写真は、私が撮りますよ」

 なんて、言ってくれたので、私も気を取り直して、そうする事にした。

 髪形をどうすると良いとか、そう言う話もしてもらって、写真撮影も終了したが、なかなか母が帰ってこないので、私が選ぶ事になった。

「どちらも、とても良くお似合いでした。本田様は、色が白いし、デコルテラインがとても綺麗なので、こういうデザインがいいと私も思います。他のも、試されますか?」

 どちらも、首とか肩が丸出しの、スースーするデザインのドレスだったが、これが私に似合うと言うなら、そうなのだろう。

「いえ、この中から選びます」

 母の一押しが知りたい所だが、居ない。

「お母さんは、本田様に選んで欲しいとおっしゃっていました」

「私に?」

「はい。いい加減自分の着る物くらいは自分で選べって、迷っていたら言ってやって欲しいって、ご試着中に連絡がありました」

 母は最初から、最後は私に選ばせるつもりだったのだ。だとしたら、ここにはもう帰って来ない。

 一生に一度であろう大事な衣装。

 慶人君に喜ばれる衣装。

 そう思った途端、同じに見えていたドレスが、全部違う物に見える様になった。

「すぐ決めなくても大丈夫ですよ。少し検討されますか?」

 担当さんは気を遣ってくれたけれど、

「これにします」

 私は、一つを指さした。迷いは無かった。

 私はこれで嫁に行く。珠代には悪いが、母の娘として。兄の妹として。

 ドレス選びが終わったので、私は母に電話をした。無事に決めた事を報告すると、母は喜んで、楽しみにしてるから写メはいらないと言った。……サプライズが増えた。

 それはそれとして、気がかりを口にする。

「珠代ちゃん、大丈夫だった?」

『誠が迎えに来たから、事情は話しておいたわ。誠がうまくやるでしょ』

 母は、兄が結婚した時点で、兄の一家を別の家として区切っている。

 それに気付いていないのは、珠代だけだ。

 私の問題のせいで、親戚が如何に厄介なものであるか、家族は学習したのだ。

 嫁姑の問題が発生しないのは、この辺のけじめのせいでは無いかと思う。

『珠代ちゃんはね、服飾の専門学校に進学が決まっていたのに、誠が無理を言って結婚してもらったの』

「そうだったんだ」

『結婚していても、専門学校に行くといいって言ったんだけど、珠代ちゃん、諦めちゃったの』

「お兄ちゃんは、何で待たなかったの?」

 心ちゃんが生れたのが三年前。専門学校なら、十分卒業して就職もできる年齢だ。

『それこそ、恋ね。珠代ちゃんを誰かに取られたくなかったのよ。私とお父さんが説得しても、折れなかったの』

「うわ、そうだったの?」

 独占欲。……普段、穏やかな兄からは想像がつかない。珠代、愛され過ぎ。

『珠代ちゃんの世界が狭いのは、誠の責任だから、理沙は気にしなくていいのよ。自分の事だけ考えなさい』

「でも、私の生まれを言ってなかったから、あんな事になった気もする」

 変な生まれのせいで、教えてやれなかった事が、珠代を混乱させた。

 すると、母が鼻で笑う音が聞こえた。

『親が誰であろうと、私が一生懸命育てた子を貶すとか、人としてダメだから、そこは珠代ちゃんが悪い。私も今すぐには許さない』

 ……うわぁ。お母さんが怒ってる。

 今までの私に対する珠代の嫌がらせも、全部お見通しだったのだ。……兄がゴリ押しで結婚した事に引け目を感じて、我慢していたのだろう。

 私が嫁に行くのを機に、抑えていた不満を爆発させる時を狙っていたのだ。

「どうする気?」

『あなたには関係ない所でやるから、安心しなさい。お嫁に行く準備中に、余計な事は気にしなくていいの』

 母の口調は高圧的だった。私に口を挟む余地は無いらしい。

「はい……」

 そんな訳で、通話は終了した。

 お母さん、お手柔らかに。

 珠代の世界は、これから広がる筈だ。本人がそう望んだのだから。苦痛を伴うだろうが。そうしたら、パートの面接も受かるだろう。

 これ以上考えても仕方ないので、私は電車で、慶人君の居る家に帰った。

 色々あったけれど、帰ったら慶人君が居る。そう思うだけで、凄くほっとした。


 理沙には多額の遺産がある。

 その事を思い知るのは、結婚式が近づいてきた頃だった。

 理沙の実家に二人で呼ばれて行くと、理沙の遺産の管理を頼んでいると言う、税理士と、司法書士が来ていて会わされた。

 確定申告と遺言の更新について話があると言う。

 金の管理の方は分かるけれど、何故遺言なのか?

 俺が眉根を寄せていると、理沙が言った。

「私の財産をどうするのか、ちゃんと遺言を残しておかないといけない」

 理沙の場合、血縁としては腹違いの兄や姉の方が、この家の人よりも近い。

 万一の場合、もめる事にもなりかねない。それは、遺産を相続した時に学習したそうだ。

 複雑な問題を回避する為に、あえて公的な遺言を頼んで保管しているそうだ。

 この年で遺言……。

 理沙が、死刑囚みたいな、おかしな考え方をしていたのは、これのせいではなかろうか。

 しかし、止めろとも言えない。言ったところで、止めないだろう。

 理沙にとっては、ただただ重い金なのに、実家の両親と兄の為に持っている。

 短大の時にちょっと使ったらしい。少しも楽しく無かった様で、口は重かった。ボーナスを、使用した金額の埋め合わせに回していたらしい。……そこまでしなくてもいいのに。

 本田家の人達も、いらないのだ。その気持ちだけで十分だと思っている。

 書道教室に理沙が出かけていた休日に、俺だけで理沙の両親と誠さんから詳しい話を聞いた。理沙が遺産を相続した経緯は、配偶者である俺が知っている必要があると、判断したそうだ。

 理由は単純明快だった。理沙を人間扱いしない相手側の態度に腹を立てて、遺産を法律通りに相続した。と言うものだった。

 認知はしたが、理沙の父親は妻が怖くて、理沙に他の事は何もしなかった。……理沙の母親の墓には、毎年参っていた様だが、理沙には会いに来なかったそうだ。

 理沙は、不倫で出来た子供だ。不倫された妻が遺産分割を担っていた。当然、理沙の取り分なんて与えたくないに決まっている。

 怒るのも当然だろうが、何も知らずに命を与えられただけの理沙に罪は無い。

 あちらの言い分としては、夫婦共同で作った資産だから、愛人の子供にやる金では無い。全部の遺産をいらないと言う事で、遺産分割の協議書にサインと捺印を迫るものだったそうだ。

 いきなり電話で連絡が来て、最初にその電話を取ったのが、不幸にも高校生の理沙だった。

 相手が誰だったのか分からない。理沙が内容を詳しく言わないので、本田家の人は、誰も何があったのか知らないそうだ。ただ、かなり口数が少なくなっていたとか。

 そして本田家に、遺産分割の協議書が送られてきて、理沙が電話のあった事情だけを説明した。

 凄い額の資産の内訳が、分厚いファイルになっており、最後には、それを全て妻が相続する為の書類が添付されていたそうだ。

 妻の子供も当然それに同意しているから、理沙の書類を待つだけになっていたのだ。問答無用だったそうだ。

 理沙は、それを目の当たりにして言ったそうだ。

「私は、この書類に何も書かない」

 怒っているとか、悲しんでいるとか、そう言うのを通り越した様子だったそうだ。

 理沙が酷く傷つけられた事は一目瞭然だった。元々、物事に頓着しない性格だったそうだが、この時に、更に人が変わってしまったそうだ。

 それからは弁護士を立てて、誠さんが後見人として、相続を争う事になった。

 相手が、全く歩み寄る態度を取らないので、一切妥協しないで法定分を取ったそうだ。遺留分と呼ばれる、法的に保護された取り分だ。

 理沙の父親の妻が異常かと言えば、そうでも無かったそうだ。……交通事故で夫を亡くし、成人したばかりの大学生の娘と息子に支えられるようにして協議に臨んでいたそうだ。

 理沙の母親との不倫。その挙句の自殺があって、あちらの家族は、酷い状態になっていた。やっと再構築を果たしたのに、夫を失ってしまったのだ。

 それなのに、元凶である愛人の娘は遺産を相続すると言う。……話し合う余地など無かったそうだ。

 あちらの言い分も分かるが、だからと言って、理沙を傷つけていい理由にはならない。誠さんと両親はそう判断した。このまま折れたら、理沙の人としての尊厳が、永遠に失われてしまう。そう危惧して、相手の言い分に従わなかったそうだ。

 双方の言い分は食い違う。どちらも、謝罪が一番欲しかったのだ。

 しかし、一方的に謝る訳にはいかない。お互い悪い所を認めて歩み寄ろうにも、あちらが全くそれに応じない。

 理沙の母親が自殺してしまった為、当時は感情的になっていて、理沙の祖父母も、お義母さんも、遺伝上の父親を一切受け付けなかったのだ。理沙の産みの母親が望んでいたのは、相手の子だと言う確かな証だったそうだ。……それは尊重された。しかし、認知以外、将来の取り決めを一切していなかったのだ。

 理沙の祖父母は、養育費や慰謝料を貰うのを拒んでいたそうで、全く話し合いに応じなかったそうだ。お義母さんにもそれを徹底させていた。

 そして、今度はあちらが態度を硬化させた。一切与えない。その一点張りで、和解なんて出来る状態じゃなかったのだ。

 間を取る事は出来ないまま、相手側の言い分は却下されて、理沙は法律に守れた、残虐非道な子と言う扱いになってしまったのだ。

 理沙は相手の事情が分からない程馬鹿じゃない。相続すると踏み出してみたものの、結果、大きく傷ついてしまった。当時、十六歳だったそうだ。

 一番悪いのは、理沙の父親と産みの母親な訳だが、どちらも死んでしまったので、誰も文句が言えない。

 誠さんも、ご両親も、当時の選択は最善では無かったと後悔していた。

 理沙を説き伏せ、あちらの言い分に素直に従っておけば、理沙は人が変わる程に傷つかずに済んだかも知れない。

 どんな生まれでも、自分達にとっては大事な家族だと、分かるまで言い聞かせてやれば良かったと、後になって思ったそうだ。

 ……頭に血が昇っている間は、冷静な判断が出来ないものだ。

 まだ若かった誠さんは、妹をないがしろにされた憤りを糧に、両親以上に率先して、遺産を取るのを推し進めてしまった。それに対して、負い目を感じている。だから、いつも理沙を気にかけてしまうのだ。

 珠代の嫉妬の原因は、説明するには重過ぎる内容を含んでいたのだ。……これは、わたがし女には重過ぎる。言えない。

 理沙の実父が、ちゃんとしておけば、こんな事には……だから、理沙は遺言を作ってしまったのだ。だから、立つ鳥跡を濁さず、を目指す女になってしまったのだ。

 酷い話だ。

 俺は夫になる。万一の場合、半分の相続権があると説明された。俺が本気で嫌そうにしていたので、司法書士が苦い笑顔になっていた。

「説明はしておかないといけませんので」

 いらないよ!そんな金も説明も。

 俺より先に理沙が死ぬとか、何でそんな事を考えなくてはならないのか。俺達はこれから結婚するのに。……不吉な事を言うな。

 しかし、理沙は結婚して戸籍も苗字も変わってしまう。相続も変化する。遺言の書き直しは必要だった。だから、こんな事になっているのだ。

 とりあえず理沙は、俺に半分、残りの半分が、ご両親に行く様に指定して遺言を書き直す様に頼んでいた。

 ご両親だっていらないのだが、理沙の心境に配慮して、黙って受け入れている。

 その後、税理士の人から、理沙の確定申告の書類を作成する際に、結婚後の変更点があるとの話をされたが、全部引き続き任せると言う話が決まった。

 俺が夫になるので、新戸籍で俺達の収入に混ぜて、自分達で一括管理するか?と言う確認に来たのだ。

 そんな事、勿論しない。理沙もそんな事はしたくない。俺は、無い物として暮らすと言う考えを、守るだけだ。

 全てが終わり、客が帰って、全員が大きく息を吐いた。

「ああ良かった。慶人君のお陰で、少なくなった」

 お義母さんが言って、お義父さんが頷く。

 半分でも十分重いです。よく我慢していましたね。

 ちらりと横を見ると、理沙は澄ましてお茶を飲んでいる。一仕事済んで、ほっとした様子だ。

 自分の金だと、絶対に認めたくない気持ちが透けて見えるから、理沙に使ってしまえと誰も言わない。俺も言えない。

 結婚資金に混ぜたくないと言う気持ちがあったので、俺達は自分達の貯金だけを資金に結婚する。

 安い結婚プランで計画を立てたら、親からの支援無しに結婚出来る計算になった。勿論、そうした。

 婚約指輪もいらないと言うのには、性格だけでは説明できない事情があったのだ。

 こんな複雑な女と、誰が見合いをするのかと疑問だったのだが、さっき来ていた司法書士が相手だったそうだ。

 横やりを入れて、見合いを止めた事を謝ると、

「私みたいなおじさんでは、理沙さんに申し訳無いと思っていました」

 なんて言って笑っていた。

 ……五十も間近と言う人だった。理沙とほぼ二回りの年齢差がある。親子でもおかしくない。

 事情は全部知っているだろうし、人当たりも良く、悪い人じゃないのは、話していて分かった。……だからこそ、この人との見合いを断るのは、理沙には難しいと分かった。

 理沙が、俺を部屋に引っ張り込んで、弱音を吐いてしまった事情が何となく分かって来る。どん詰まりで、ヤケ食いの挙句の暴挙。

 あの日に会う約束をしていた過去の俺を褒めてやりたい。あれが無かったら、今は無かったのだ。

理沙の実家で食事をして、二人で部屋に戻ると、理沙はぼそっと言った。

「疲れた」

「お疲れ」

 俺は理沙の頭を撫でた。

 軽いスキンシップは、嫌がらなくなった。

 今もそうだが、逆にほっとして嬉しそうにしてくれる。気を許してくれる様になったのだ。

 パニックになって逃げられた時から比べたら、進歩したと思う。

 俺の重たい想いに、全然届いていないけれど。

「あのさ、理沙」

「何?」

「琉球ガラスって知ってるか?」

「お酒用のコップだっけ?」

「そう」

 琉球ガラスは主に、グラスを指している。

 泡盛がブームになった時に、それを飲むのに良いと言う事で、有名になった経緯がある。

 調べてみると、土産物として、グラス以外にも色々な物が作られている事が分かった。ペンダントトップもある。

「グラスだけじゃない。もしかしたら、理沙の納得する物も、あるかも知れない。沖縄に旅行に行ったら、工房……回ってみないか?」

「サーフィンは?」

「行くよ。スキューバもする。……何度も言うが、理沙もスキューバは強制参加だからな」

「あんな重たい物を背負って海に入るなんて、自殺行為だ」

「いい加減諦めろ」

 嫌がっている理沙の意見を無視して、スキューバダイビングはきっちりと申し込んだ。

 沖縄に行って、海に入らないなんて、絶対に俺が許さない。

「とにかく、それをやっても時間はある。だから、行こう」

「首里城、見ないの?」

「俺は見た事ある。そして、お前は世界遺産に興味が無い。見に行っても、時間は余る」

「うっ」

 理沙が、逃げ道を塞がれて唸る。

 産みの母のせいで迷惑をかけているのに、産みの母がもたらした物に似たものを欲しがる。

 何故そんな事になっているのか、理沙本人にも良く分からないのだ。

 俺は側で理沙を見ていたから、何となく予想が付いた。

 理沙はどんなに気に入ったデザインの品物が見つかっても、ネット注文で家に届いただけなら、身に着けない。

 誰かとの楽しい時間の思い出を伴う品が欲しい。それだけなのだ。ずっと結果だけに拘って、過程をすっ飛ばして生きて来た理沙の、数少ない望みだ。

 だから、俺は一緒に時間をかけて探してやりたいのだが、理沙はそんな自分の気持ちに気付いていないから、訳の分からない我が儘だと思っている。

「揃いで、グラス買おうぜ。家で飲むのに使える」

 口実がペンダントトップだと、渋りがちなので、そう言うと、理沙が俺をじっと見た後、少し赤くなって、子供みたいに笑った。

「それなら、行く」

 俺の予想は間違えていない。理沙の望んでいるのは、楽しかった時間を封じ込めた物なのだ。

 ……破壊的に可愛い、無防備な笑顔。

 理沙は、たまにニヤっと笑ったりはするが、こんな風に笑った所は見た事が無い。

 茫然としている俺を置いて、理沙は動き始めた。

「じゃあ、お風呂にお湯入れて来る」

 さっさと風呂に移動する理沙。

 ガードは確実に下がってきている。俺の前だけで、あんな風に笑うとしたら……萌える。

 もっと、笑える様にしてやらなければ。

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