見えない彼女
ああ、早く帰りたい。
時計を見てため息を吐く。
「どうしたの?本田」
隣に立っている、二歳年上だが同期である国塚君が、私の方を見た。
「何でもないよ」
「ごめんな、いつも」
「いいの。私の取り得だから」
私は、書道で五段と言う有段者だ。
私の流派では、師範代として生徒に教えて良いぎりぎりの段になっている。
だから私は会社で経理なのだが、大事な取引先への宛名書き、プリンターに入らない大きな紙への手書き等、そう言う仕事が必ず回って来るのだ。
今日は、営業部からの依頼で、社外の人を招いての会があるのだが、その会場に張り出す紙に、その旨を書いている。
大きな紙に筆で書くのだが、その紙の大きさに手違いがあって、書き直して欲しいと頼まれたのが、帰宅しようとしていた時だった。
また、墨と筆を用意して書いてみたものの、見事に失敗してしまったのだ。再度届いた紙に書くのに時間がかかって、既に八時を過ぎてしまった。
頼んで来た、営業部の部長は既に帰宅して、その代理として国塚君が残っている。部下に丸投げして帰宅とか酷いな、とちょっと思うが、居てもらっても、どうにもならないのも事実だ。
うちは、色々な酒を国内海外から取り寄せて、卸している、チョイスと言う名前の会社だ。
だから、日本酒を製造している小さな会社を巡り、うちに販売委託をしてくれた会社には、年に数回、交流する為の利き酒会を行っている。
『チョイス(株) 利き酒会 会場』
会場は、うちの会社では無くて、ホテルの宴会場を借りて、大々的に行う。
ホテルが用意するプリンターで印字した物ではなく、私の直筆の物を張り出したい。毎年頼まれているので、今年もちゃんと書いた。
ところが、もっと大きく書いて張り出した方が良いと言う話に、今日なったそうだ。
何枚も模造紙を張り合わせた紙は、とても書き難い。
だから、帰宅時に依頼されて見せられた紙に手こずって、途中で字が止まって失敗してしまったのだ。
国塚君は、もう一度模造紙を張り合わせ、私に渡すと言って、慌てて去って行った。
今度は失敗しない。そう思って失敗した紙に練習をしていたが、紙がなかなか届かない。
……張り合わせに失敗したり、紙が無くなったり、あっちも大変だったそうだ。
それで、新しい紙を再び国塚君が持って来た。
そんなこんなで、今に至っている。
無事に書けて、ほっと力を抜くと、国塚君は、笑顔だった。
「凄く見栄えがいいよ。ありがとう」
「どういたしまして。このままでいい?」
会議室の机に広げられた大きな紙を指さすと、国塚君は頷いた。
「明日の朝まで乾かして、持っていくからそのままにしておいて」
そんな訳で、筆とか硯を片づける為に給湯室に持っていくと、国塚君が付いて来て言った。
「それにしても、そんな太い筆、よく会社に置いてたな。俺、そんなの使った事無いよ」
「新人説明会や株主総会なんかのは、いつもこの筆で書いてるよ」
「へぇ、色々頼まれるんだな……」
会社中の手書きの依頼が、私に集まって来る。
そのお陰で、私は『経理の習字の人』で通っている。経理に字が達筆な女子社員が居るのは有名な話らしいが、私だと知っている人は、実はあまり居ない。
頼んで来る人は知っているが、大抵は役職付きの人が持ってくる話で、国塚君みたいに同年代かそれより下で、知っている人は殆ど居ない。
「今回も頼むよ。習字」
とか、言われるのが、一番腹が立つ。
習字って言うな!
と内心思っているが、そう言うのもあえて言わない。習字って……字を習っているんじゃない。
書道は、いわば美の世界だ。
芸術。遠い昔に偉大な書を残した人達の文字を学び、より美しい文字を目指す。
高校生が、書道パフォーマンスのある書道部なんかで、他校と競っているのを見ると、胸が熱くなる。ああ、青春だと思う。
……まぁ、私は書道部の無い高校から短大に行ったから関係無いが。
話が逸れたが、そんな訳で、私は面接段階で、自分を印象付ける為に、書道の有段者である事をばらした。結果、入社出来たが、こんな状態が続いている。
「今日はお礼に奢るから、一緒に飯でも食わない?」
国塚君が気楽にそう言って来る。
ご飯は食べたい。お腹は空いているから。でも、私には帰宅後の時間が大事なのだ。
「ごめん。今日は急いでいるから、また今度」
国塚君は、肩を竦める。
「また断られた。本当にガード固い。家で何してるのさ?」
ここに勤めて六年。国塚君との、同期としての付き合いも六年。けれど、彼だけでなく誰にも私の日常は語らない。
私は硯や筆を箱に収めながら、笑顔で言った。
「習字の練習」
「嘘つけ!」
国塚君は、私が書道を習字と言うのを嫌っているのを知っているから、すかさず突っ込まれた。
本田理沙、二十六歳。書道と言う特技で、細々と暮らしている、枯れた経理の女だ。
私にとって、短大に入って一人暮らしを始めたのは、大きな転換期だった。
私には八歳年上の兄が居て、私が短大に入った頃に結婚した。
問題は、義姉だった。
紹介されて家に来たのは、私の見知った顔だった。
中学の同窓生だったのだ。
落合珠代と言う名前で、顔を知っている程度の、微妙な関係の子だった。性格も良く知らない。中学時代、同じクラスになった事が無いからだ。
兄が、よりにもよって、妹と同学年の女と、高校卒業と同時に、結婚したのだ。私は酷く居心地が悪い。
兄は、私立高校で国語の教師をしている。
私は違う高校だったけれど、まさかその高校に通っている珠代とそんな関係とは……。
私としては、どう接して良いのか分からない。珠代も同じだった様子で、実家にやって来ると、私とはうまく話せない感じだった。
そんな状態で、仲良くなれる筈もなく、関係は……悪化した。案外すぐに。
うちの両親まで実の親並に扱う勢いの珠代。……家族アピールは半端なく、明らかに私をはじき出そうとしているのが分かる。
同じ年齢だけど、家事もこなせるし、親への気遣いも出来ちゃうんだから。……なんて、声が聞こえてきそうだと思ったのは、私の劣等感のせいなのか。
短大生なのに、何でそんな状態の家に居なくてはならないのか。息苦しい!
私は、そんな訳で、短大一年の秋に家を出た。微妙に学校が遠かった事もあるけれど、我慢できなかったのだ。
一人暮らしは最初、想像以上に大変だったけれど、何とか慣れた。
休みもあまり帰らなかった。アルバイトをしていたからだ。
書道教室と言うのは、子供の習い事として、親に人気がある。
だから、私が長年師事していた、諸岡先生の教室で、アシスタントになったのだ。
諸岡先生は、私が習い始めた頃からずっと書道教室を開いている。私が中学生の頃、教室の生徒が多くなり過ぎて、広い土地を買って転居した。それくらい、繁盛していて、今も続いている。
公民館を借りて、年に二回程度、子供達の作品展を開いたりもしている。
私がアシスタントとして働き始めて三か月程度した頃、一人の少年が書道教室に通い始めた。
津田昭信と言う、小学一年生の少年だった。
昭信君は、落ち着きが無いと言う理由で、母親に書道教室に放り込まれた。
一年生にしては小柄で、まだ幼稚園児の様に見える少年は、本当にじっとしていなかった。
「正座」
「理沙先生、あのね」
「正座」
「カエルが、車に牽かれてるの見てさ」
「正座」
「カマキリが潰れてるのも見た」
「せ・い・ざ!」
正座させるのに、三十分。筆と墨を用意させて、一枚書かせるのに三十分。他の子が、何枚も清書しているのに、この子だけはそんな感じだった。
私は、夕方に週三日アルバイトをしていたが、火曜日は本当に憂鬱だった。昭信君が来るからだ。
「見て見て!どんぐりから虫が出て来た!」
と、私に投げて寄越す。
「手の匂い嗅いで!さっき、カメムシ触った」
と、掌を鼻先に押し付けて来る。
この子が騒ぐと、連動して他の男児も騒ぎ出す。
それなのに、諸岡先生は、
「理沙ちゃんが好きなんだね」
としか言ってくれない。
昭信君の両親は至って普通だ。展示を見に来て挨拶をしてくれたのは、銀行員の父親と専業主婦の母親。普通も普通。なのに、何故子供はこんなに落ち着きが無いのか。
諸岡先生が優しい分、私の指導は厳しくなった。けれど、昭信君には頑張ってもらった。
そして私が昭信君に慣れた頃、就職も無事に決まり、書道教室のアルバイトを辞める事になった。
「理沙先生、今までお世話になったお礼。これあげる」
昭信君は、私が辞めるのが分かったある日、言った。
「開けていい?」
頷くので中を見ると、板チョコの形のパズルだった。
そうか。もう二月だっけ。
「ママと選んだんだ」
ちょっとそわそわしている。可愛い。
私は、昭信君の頭をなでた。
「ありがとう。作品展は見に行くから、頑張ってね」
そんな訳で、私の手元には、パズルが残った。
……これが案外難しかった。
形が違うだけで、同じ色のピース。なかなか長方形になってくれない。
ばらしてしまったのを後悔する程に、大変だった。
アルバイトも辞めるし、就職も決まっているので、ちょっと長い春休みに、チョコレートパズルに夢中になった。
それで、ハマってしまった。これをやっていると、すぐ時間が過ぎるのだ。
それがきっかけで、私は、ジグソーパズルや立体のクリスタルパズルなんかを、ぽつぽつと買う様になった。
出来上がったら、またバラバラにしてやる。
そのままの状態で置いておけば、また次の日も出来る。気付くと時間が過ぎている。
たまに筆を持ち、書を書いたりもしているが、平日の殆どの時間は、このパズルの時間になった。
社会人にストレスは付き物だ。
毎日、帰ってからパズルがあると思うと、何も無いよりも良かった。
珠代が子供を産んでも、私には関係ない。
お祝いを持って赤ちゃんを見に行ったら、
「幸せってこういうのだと思うんだ」
なんて言われて、頭に来たが、それも忘れる。仕事した事無い奴が偉そうに幸せを語るな!と思うが、とりあえず黙って置く。
あいつは純粋無垢な仮面を被っているが、本当の所では、兄を愛し過ぎていて、ブラコンでも何でも無い私を敵視している。
夫婦仲がいいのは歓迎するが、私はあなた達の家庭に興味が無いから。
無い語彙を振り絞って、そんな事を言っても、羨ましいと思っているから出る言葉だと受け止められている。
私もそんなに頭が良い訳じゃないけれど、珠代はもっと悪い。
……兄は浮気をしない。そんな人じゃないのは、ずっと一緒に居たから知っている。
ただ、もう少し珠代を捕まえるのは、遅くても良かったのでは無いか。とは思う。
兄は賢い。だから、何でそんなに早まったのか、未だに疑問だ。
まぁ、兄も珠代も、それでいいのだから、いいのだろう。
珠代が、私を敵視しているのは、私からすれば、酷く滑稽なのだが、それも珠代の頭は受け入れない。
社会人になって、実家には電話やメールでの対応のみで、呼ばれない限り、行かない事にしている。……珠代の良妻アピールの場に、頻繁にギャラリーとして呼ばれている為、自分から行く必要を感じないのだ。お食事会って何?小姑招いて、月一回するものなの?
子供が生れてからは、子供絡みのイベントにも呼ばれる。勘弁して欲しい。
忙しいからとは言えない。私は、ほどほどにしか働いていないから。
六年経っても、珠代は兄を見る時に、目がウルウルしていて、ドラマのクライマックス状態みたいになっている。
恋は怖い。
肉体的に満たされたい、べったり一緒に居たい。そんなむき出しの欲求を異性にぶつけるとか、頭がおかしいのでは無いかと思う。
生殖行為なんて、今時は人工授精とかあるのだ。子供が少なくて困るなら、産みたい人に人工授精で補助金でも出して、バンバン産んでもらえばいいのだ。
……これも言うと問題のある発言だと分かっているので言わないが、私の本心はこんなものだ。
書の道をひたすら進み、その挙句のジグソーパズルにはまる人生。
色々な面倒事を、見ない事にして過ごす。
私は誰とも付き合った事が無い。けれど、そんな必要性を全く感じないまま、今日も一日を終える。
恐ろしくガードの固い女、本田理沙。
俺がこの女を意識し始めて、かれこれ四年が経過している。
入社時から同期で知っているのだが、最初の二年は、あまり記憶の中に本田が居ない。ただの同期で、目立たないモブ女だったからだ。
しかし、俺は見てしまったのだ。筆を持って、見事な文字を書く、きりりと引き締まった本田の姿を。
部長に頼まれた宛名書きを経理の本田に持っていけと命令されたのは、単に俺が同期だったからに他ならない。
「本田に、これをですか?」
「そう。経理の本田理沙。本田君に絶対に頼んで。今日中。分かったね」
何でそんな事を……経理には、綺麗な字を書く人が居ると噂されていたが、その人がまさか本田だとは思っていなかったのだ。
「本田、これ部長に頼まれたんだけど」
宛先リストと一緒に、封筒の束を渡すと、本田は特に気にした様子も無く、それを受け取った。
「後で持っていくって、部長に伝えて置いて」
彼女は封筒の束を持って、経理の上司の所に行くと、会議室に行く許可を取って去って行った。
モブ女が部長と繋がっている事が不思議で、俺はその後どうなるのかを知ろうと、後について行く事にした。
「後でちゃんと持っていくから、心配しないで」
本田はそう言って、女子のロッカールームに入って行くと、すぐに出て来た。手提げに入れた、四角い箱を持っている。さっき渡した封筒の束がその手提げに箱と一緒に入っている。
付いて来るな、と言われているのは分かったけれど、俺は好奇心に負けてしまった。
「ちょっと見学させてよ」
何をするのか、知りたい。
すると、本田はちらりと俺を見て、視線を先に戻すと言った。
「絶対に、話しかけないでね」
「分かった」
そして、静かな会議室で、何をするのかと思っていると、筆で下書きも無しに、見事な文字をしたためていく。俺のミミズみたいな文字が恥ずかしくなる様な達筆だった。
文字の大きさや完成図が頭に浮かぶのだろう。文字はまっすぐで乱れも無く、美しい。
真剣に背筋を伸ばして書く、本田の姿も、同じ様に凛としていて、こんな女だったのかと改めて思う。
乾かす為に並べられている宛名書きは、確かに先方にインパクトを与えるだろう。ただ印刷されただけの文字とは重厚感が違う。
中の紙の内容が、完全にプリンター任せな事が恥ずかしい程だ。
美しい宛名書きをすべて終えると、本田は言った。
「掃除箱のロープと洗濯ばさみ持って来て」
会議室の端っこに設置された掃除箱のバケツの中に、洗濯ロープと洗濯バサミが沢山入って居た。
もう少ししたら会議があるそうだ。だから、邪魔にならない様に、窓際に封筒を干すらしい。……何度か、見た事あるかも。
手際が良いので、何度もやっているのだろう。封筒は、あっと言う間に干されてしまった。
墨が垂れそうな最後の方に書いたものだけが机の端に残っている。
「経理の習字の人って、本田だったんだな」
俺が感心して言うと、箱に硯や筆を入れていた本田は、心底嫌そうな顔をした。
「習字って言わないで。書道だから」
本田の表情に気圧されて、俺はただ頷いた。
この日以来、俺は部長と本田の間を何度も行ったり来たりする様になった。
部長は、何度言っても『習字』と言って褒める。周囲に『習字の人』と言う名前を広めたのも、部長だ。
本田はそれが気に食わない。本田にしてみれば、その言葉は屈辱的なのだ。だから部長とはあまり仲良くない。
部長も何となく自分で頼みに行くのが嫌になったのだろう。でも、あの文字は有効活用したい。それで、俺が指名される様になった。
本田の書いた字の効果は絶大だ。
何でもパソコンの書体に頼る時代、筆で美しい文字を生み出せると言う特技は、凄い特殊技術なのだ。
存在を主張する、美しい圧倒的な文字。他の宛名書きでは得られない何かを得られるのは言うまでも無い。
俺達が出す挨拶状や、催し物の案内状の文字が見事だからと言う理由で、取引をしてくれる会社も、ちらほらある。
「うちのパッケージの文字も書いて欲しい位ですよ」
なんていう小さな酒造会社もある。
……実際、既に何個かやっていると聞かされて驚いたのは、去年の事だ。
謝礼とかもらったのか聞けば、ボーナスにちょっと色を付けてもらったと言っていた。
本田の会社に対する貢献度はかなりのものなのだが……如何せん、その本人に欲が無い。
この会社に居なくても、別の仕事で儲けられるんじゃないか?
俺はそんな事を思ったりしているが、本人は経理の平社員で満足している。
というか、大勢の人の中に埋もれている。
新人歓迎会や新年会は、会社が会場を用意して、ホテルでやる。
そう言う場所では人が多くて、本田は紛れてしまい、捜しても見つからない。四年間チャレンジして来たが、本田を見つけられた事が無い。すぐに人混みに埋もれてしまう。……本田の恐るべき技能だ。
で、部署規模の飲み会の場合、俺と本田は部署が違うから同席は無理だ。
三度、合同と言う話もあったのだが、その時は、俺が他の女に妨害を受けて、本田に近づく事が出来なかった。
経理には女が多い。営業には男が多い。
会社としては、社員が家族として会社に関わる事に好意的だ。会社は社長の人柄に合っていて、おおらかで明るい。ドロドロした三角関係のもつれとか、不倫なんて、うちの社員に限ってあり得ない。と楽観視されているのだ。
だから、別部署との合同の飲み会は、結婚相手探しの狩場になってしまう。
若い俺も、当然ターゲットになる。
そりゃ、若い女の子に囲まれるのは、悪い気がしない。当然、邪険になんてできない。
猫が好きなんです。縞々のしっぽが長いのがいいんですよ。強いお酒は酔うのでソフトドリンクお願いします。最近、豆乳に凝っていて、ソイラテとか飲んでます。先日買ったピアスなんですけれど、似合いますか?お揃いでブレスレットもあってぇ~。
ああ、うんうん、そうだね……。
曖昧な返事をしながら、視線を彷徨わせる。
よく見ないと分からない様な、壁と一体化した端っこに、本田が座って、酒と食事を堪能しているのが見えた。
隣では、酒に弱くて有名な経理の係長が、目元におしぼりを当てて、ひっくり返っている。
恐ろしい程に、景色に溶け込んでいる本田。
あの景色と一体化する特殊能力は、どうなっているんだ!
誰も、本田が居る事を気にしない。そして、本田も周囲を気にしない。
途中で出て行ってもいいだろうに、ちゃんと最後まで居て帰る。
だから、『あれ?本田ちゃんは?』なんて経理の人が思い出した様に言っても、『ここです。楽しんでいます』なんて答えるから、皆安心してしまう。
一人で放置して悪いな、みたいな事が起こらない様に、誰かを介抱していたり、話さないで、誰かの側に黙って座って話を聞いて、ふむふむ言っていたり。分かるのは、本田本人が自主的に話さない事だ。
悪印象も好印象も与えず、宴会に埋もれていく。ちゃんと参加していたと言う記憶だけを残すのだ。
本田は、意図的に目立たず生きている。自分を注目させないのだ。
話せば、かなり気が強くて、ハキハキ話す事も分かるし、文字の迫力を見たら、自分に自信の無い、オドオドした女では無い事も分かる。素人の俺でも。
どうも、普段見る本田が、本当の本田と繋がらない。
俺は、それに気付いて、更に本田を見失わない様にしようとしている。
そして、気づけば四年……未だに見失う。あいつはおかしい。暗殺者か?潜伏している工作員か?謎は深まり、俺は余計に本田が気になってしまう。
何度か駅までの道で本田を見かけた事があるのだが、声をかけようとすると、人込みに紛れて見失う。
食堂で本田を見かけたから、同席しようとしたが、食事を持っていくと、もう居ない。
何を食べているのか知らないが、食事をするのも酷く早いのだ。
俺はストーカーじゃない。だから、死んでも待ち伏せだけはするまいと思っているが、帰宅時間が早い日は、何となく会社の出入り口で本田の事を思い出してしまう。
今通れば、一緒に帰れるかも知れないのに。何をしているのか聞き出せるかも知れないのに。
そんな俺の願いは叶わない。
インビジブル本田。
俺は、そんな感じの女をついつい探してしまうのだ。
友達が居ない訳でも無い様だ。たまに、庶務の女子や経理の後輩と一緒に、飲みに出かけていると言う話は聞く。
その女達に俺が誘われて飲みに行くから、さり気なく聞くのだ。
「本田さん?この前、飲みに誘ったら来てたね」
「うんうん」
「誘うと来てくれるんだけど、あんまり話さないなぁ」
「暗いって訳でも無いし、話しかければ返事してくれるんだけど、話が続かないの」
「分かる。話した事はちゃんと聞いてくれるし、嫌な感じじゃないんだけどね」
来ていた記憶はあれど、話した記憶無し。
新年会と同じだ。
悪評も好評も話題も何も提供しないから、誰もそれ以上の感想を言わない。
「あ!そう言えば、秘書の飯田さんって、本田さんと同じ短大出身だって聞いた事ある」
「飯田さんと?そうなの?」
「あー、何か分かるかも。真面目そうなタイプだよね。二人共」
「でも、話してるの聞いた事無いよ。友達なのかなぁ」
「国塚さん、同期なんでしょ?何か知らないんですか?」
「あ、いや、俺も知らない」
話はそこで違う話題になったが、俺は頭の中で考えを巡らせる。
飯田咲。俺と本田と同期で、社長の秘書をしている女だ。本田と同じで二十六歳。
カチっとした女で、ショートカットに、リクルートスーツみたいなパンツスーツと黒縁の眼鏡。社長のお気に入りだ。真面目を絵に描いたら、あの女になりそうだ。
書道の女と、ガチガチ秘書。確かに気は合いそうだ。
しかし、仲が良いなんて話は聞いた事が無い。そもそも、同期会でも、並んで座っているのを見た事が無い。
気になるが、飯田ともロクに話した事が無いから、そっちから本田に探りを入れるのも無理だ。
だから、俺は今日も考える。
本田の日常と言うものを。
「咲ちゃん!買い物行こうよ」
土曜日の午後、私が電話をすると、友人の飯田咲は、二つ返事で応じた。
待ち合わせをした駅前には、ウィッグを付けて、クリーム色のワンピースを着た綺麗な女が立っていた。大慌ててで、ナンパしようと言う男共を睨みつけて追い払い、咲と並んで歩き出す。
高校時代、読者モデルをしていたと言うだけあって、たまに振り返っている人も居る。どう見ても、会社で秘書をしている咲には見えない。
……咲は、ストーカーに遭ったせいで、読者モデルを辞めた過去がある。
たまにおしゃれをしたくなるが、男が怖い。だから、私と一緒にしか買い物に行かない。
私は腐れ縁で咲を守っている。
私が実家を出て、一人暮らしを始めたアパートの隣の部屋に、咲は居た。
学部は違ったから、入居当時、隣の部屋でも顔すら知らなかった。一応挨拶に行ったが、出て来なかったのだ。……怖かったので、居留守を使っていたらしい。
そしてある日、帰宅すると事件が起きていた。
ポストに液状の何かを擦り付けている男が居たのだ。うちのポストまで正体不明なベトベトが付いている。
こっそり、その場を離れ、通報した。するとアッと言う間に警察が来て、男は捕まった。
咲が警察に相談していたから、警察は警戒していたのだ。
こんな経緯があって、咲の事情を知る事になった。
咲は、繊細な心の持ち主だ。そして、確かに綺麗な子なのだ。
私がアルバイトに行くと、家に一人は怖いからと付いて来た事が何度もあった。
子供達は邪気が無いし、諸岡先生も優しいから、部外者である咲を受け入れてくれた。
咲は、散らかった半紙を片付けながら、子供達に癒されていた。私はそれをずっと見ていた。
咲の両親は、咲を危険から守る為に実家から離した経緯があるので、咲は家に帰れない。……ストーカーは一人では無かったのだ。私が通報して逮捕されたのは、実家に現れたのと別のストーカーだった。
私はそれを知ったから、ずっと咲と居た。
色々な話を聞いた。咲はおしゃれが大好きなのに、おしゃれを捨てた事。長かった髪を切り、コンタクトレンズをやめて、眼鏡をかける様になった事。アパレル関係の会社で働きたいと言う夢も捨ててしまった事。
そんな咲の中にくすぶっている女子力を、たまに解放してやらないと、咲が壊れてしまう。咲は花みたいな女だ。花に咲くのを止めろなんて、可哀そう過ぎる。
そんな訳で、同じ会社に就職が決まり、学生用のアパートを離れた後、私はこうやって、おしゃれをした咲を連れ出す事にした。
最初は警戒していた咲だったけれど、ストーカー騒ぎも落ち着いて六年が経つ。
すっかり明るくなった。時の流れとは偉大だと思う。相変わらず、男性が怖いみたいだが。
咲のおしゃれ心を満たす買い物に付き合い、パスタの専門店で、昼食にした。
「理沙ちゃん、唇がカサカサして見えるよ」
「私はこれでいい」
「グロスでつやつやさせようよ」
「やだよ。私は自分の唇をテカらせる様なアイテムいらない」
「もう……女捨て過ぎだよ」
「何とでも言って」
私は白い紙に黒い文字を書いて美を見出し、青い海のジグソーパズルの海の部分を完成させるのに快感を覚える女だから、咲とは違うのだ。
「あのね、社長にお見合いしないかって言われたんだ」
「お見合い?」
「取引先の社長さんから、私がいいって頼まれたんだって」
見合い……ねぇ。まぁ、二十六歳って、結婚を普通にしている年齢ではあるか。
うちは珠代が居るせいで、感覚がおかしくなっているから、よく分からない。
「咲ちゃんは、どう答えたの?」
咲は、私の言葉にしょんぼりする。
「理沙ちゃんが居ないと、一人で好きな格好も出来ない私が、結婚なんて無理だよ」
「でも、結婚したいんでしょ?本当は」
「したいよ!ウェディングドレス着たい」
咲にとって、ウェディングドレスは小さい頃からの夢だそうで、絶対に人生から外せないマストアイテムなのだとか。
「じゃあさ、別に結婚なんてしないで、誰かと一緒に試着しに行って、写真でも撮って来たら?」
私の乱暴で粗野な思考に、咲は慣れている。だから私は続けた。
「試着だから、店を変えれば、何度でも何種類でも着られる。着放題」
私が行儀悪く、肘をテーブルについて顎を掌に乗せてそう答えると、咲は綺麗な眉をしかめた。……仕草からして、綺麗さが違うと思う。普段、会社で地味な格好をして眼鏡をかけているだけで、誤魔化せているのが不思議だ。
「私が納得した上で、大好きな人達に、心から似合う、綺麗だって、思い出してもらえる様な物でないと、意味が無いの」
「じゃあ、見合いでそれを現実出来るかも知れないじゃない。会ってみれば?社長の紹介だから、変な人と会う事にはならないでしょ」
「私、誰か知ってるの。凄く恰好良い人なの」
咲の話では、小さな酒造会社の副社長で、三十歳のイケメンだそうだ。
咲がイケメンだと言うのだから、見た目は文句なしに良い男なのだろう。
中身はどうか知らないが。
「気に入ってるなら、会えばいいのに」
「でもね、二人きりとか、やっぱり怖いの」
咲の思考は、結局そこに帰着する。
男が怖い。けれど咲は花だから、どうしても咲いてしまう。男を吸い寄せてしまうのだ。
理性は嫌がっていても、咲は本能で望んでしまうのだ。
しかし、過去の経緯があるから自分で探すのは怖くて出来ない。保障付きの男を、誰かに見繕って欲しかったのだ。
「理沙ちゃん、会う所まででいいから、付いて来てくれない?」
「何で人の見合いに私がついて行くのよ」
「お願い。理沙ちゃんに似合う服と下着を選ぶから。プレゼントするから!」
……実は、私には服のコーディネイトと言う才能が皆無だ。
咲が、目立たず、それでいて地味で無い服と言う要望で、私の服を選んでくれているのだ。社会人になって以来、ずっと。
このアイテムが無いと、私は会社で浮いてしまう。ひっそりと生きている二十六歳の女に相応しい服。それを教えてくれるのは、咲だけなのだ。
咲の事ばかり言えない。私も咲を頼っているのだ。
「場所が分かったら連絡して」
取引は成立した。
私は咲に甘い。……きっと、咲が私の生き方に文句を付けないからだ。家で何をして過ごしているのかも知っているが、一度として否定された事が無い。
こんな有難い友達は、そうそう居ない。だから、甘くなってしまうのだろう。
珠代みたいに、狂い咲いている花には近づけない。私みたいな恋愛感情の分からない女は、ああいう女が苦手なのだ。
何でその年齢で、どうして咲こうとしないの?男を寄せ集めようとしないの?
珠代からにじみ出る、それが普通で常識だと言う考え方が、怖いし嫌なのだ。
人にまで開花を迫り、狂ったように咲く事を当然だと強要してくる。そして、子供をその成果だと大喜びするのだ。
恋愛体質と人は言う。
あんな生き物の近くに居ると、私の性格や、今までの生き方は完全否定されてしまう。兄嫁だからと、家族が集まるとちらつく姿は、私にとってかなり苦痛だ。
両親も兄も、姪共々、珠代を大事にしている。
そのせいで図に乗って、先輩風を吹かしてくるのだ。私の方が、誕生日だって早いのに!
「出産って経験しないと分かんないですよね、お義母さん」
とか。
「好きな人と結婚して、子供を産み育てるのが女の幸せだと思うんです。私、凄く幸せです」
とか。
私の方をチラチラ見ながら言って来るのだ。
お前の基準を私に押し付けるな!
燃えるような恋?運命の相手?
いらんわ、そんな物。
咲の主張する、ウェディングドレスが着たいから結婚する。と言う理由の方が、私には余程か、理解し易い。
恋愛。それは私にとっては、物凄く怖い伝染病だ。死んでも感染したくない。
だから、いつも清潔で可憐なお花である咲と居た。
けれど、咲はもう野に咲くお花をやめてしまうみたいだ。ラッピングされて、誰かの所に行きたいと思い始めた。
咲は怖い思い出から立ち直って、自分の望む人生を歩き出すのだ。友人なら快く送り出さなくてはならない。
このお見合いが上手く行けば、綺麗なウェディングドレス姿を見られる筈だ。
私は未練タラタラではあるが、友人の後押しをする事にした。
秘書の飯田が、結婚して退職する事になった。相手は、新潟で酒蔵を経営している会社の吉田副社長だ。
利き酒会で何度か、見かけた事がある。女にモテそうな顔をしているなぁ、と思っただけで、それ以上は特に感想の無い人だ。……担当じゃないので、話した事が無いのだ。
飯田は、結婚が決まってから、女優顔負けの美人である事が判明した。……婚約した途端、あか抜けた服装とコンタクトレンズで仕事をする様になった。左手薬指には、男避けよろしく、ダイヤの指輪が輝いている。
今更気付いても、手遅れだ。
会社に激震が走る。
何故声をかけなかったのか、と、後悔する声が、呪詛の様に周辺を漂う。
俺はそんなに残念では無かった。
そりゃ、同期だし、辞める前に色々話をしたいとも思う。
しかし、飯田の気持ちを考えると、何故ガチガチ秘書だったのか、それを聞く気にはなれなかった。
今の姿を見ていると、何となく分かるのだ。
俺は、モテる部類に入ると、営業部では言われているが……人によっては好みから大きく外れているのを知っている。
老け顔なのだ。若さが足りない。落ち着き過ぎている。と見た目で言われてしまうのだ。まだ二十八なのに、三十代に間違われる事もよくある。
高校の頃から、頼れそうな、頼もしい顔をしていると言われて、教育実習に来た大学生よりも、年上に見えると言われた。
そんな老け顔のせいで、部活の主将やら、サークルの部長なんかをやらされた。中身はお前らと同じだよ!と言っても、聞いてもらえない。
老け顔で得をした事なんて無い。
だから俺は、美女である飯田に、同情すらしている。飯田も、綺麗な容姿で色々苦労したのだと思うからだ。
老け顔と美形を並べるのはどうかと思うが、容姿で苦労するのは、本当にやるせない。整形でもしない限り変わらないのだから。
そんな訳で、呪詛は聞き流す。気付かなかったのだから自業自得だ。
退社していく飯田の事で気になるとすれば、一つだけ。本田と友達であったのかどうかと言う事だ。本田の友達は、結婚して会社を去る。転居して遠くに行く。
本田に似た、インビジブル性能を持っている所からして、友達である事は、ほぼ間違いない。
それすらも、巧妙に隠す周到さは、凄いの一言に尽きる。お互い、示し合わせてやっていたのだとすれば、関係は相当深い。
そこまでの強い繋がりのある友達が遠方に行ってしまうのだとしたら、本田は大丈夫なのだろうか?
本田が何を大切にしているのか、俺は知らない。けれど、筆で文字を書いているのを見る都度思うのだ。
細い……。
首が、折れてしまいそうだと思う。
覇気みたいな物は漂わせているし、邪念とか浄化されそうな雰囲気も持っているが、華奢なのだ。
ちゃんと食っているかどうかの調査は先日終わった。あいつの昼食は、一瞬で済む液体燃料だと判明した。
食堂に来て、わざわざそれかよ!と思ったが、食堂の総菜を一皿、持って来て一緒に食べている事が分かった。
米を食え!
と俺が念じても、高野豆腐とか、ほうれん草の胡麻和えとか、そう言うのを一皿食べて、パックに入った液体燃料を飲み干して食堂を出ていく。
家で何を食っているのか知らないが、俺では耐えられない食事だ。
食事にも時間をかけない。空気の様に暮らす。じゃあ、何を楽しみに生きているのか?
書道じゃない事は、本人に必死で絡んだ結果、教えてもらった。
「私が書道家に?そんな訳ないじゃない」
本田は、にやっと笑った。
「そう言う人はね、流派の一番偉い人に推薦されて、中国に本物を見に行って、あっちの人に教わるんだよ」
本田は中国に行っていない。そんな気は無さそうだ。
「家で書いてないの?」
再度確認すると、面倒臭そうに言われた。
「たまに師匠の所に行って書いてる程度だよ」
……やっぱりか。じゃあ、家で何をしているんだ?毎日。
時間を気にして、そそくさと帰る姿は、幾度も見た。
知りたい。凄く、知りたい。
本田を意識し始めてから四年。もうすぐ五年目に突入する。取りつく島も無くて、何も分からないまま、ずっと見て来た。
本田が、インビジブル効果を最大限に活かして暮らしているから、皆知らないだろうが、本田は美人と言うよりも、可愛い顔をしている。色が白いのもいい。指も長くて綺麗だ。
文字を書いている時に、括っている髪の毛がさらりと落ちて、うなじが見える。それに思わず見入ってしまう。ちょっとだけ触りたいとか思ってしまう。
危機的状況だ。
気付くと探していると言うのは、既にアウトだろう。単なる好奇心を超えている。
五年近くも、一人の女の見る専をしている自分が怖い。大学時代の彼女と、就職して一年保たずに別れて以来、彼女が居ない。
会社で、俺が良いと言ってくれる子も居る。彼女作れよと、自分に言ってみたけれど、結局作れていない。
いい加減な付き合いはバレる。
顔が老けていても、器用な訳じゃない。ごく普通に年齢並の思考をしていると思う。
女の子は好きだ。けれど、真面目に相手をしない訳にはいかない。相手も同じ人間だから、付き合うなら本気でないとダメだと俺は思っている。
本田を気にしたまま付き合えば、相手に見透かされてしまうだろう。
そんな、相手にとっても自分にとっても不幸な行いは、してはいけないのだ。
でもこのままでは、俺がまずい。本能の部分に不具合を感じる。何かが漏れて止まらなくなっている。……正直に言えば、俺は本田に触りたい。できれば、いたしたい。それを本気で考える様になってきたのだ。
飯田の結婚がきっかけだと思う。一気に来るものがあったのだ。
けれど、清浄な空気で守られた巫女みたいな本田は、つかみどころが無い。
男の影と言うのも心配だ。全然色っぽくないし、昼の食事を見ている限り……彼氏は居ない気がする。
けれど、時間を気にして帰って行く様子を見ていると、ミシミシと胸の奥が軋む。
本能は正直だ。彼氏の有無を知りたくて仕方ないのだ。本当は、何をやっているかよりも、そっちが知りたい。
俺にとって、チャンスは一度だ。巡って来るチャンスを、決して逃さない様にしなくては。
俺は気合を入れた。
咲の結婚式は、新潟で行われる事になった。
距離があるので、同期の代表として、私と国塚君が出席する事になった。後は社長夫妻だ。
私達、会社関係者の席は、一番後ろなので、比較的楽に披露宴を眺められた。
式は、神式で白無垢によって行われた。日本酒の会社だから、和服の出席者も多い。これはこれで良かったと思う。
その後の披露宴で、咲の念願だったウェディングドレスがお目見えした。
これは……いい。
プリンセスラインと呼ばれる、典型的なウェディングドレスは、咲にとても似合っていた。
咲は背が高いし、大人っぽいから、てっきりマーメイドドレスとか選ぶと思っていたのに、幼い頃に思い描いたと言う典型的なウェディングドレスを選んだのだ。
咲にとって、人生で最大の晴れ舞台だ。
辛い思いをした分、幸せになれるといいなと思い、拍手をする。
見合いのあったホテルに付いて行った時、こっそりと見たが、新郎が、背の高いイケメンで驚いた。何故結婚出来なかったのか、不思議なくらいだ。
……どうやら、ご両親が営業する会社に、嫁も自動的に働き手として組み込まれる事がネックになっていて、嫁の来てが無かったらしい。そこまで覚悟出来る女が周辺に居なかった様だ。
咲は秘書だ。スケジュール管理や来客の対応なんかは慣れている。社長といつも行動していたから、同年代の新郎の親とも上手く付き合える。日本酒にも詳しい。
良い縁談だったのだと思った。
きっと神様が、不憫な過去を持つ咲の為に、イケメンを残しておいてくれたのだろう。
美男美女の結婚披露宴は、つつがなく終了し、私達はお役御免になった。
地元に戻ったら、私達は咲の送別会の幹事をする事に決まっている。咲は、後二か月、仕事の区切りがつくまで私達と一緒に働く事になっている。だから、その間に送別会を開くのだ。
同期で誰かを……と言う話になって、国塚君が名乗りを上げた。私としては、咲に何かできる最後の機会なので、同期ですし……なんて、嫌々挙手したポーズで引き受けた。
本当はやる気満々だが、国塚君に悟られないようにしようと思っている。
国塚君は、何というか……不思議な人だ。
黙っていると、格好良いけれど、ちょっと怖い。
老け顔だと、本人も言っていたけれど、言い換えれば、若いのに軽さを感じさせない渋みがあるのだ。
それが良いと、密かに経理の後輩達が、狙っているのは知っている。でも、話すとちゃんと同年代の若者だったりする。
サーフィンが好きで、茨城や神奈川の方まで、車にサーフィンのボードを乗せて行くのだと言っていた。
寒波の来ている冬に行くとか、頭がおかしいのかと言ったら、ゲラゲラ笑われた。
スウェットスーツが良いから大丈夫とか言っていたけれど、顔や耳が寒いと思う。
「じゃあ、台風が過ぎたら、すぐに海に行きたくなるとか言ったら?」
「ただの迷惑な人じゃない。海上自衛隊の人に謝れ。そんなスポーツ、法律で禁止してしまえ」
国塚君は、また笑う。
こんなに笑う人だったっけ?
今は、咲の結婚披露宴が終わり、新幹線と特急を乗り継いで帰って来た後だ。
今は何故か、国塚君と一緒に、薄暗いバーで飲んでいる。バーなんて、入った事は……無い。国塚君にとっては、行きつけの店だそうだ。
バーテンダーがシェイカーをシャカシャカ振って、カクテルを作っている。こんなのドラマでしか見た事が無い。生で見たのは、今日が初めてだ。
酒の卸販売の会社に居ても、経理の私は、こういう場所に縁が無い。
何でここに居るんだっけ?
ああ、そうだ。送別会の話をしたいと言われたんだ。晩御飯は、新幹線で駅弁を食べていたからいらなかった。だからここに連れて来られたのだ。
送別会は、来月の二週目の金曜日、七時から二時間と言うのは、既に決まっている。出欠を取らなくてはいけない。どのくらいの人数になるか、どんな店を抑えるかとか、あらかた話が終わった後、何故かこんな話をしている。
今日は土曜。明日は日曜日だから、洗濯が終わったら、新しいパズルでも買いに行こうかな。
国塚君が、また勝手にカクテルを注文している。さっきから、飲み干せと言われ、飲み干すと新しいのを注文されている。
綺麗な色の液体の入ったグラスが私の前に置かれた。何杯目だっけ?頭の中でそんな事を考えていると、国塚君がぽつりと言った。
「彼氏、いる?」
「カラシはいらない」
酒のつまみに、バーではカラシが出るらしい。そんなのは、いらない。
国塚君が、変な顔をしてから言った。
「酔ってる?」
「酔ってても、酔ってなくても、カラシは嫌い。フランクフルトにも付けない」
国塚君が私をじっと見て、目の前に指を一本立てた。
「何本に見える?」
「一本」
国塚君が、一瞬悔しそうな顔をして舌打ちした気がしたが……そんな事はしない筈だから、見間違いだろう。
ようやく、飲んだカクテルの数を思い出す。経理に在籍して長い。
何を飲んだか分からないので、一杯当たりをメニュー表で一番高いカクテルの値段で見積もって暗算する。カクテルの金勘定程度、すぐできる。結構行ったな……。
「私、これ以上はお金払えない。これで終わり」
「全然酔ってないじゃないか。俺が奢るから。もっと飲んでいいよ」
「これ以上は、気持ち悪くなる」
自分の酒量の限界は、知っているつもりだ。私は酔っても記憶が飛ばない。ぼーっとはするけれど、泥酔と言うのは、経験した事が無い。何故なら、そうなる前に、突然気持ち悪くなって吐くと言う体質だからだ。
「そう言う国塚君は、全然飲んでないよね?」
さっきから、ビール一本だけだ。国塚君はザルだ。うちは酒を扱う会社だが、入社以来、営業部に在籍しながら、飲んで潰れた事の無い人物として名高い。
飲まないと言う事は、楽しいお酒では無いのだろう。
「もう帰ろうよ。終電が無くなる」
私がそう言うと、国塚君が慌てて私の両肩に手を置いて、私の体を、国塚君の方を向かせた。……ん?
「お願いだ。一つだけ教えてくれ」
「何?」
「日曜日、何する予定?」
「休む予定。仕事無いし」
国塚君は俯いて、がっくりと肩を落とした。私の肩から、手が滑り落ちていく。
「国塚君?」
国塚君が顔をぐっと上げた。……近いよ。
「だったらさ、送別会に使う予定の店、一緒に下見に行かないか?昼からでいいから」
咲は、魚介そのものを殆ど食べない。匂いが嫌いなのだそうだ。だから、肉の専門店にしてあるが、魚介はできる限り、除外したい。
前に咲と行ったときは好きな様に頼めたけれど、コースで中に魚介が入って居た場合には、ちゃんと除外しておきたい。
だったら、行っておくべきだろう。
「いいよ」
「決まりだな」
国塚君は、にやっと笑った。
さっきから、色々な場面で笑う。まぁ、笑うのは健康に良いらしいし、いいのでは無いかという事で、解散した。
本田は、一筋縄ではいかない。
酔わせて、色々話を聞き出そうと試みた。真面目な話、俺の趣味の話。
結局、俺が話すばかりで、本田の日常は全く語られなかった。
しかし、本田の切り替えしは面白い。媚びが全くないし、建前や嘘が無いのだ。
『わ~、凄いですね。私も行きた~い』
を、一度も聞かなかった。
サーフィンに誘った所で、本格的にやる気なんて無いのだ。ただ付いて来て、海の何処に俺が居るのか分からなくなり、放置に怒り出す。俺はサーフィンをしに、海に行くのだ。べったり一緒に居るのは不可能だ。
会社の後輩の言葉を真に受けて、何度か連れて行ったが、こんなのばかりだった。
だったら、本田みたいにバッサリ斬ってくれた方がいいのだ。
本田の言う理由で、サーファーを嫌う人は確かに居る。海上保安庁の世話になった場合、ほぼ水死だ。どこぞの地元民に、海に死にに来たのか!と、言われた事もある。
台風の過ぎた吹き返しの海に行きたくて、有休を取る俺は、本田にしたら馬鹿なのだろう。
でも、そう言うのは、我慢されると辛いから、言ってくれた方がいいのだ。……学生時代から続いていた彼女には、サーフィンが理由で振られた。……俺の趣味を、限界まで我慢して、愛想を尽かしたのだ。
社会人は、別の会社になると休日しか会えない。学生時代の付き合いの延長で、俺の事も良く分かっていた。だから、彼女の気持ちを聞かずに、土日に遊んでいた。会社で新人だったから、不安もあっただろうに、聞いてやらなかった。……俺のミスだ。
限界まで我慢してニコニコしていた彼女に、ブツンと切れる様に別れを切りだされたのは、本当に辛かったのだ。
本田みたいに言ってくれていれば、俺はサーフィンを控えて、話を聞けたと思う。好きだったのだ。
別れた時、物凄く冷たい目で、元カノは俺を見ていた。どうあっても、別れなくてはならないのだと悟った。
愛情が冷めてから言われても、直した所で、関係が修復できない。何故もっと早く言ってくれないのか。……いや、俺が気付くべきだったのだろうが、そう思ってしまう。
俺は、そんな経緯もあって、遠慮無く言ってくれる女がいいと思う様になった。
きっと、本田に宛名書きを頼んだ日、遠慮なく仕事の邪魔だと言った本田を気に入ってしまったのだ。
本田とサシで話してみて思う。俺が求めていたのは、こう言う率直さなのだ。女にしてはきついし、遠慮の無い物言いだが、これがいいのだ。
俺の望むものを本田は持っている。しかも見た目も好み!最高じゃないか。
楽しいなぁと思いながら、とにかく話し、カクテルを飲ませた。
六杯目で、ようやく俺は本題を切りだした。
そこで……痛恨の聞き間違えが発生した。
彼氏が、カラシに変換されたのだ。
あり得ない間違いに、酔っているのかと確認すると、素面に近かった。思わず舌打ちしてしまった。
本田は酒に関して、俺と同類らしい。……泥酔出来ないのだ。
俺は肝臓が丈夫なのだとか。ザルで通っている。本田もそうだとは……。カクテル六杯飲んで、ケロリとしている。
俺の作戦は、見事に失敗したのだ。
帰ろうと言い出した本田に、俺は思わず手を伸ばしていた。
もう一度、チャンスを!
神様は、俺を見捨てなかった。そんな訳で、俺は日曜日に本田と会う約束を取り付けたのだった。
翌朝は早くから目を覚まし、準備をしていた。
下見の後、帰ると言い出した本田をどうやって引き留めて、晩飯まで同行させるか、考える。
とにかく、本田の日常を聞き出したい。
何をしているのか、何が好きなのか、そして、カラシが好きじゃないのは分かったから、彼氏の有無を問い質したい。
待ち合わせに来た本田は、可愛い服装だった。小さな花の刺繍が裾に施された長い上着に、細身のジーンズと言う恰好だった。
会社の事務服姿もいいし、昨日のボレロ付きのワンピースも良かったが、これもいい。
「行こうか」
本田は、黙りこくって頷いた。……昨日の疲れでも出ているのだろうか?ちょっとぎこちない感じがした。
店の選択は本田だった。
しゃぶしゃぶ食べ放題の店で、色々なタレで鶏肉から牛肉まで楽しめる店だった。
宴会のコースメニューがどうなっているのか知りたいと、本田は店に言い、コースメニューの内容を確認していた。
炊き込みご飯が付いているが、その具の内容を気にしていた。店員がやって来ると、
「これ、白米にしてもらえませんか?」
なんて言っていた。勿論その程度の変更なので、向こうは問題無く了承し、本田がほっとした顔をした。
アサリの炊き込みご飯。うまいのに。
「何で、白米なんだ?」
そこで本田は、昨日からの疲れが出たのか、ぽろっと言った。
「咲ちゃんが、苦手だから」
本田は、自分の失言に気付いていない。黙って煮える鍋を見ている。
今……咲って言ったよな?
飯田を名前で呼んだ。間違いない。友達なのだ。
俺は失言で出来た小さな穴を広げる作業に取り掛かった。
「咲って飯田さん?」
本田がはっとして俺を見た。
「友達なんだ」
「……同じ短大だったし」
本田は、きまり悪そうに視線を逸らした。
「同期だけれど、そんな話、初めて聞いたよ」
「それは、言ってないからね」
「最近、飯田さんが綺麗だって、話題になってるの、知ってる?」
本田が青い顔になる。
「咲ちゃんはもう人妻なのに、まだ狙う人が居るの?」
真剣な表情に、俺は気圧されて首を左右に振った。
「そんな節操無しな話じゃないよ。もっと早く気付けばよかったって話」
本田は、ほっとしてまた煮える鍋を見た。
「何で、そんなに心配してるの?」
本田は、鍋をじっと見たまま言った。
「咲ちゃんが、もうすぐ辞めるから言うけど、昔、色々あったの。詳しくは言えない。他の人には言わないで」
何というか、割り込めない何かを感じる。
飯田と本田が、そんなに仲良しとは。羨ましい。……飯田が。
「新潟に行っちゃうのは、寂しいよな」
嫉妬が、ぽろりと口を突く。
「寂しいよ」
本田は素直に応じた。俺の顔は見ない。鍋に話しかけている。
「でも、咲ちゃんは結婚したかった。したい人も出来た。だったらそれでいいと思う」
本田は、自分よりも相手を優先させる気持ちを、素直に言葉にする。
やっぱり、邪悪な何かは近づけない、聖域みたいな女だと思う。
そんな訳で、この話題から撤退した。俺は飯田の過去に興味は無い。本田の事を知りたいのだ。
肉が運ばれてきて、一緒に食べ始めると、無言になった。
本田は、鍋を泳ぐ肉や野菜に視線が釘付けで、煮えた頃合いを必死で見計らっている。
「本田」
「気が散るから黙って!」
「はい……」
鍋って、こんな真剣勝負だったっけ?
野菜と肉を均等に入れた取り皿を渡されて、俺はそれを黙って食べる。
本田は、鍋奉行ではなくて、鍋執行人だった。
とにかく、丁度に煮えた鍋の具を、出来るだけ平等に分ける。それも、モタモタと。具が滑るならお玉を使えばいいのに、それをしない。
そこで、ふと気付く。
こいつ……自分で鍋の具とか、取り分けた事無いんじゃないのか?
「貸して」
俺が菜箸を渡すように手を出すと、本田がむっとした顔をした。
「出来るよ」
「俺がやりたいの。交代しよう」
今までの昼食の様子を見ていたから気付いた。本田は、料理が出来ないのだ。それも全く。だからあんな飯を食べていたのだ。
この調子だと、家でもやってないな……。
彼氏の居る線が、すっかり薄くなって、俺は上機嫌になった。
「二人だし、交代でやればいいじゃないか」
渋々菜箸を渡してきた本田の前で、俺が鍋奉行の本領を発揮する。
学生時代、友人達と下宿先で何度も鍋をやった。飽きる程やった。俺は鍋が得意なのだ。
灰汁を取り除き、煮えるのが遅い野菜を一気に放り込み、煮えて来たら、肉を一気に投入する。
「そんなに一気に食べられないよ」
「大丈夫。俺が食べるから。春菊は平気?」
「……沢山はいらない」
さっきから嫌そうに箸でつまんでいたので、アタリを付けてみたが、予想通りだった。
俺が春菊を一気に引き受け、本田の取り皿には、好きそうな物をどんどん放り込む。勿論、俺の分も。
俺が鍋を作り、取り分けるスピードも、食べるスピードも信じられないのだろう。本田は目を丸くして俺を見ている。
「うん、うまいな」
俺が食べてそう言うと、本田も食べ始める。
結局その後、俺が最後まで鍋を仕切り、本田に食べさせる恰好になった。
会計は、本田が譲らないので割り勘。
「お腹が一杯過ぎて、辛い」
本田が腹を抑えて呟く。……小食だが律儀な本田は、盛られた肉や野菜を、わんこ蕎麦みたいに食べていた。
ちょっと、食わせ過ぎたな、と反省して、提案する。
「じゃあ、そこの喫茶店行くか?」
「いや、家に帰る。寝転がりたい」
そんなにか?昨日も酒を飲ましたし、何か、悪い事ばかりしている気がする。
「胃薬とか要る?」
「家にある」
本田は辛そうなので、送って行く事にした。
「こんなにご飯食べたの、久しぶりかも」
電車で座らせると、向かい側に立っている俺に、本田はそう言った。
「前から思っていたんだ。もっと食べろよ」
「自分の為に何かするって、面倒」
人生の捨てっぷりが半端ない。枯れ果てている。これは彼氏いない。絶対に居ない。
「そんなんじゃダメだよ」
駅で降りて、ゆっくりと本田と歩く。嫌がるかと思ったけれど、腹がキツいのだろう。俺の腕に縋って、大人しくしている。
「体壊したら、どうするんだよ」
「今、体調が悪いのは、誰のせい?」
俺は言葉に詰まる。食わせ過ぎた俺のせいです。はい。
俺が困っていると、本田は苦しそうにしながらも笑った。
「国塚君はさ、見た目怖そうなのに、女に弱いよね。経理の後輩が、結婚したい人ナンバーワンとか言ってたよ」
光栄だが、目の前の女は、そんな事を微塵も考えていない。
「本田はどう思う?」
返事が無い。
本田の様子がおかしい。
「本田?」
顔を見ると、情けない顔をしていた。……こんな顔を始めて見る。そう言えば、今日は会った時から……弱っていた気がする。
失言、自分の体を無視した食べ過ぎ……。目立たない様に生きている本田とは思えない失態だ。
本田の住んでいるらしいアパートの前で、本田は俺の腕に指を食い込ませた。物凄く真剣だった。
「国塚君……聞くだけでいいから、聞いてくれない?」
一体何を話すつもりなのか、俺を家に入れるつもりなのか。
思考が上手く巡らない内に、
「俺で良ければ」
俺はそんな事を言っていた。
日曜日の午前中の事だった。
同僚の結婚式で、土曜に新潟に行くと言う話は、実家に話してあった。咲の事は、実家の面々も知っている。喜んでいた。
ゆっくり起きて、ネットでニュースサイトを見て回って居たら、電話が鳴った。親からだった。
まずは、姪の誕生日会の話になった。丁度昨日やっていたのだ。咲の結婚式のお陰で、回避できた。さすが咲である。
勿論、呼んだのは親では無くて、珠代だ。
珠代は、実家のイベントに必ず私を呼ぶ。両親や兄では無い。珠代が周囲にねだって、私を呼ぶのだ。
「だって家族だもの。仲間外れになんてしないわ」
と笑顔で言うが、その裏に強い毒を感じる。
私の思い込みだと、いつも思おうとしているが……行くとロクな事にならない。
そして、行かなくてもロクな目に遭わない。
両親に吹聴するのだ。私が嫁に行くように。適齢期を過ぎているとか、売れ残るとか。
珠代は、とにかく私を何処かに片付けて、居なくなって欲しいのだ。……兄の目に、フリーの状態で映って欲しくないのだ。
珠代の努力は実りかけている。
それで、両親が電話をして来て切りだしたのだ。見合いをしないかと。
珠代が、同年代の既婚女性の基準になっている両親は、珠代の言い分を、私への親切だと思い込んでいる。
「親が、見合いを持って来た」
「見合い?」
国塚君が、素っ頓狂な声を上げた。
私の部屋での事だ。
お腹が痛いので、家にある胃薬を飲んで一服したら、お腹の調子は良くなった。足を投げ出して座って居られるのも良い。
狭い部屋なので、私と国塚君の距離は近い。国塚君は、胡坐をかいて、クッションに座っている。
うちはジグソーパズルの額と書の額が沢山ある。クローゼットにも入っているのだが、収まりきらずに、部屋の壁際にも立てかけられている。私が胃薬を飲んだり、休憩している間、それを珍しそうに国塚君は眺めていた。
咲も新婚旅行中で居ない。本音を話せる相手が居ない。そんなときに、国塚君との予定が入っていたのだ。
家で一日歯を食いしばって居れば我慢できたかも知れないけれど、腹には鍋の具が一杯で、弱音をしまっておくスペースが無くなった。だから、食べさせた本人に責任を取ってもらう事にしたのだ。
「咲が見合い結婚だった事もあって、言い訳がし辛い。兄嫁の珠代は、恋愛体質で口が巧い。実家を私が離れた後で、ただ仕事がしたいとか、独身が楽しいとか、そう言う言い訳が、全く使えない環境を実家に作ってしまった。このままでは、相手に会って醜態を晒す方法しか、結婚を回避する方法が無くなってしまう。……それは私の美学に反する」
「美学?」
「立つ鳥跡を濁さず」
私のライフテーマだ。
「私は、この言葉を実践できる様に、日々を過ごしている。会社も突然辞めるかも知れない。だから、居なくなっても大丈夫な様に暮らしている」
国塚君は、呆れたように私を見た。
「もしかして、それが理由で目立たない様にしているのか?」
私がひっそりと生きている事は、国塚君も気付いていたらしい。
「そうだ。卑屈にならず、だからと言って、注目を浴びるでもなく。出来る事はちゃんとやって、人に迷惑をかけないで生きる。誰にも迷惑をかけないで消える準備も考えている」
国塚君は、真顔で聞いて来た。
「それ、楽しいのか?」
「楽しいとか、楽しくないの問題じゃないよ。やると私が決めた。だから私の意思だからいいんだ」
高校生の頃、書道教室で書いた『立つ鳥跡を濁さず』が、会心の出来だった。
私には、当時とても重たい出来事があった。だから、この言葉は天啓だったのだ。
国塚君の顔が強張っている。
「本田は間違っている」
国塚君が、ゆっくりと、言い含める様に私に言った。
「何で、最後ばかり気にして生きているんだよ。そんなの、生きている意味が分からない」
「始まりがあれば終わりがある。物事は必ず終わる。それに備えているだけ」
「そうかも知れないけれど、終わりまでには長い途中経過があるだろう?その部分はどうするんだよ。全部、終わりへの準備で済ませるつもりか?」
「結果を求める時代だよ。途中経過がどうであれ、入念に準備をして、綺麗に自分を始末出来れば、皆喜ぶ」
国塚君が眉間に皺を寄せた。
「本田は、それでいいのか?」
「だから、良いと言っている」
国塚君が、怒声で言った。
「周囲に迷惑かけるとか、そう言うの抜きにして、お前に楽しい事があるのか、と俺は聞いているんだよ!」
「ある」
私は、部屋の壁に立てかけたパズルを指刺した。
「あれが趣味。ジグソーパズル」
国塚君は、顔を強張らせて、暫く私を見ていたが、首を横に振った。
「違う」
「何が?」
「これは楽しいだろうが、時間つぶしだ」
時間つぶし……。
「そんな事無い!」
ちゃんと一人で暮らしている。プライベートな時間をどう使おうとも、間違っていない。何で、そんな事を言われなくてはならないのか。
「好きな物があるのは悪くない。俺もサーフィンしてるし」
国塚君は、一旦譲歩してから言った。
「でも、本田の場合は何か違う。……何歳まで生きるかなんて、誰にも分からない。その終わりをいつも考えて暮らしているなんて、何したって、楽しくない気がする」
国塚君になんて、話すんじゃなかった……。
そんな事言われたら、今までの生き方を全部変えなくちゃならない。そんなの、嫌だ。
「私は、聞くだけで良いって言った!」
怒ると、国塚君も怒って言った。
「俺は、黙っているなんて言ってない!」
国塚君は、怒りを吐き出す様にため息を吐いてから言った。
「何時からそんな風なんだよ……何でそんな事になってるんだよ」
「いいよ。放置しておいて。今日は気の迷いだったの。忘れて」
私が言い捨てると、国塚君はむっとした顔をした。当たり前だ。全面的に失礼なのは私だ。話を打ち明けて置いて、忘れろとか、自分でも無茶苦茶だと思う。
「ちょっと、酷く無いか?」
国塚君はそう言うと、私に手を伸ばして、腕を引っ張った。
「何するのよ!」
私の体はすぽんと国塚君の胸に収まってしまった。暴れてみたが、国塚君は私を抱き込んで、離してくれなかった。
「俺はさ、本田が毎日何をしてるか知りたくて、知りたくて、仕方なかったんだよ」
「もう分かったでしょ!離して!」
「こんな事なら、もっと早くこうしておけば良かった」
「私は良くない!」
男の癖に、ネックレスしてるし、何か甘酸っぱい匂いの香水を付けてる。しかも、自分より、うんと体温が高い。ここまで近づいて、初めて知る。
やばい……あの怖れている病気を発症しそうだ。それは嫌だ。絶対に困る。
異性と触れ合うだけで発症とか、何て酷い病気だ!
「俺は、ずっと本田が好きだったんだ」
ギャー!感染者だ!
大暴れで離れようとしてみたが、ちっともホールド状態から脱出できない。
けれど、このままとか絶対に無理だ。
「やめて!触らないで!絶対に嫌!」
私が半分パニックになっているので、国塚君は、驚いて手を緩めた。
その隙に、部屋の隅まで一気に逃げ出す。
「本田?」
「ダメダメ。恋愛は絶対に無理。好きとかそう言う対象には絶対にならない。それは嫌。それだけは勘弁して」
私がうわ言の様に呟くのを、国塚君は、戸惑ったように見ている。
「私は誰も好きにならない。私は綺麗に消える。そっとしておいて。お願い」
その視線に耐えられなくて、私は頭を抱えて丸くなった。
どのくらいそうしていただろうか。
国塚君は、そっと部屋を出て行った。
ドン引きだった筈だ。国塚君の恋の病は消え去っただろうか。そうだといいが……。
何だか疲れた。
私はその後、何をするでも無く、ダラダラと過ごし、月曜からの憂鬱な出社を思い、ため息を吐いた。