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第7話 印刷機についての密談

「ここだよな」


陽次の問いかけに治人は一応うなずいたが自信は無かった。

寄り道が長すぎたのだろう。自力でたどり着いた小屋には誰もいなかった。

街の中心地から外れ、運河を渡った先の郊外。

一緒に出発した職人たちはすでに帰ってしまったようだ。小屋の前には同じような箱が積まれているから、おそらく合っているとは思うが。

2人が道をはさんで小屋と向き合ったまま困惑していると、小屋の前の箱に数人が近づいてきた。


「あれ、工房にいた人じゃなかった?」


治人が小声で陽次に伝えたのは、彼らが辺りの様子を伺いながら来たためだ。

先頭にいるのは確か、ドリツェーンとかいう名前の職人だった。

ドリツェーンは治人たちに気付かなかったようで、積み上げられた箱の1つを慎重に持ち上げた。

続いて現れたのは細身の男。メンテリンだ。

その後ろに金貸しのフストが続く。

なぜ一部の人間だけで荷物を運んでいるのだろう。

1つ1つが大した重さではないから自分たちで運べると思ったのか。

あるいは――他の職人たちに知られたくないことがあるのか。

3人は周りを確認しながら注意深く進む。治人と陽次は距離を置いて後を追った。

陽次は尾行などせず正々堂々と尋ねるよう提案してきたが、治人が無言で後をつけ始めるとおとなしくついてきた。

やがて彼らは1軒の小屋の前に着いた。廃屋のようなボロボロの建物。

先頭のドリツェーンが独特のリズムで扉をノックする。すぐに留め具を外す音が聞こえ、きしみながら扉が開いた。

中から顔を出したのはグーテンベルクだ。

フストが真っ先に中へ入り、ドリツェーンが続き、最後にメンテリンが入ろうとしたところでグーテンベルクが声を上げた。


「で?」

「何か?」


意図が分からず問い返すメンテリン。

グーテンベルクが正確にはメンテリンの背後を見すえていたと知るのは次の瞬間だった。


「オトワ、キヅキ。お前ら道にでも迷ったのか」


別の建物に隠れていた陽次と治人は同時に体を震わせた。

グーテンベルクの口は笑っているが目には貫くような光が宿っている。

しぶしぶ2人は姿を現した。


「いつの間に」


メンテリンが呆然としている。陽次は開き直ったようにグーテンベルクの前まで進み出た。


「この小屋は?今から何やるんですか?」


陽次が平然と質問をする。

治人は心の中で拍手をした。陽次が矛先をそらしている隙に言い逃れを考えられる。


「おれはいろいろと副業をやっていてな。

 アクセサリー販売、貴金属の彫刻、ワインの問屋。

 ここの地下はワインの貯蔵庫にしているんだ」


治人はすぐにグーテンベルクの話の矛盾に気付く。


「それにしてはずいぶん厳重ですね。荷物の中身とも合わない」


途端にグーテンベルクの表情が険しくなった。有無を言わさぬ圧力で、


「お疲れさん。今日は帰っていいいぞ」


治人と陽次の体を後ろに向けさせる。踏みこみすぎてしまったようだ。

金貸しのフストを呼んで何の話をするのか。

荷物をわざわざ別の場所に運ばせて、職人たちを追い返した後で。


「それじゃ、ぼくらはこれで」


治人はまだ話をしたがっている陽次を連れて元来た道を戻り始めた。一方でこっそりカメラを起動して後ろの様子を探る。

しばらく離れたところでグーテンベルクが扉を閉めたのを確認し、治人は立ち止まった。



治人と陽次はすぐに小屋へ引き返した。

入り口で様子を探っていた時、陽次が声を上げた。


「だれだ!?」


小家の屋根から隣の家の2階に人影が飛び移った。獣のように音を殺してそのまま家の中へ逃げる。

時刻はすでに黄昏。特徴はほとんど分からなかった。ただ一点を除いて。


「陽次。さっきの人の腕に」

「ああ。黒い布があった」


大聖堂の広場で陽次が捕まりそうになった集団だ。なぜこんな所にいるのか。

人影が現れた屋根の下まで来ると、隣の家との隙間に人1人通れるくらいの溝があった。

枯草で隠されているが、中には明らかに人の手で整備された横穴がある。

治人と陽次は穴の中を進んでいった。

ほどなく空間は広がり、地下道となり、拓けた場所に出た。

奥からぼんやりとした明かりと話し声が届く。治人は声のする方へ進んだ。

やがて行く手を棚がふさいだ。治人と陽次はその陰に隠れる。

ドーム型の狭い地下室。

壁に沿って棚が三方に置かれ、中にビンが詰まっている。貯蔵庫とグーテンベルクが言っていたから、中身はおそらくワインだ。

地下室の中心にテーブルが1つ置かれている。明かりはテーブルの上のロウソクのみ。

3人のヨハネスがテーブルを囲んだ。内緒の話を始めるらしい。

入り口が1つの地下室、確かに密談に向いている。

フストが最初に口を開いた。治人はとっさにスマートホンを操作して録音のボタンを押した。


「で。どうやって金を返すつもりだ。また副業か」

「いや。新しい事業を起こそうと思うんだ」


グーテンベルクの言葉にフストは眉をひそめた。


「何を始める、グーテンベルク」

「鏡作りだ。アーヘンの巡礼者用の」

「あんな遠くまで?売れるかどうかも分からない鏡を運ぶつもりか!」


机をたたきかねない勢いで身を乗り出すフストに、グーテンベルクは落ち着くよう言った。


「表向きはそういうことにしておく。

 実際に作るのは『人類救済の鏡』。宗教書だ」


グーテンベルクはさらに声を潜めた。


「今後この仕事を『事業』と呼ぶ。

 事業にかかわるのは信頼できる必要最低限の人数。外の奴に知られてはならない。

 作っているのはあくまでも普通の鏡だと周りに言ってくれ」

「宗教書作りをなぜそこまで徹底的に秘密にする」


フストが低い声でぼやく。グーテンベルクがメンテリンへ視線を送り、メンテリンは立ち上がって近くの棚を探り出した。


「なあ、フスト。本を早く大量に作りたかったらどうすればいいと思う」


グーテンベルクの唐突な問いにフストは面食らったようだったが、よどみなく答える。


「大勢の人間を雇う。そして早く正確に書かせる。

 そうだな。1人1冊ずつよりも、それぞれ担当のページを割り振って同じページを書かせた方が早く仕上がるだろう」


そこでフストは言葉を切り、首をひねった。


「いや。それよりも版を使えばいい。

 木や銅の板に図柄を彫ってインクを乗せ、紙に写す。お前の得意分野だ」


この時代の本は手書きか版画で作られる。フストの答えはまっとうなものだった。

そして期待通りの反応にグーテンベルクは満足そうにうなずいた。


「書写修道士が一日中ひたすら文字を写し続けて写本を作る。

 あるいは、1ページずつ木版用の木を彫り続ける。

 版が劣化したらイチからやり直し。

 そんなことをしなくてもはるかに早く刷れるとしたら?」

「どういうことだ」

「これです」


メンテリンが棚から取り出したものをフストに手渡した。

小指より小さめの、木の棒が数本。

フストはそれらを手のひらに乗せ、1つ1つつまんで観察した。


「『D』。こちらは『O』。これは『M』。ハンコか?」


棒の底にそれぞれ異なるアルファベットが彫られている。木製のスタンプのようだ。


「これを組み合わせるんだ。こんなふうに。」


グーテンベルクはメンテリンが机の上に置いた棒を手元に集めた。

文字の彫られた面を上にして一列に並べ、ひもでくくって固定する。

そして文字の部分に筆で墨を塗り、紙に押した。棒をどけた後の紙にはくっきりと文字が映っていた。


『DOMINE DEUS』


フストは開いた口がふさがらないようだった。

グーテンベルクが提案したのは人の手で書き写すのでも1ページごとに木版を彫るのではない。

アルファベット1文字1文字のスタンプを組み合わせて文を作る?

1冊の本を作るのに大変な労力をかけているこの時代に、誰がこんな方法で本を作ることを思いついただろう。

唖然とするフストの隣でグーテンベルクが得意げに笑った。イタズラが成功した子供のようだ。


「おれはいくつかの技術を持っている。

 木材の加工、彫刻、ラテン語。それらを合わせて全く新しい仕事を始めようと思っているんだ。

 木材で作った文字、それに合うインクを塗って紙を貼る。そうすれば本が量産できるだろ」


棚の陰で聞いていた治人は、これだ、と思った。

――印刷だ。彼はこれを隠していたんだ。

グーテンベルクの秘密、そして自分たちが元の世界へ戻るためのカギ。

フストは木の棒を再び手に取り、食い入るように見つめてうめいた。


「新しい仕事には莫大な金が要る。回収のメドはついているんだろうな」


これにはメンテリンが自信ありげに答えた。


「ご存知だと思いますが、私はマインツ大司教付きの写本装飾士です。

 上へひそかに打診したところ、彼らも興味を寄せています。

 悪い話じゃないでしょう?」


フストはメンテリンから再びグーテンベルクに視線を戻した。


「教会の下請け。お前が満足できるとは思えないな」

「バレたか」


肩をすくめるグーテンベルク。彼の真意を探るようにフストは正面から見すえた。


「聖書か?」

「いずれは」


フストの問いかけをグーテンベルクが短く肯定した。それで話は済んだようだ。

分かった、と答えたフストの声にはもう迷いが無かった。


「グーテンベルク。お前は昔貨幣の鋳造もやっていただろう。

 いっそ木ではなく金属でこの文字を作ったらどうだ」

「おお!確かに面白そうだ」


目を輝かせるグーテンベルク。メンテリンが静かに、そして冷ややかに口をはさんだ。


「そうなると、活字専用の溶鉱炉(ようこうろ)が要りますね」

「あ。」

「溶鉱炉以前に、燃料を買うお金すらありませんよ。

 そんな状態で活字の研究を新たに始めると?」

「何だよ。辛気(しんき)くせえな」

「あなたが無計画すぎるんです」


ぴしゃり、とメンテリンが言い切り、フストの目の前に木製の活字を置いた。


「私からもう少し詳しく。

 この文字のスタンプ、活字を一通りそろえるところからですが……」


メンテリンが説明を始め、声がより小さくなっていった。

治人は陽次に合図して地下道の中を引き返した。

収穫は十分だった。

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