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第49話 ヨハネスは祈りをささげる

ルターたちと来た時の記憶を頼りに、シュトラスブルクの街を歩く。

郊外はまだ整備されていなかったが、目的の粗末な家を見つけることができた。

入り口は通りに向かって開きっぱなしだった。

不用心なのか、あるいは投げやりになっているのか。

家の奥には机が一台置かれていて、見覚えのある後ろ姿が机に向かっていた。

ヨハネス・メンテリン。

何か作業をしているわけではなく、ただ考え事をしているようだ。


「神よ。何故あの方だったのだ」


メンテリンは肩を落とした。

無力感に押しつぶされるように。

治人はルターの時代で見つけたメンテリンの手記を思い出していた。

殻を破らなければと思い直し、それでも一歩踏み出そうとするたびグーテンベルクを失ったあの日に心は戻り。

こうやってメンテリンは何度も絶望をたどったのだ。


「ノーシス。今からぼくが言うことをこの時代のドイツ語に翻訳してくれ」


治人の言葉は届かない。誰かを動かしたりできない。

それができるのは彼だ。

シュネードも、メンテリンも、工房の職人たちも。行動の核には彼がいた。

誘導するんだ。彼の声を、姿を、思いを借りて。

その時、入り口の扉が閉まる音がした。

部屋に入ってきたのは、治人が誘導した職人たちではなかった。

女性だ。

治人の横を素通りして奥へ進む。

女性の横顔を一目見て、治人は息をのんだ。

絹糸のような金色の髪。細い体躯。緑を含んだ青色の目。

そして、瞳と同じ色の光をたたえた十字架のペンダント。

すぐ後ろまで女性が近づいてようやくメンテリンは気づき、唖然(あぜん)とした。


「エ、エネリンさん?なぜここに」


突然現れたのはグーテンベルクの元婚約者、エネリンだ。

当然の疑問を口にするメンテリン。

それに対してエネリンは表情を険しくした。


「それはこちらのセリフよ。あなたはなぜここに居るの?」


困惑を深めるメンテリン。

かまわずエネリンは続ける。


「ぐずぐずと悩み続けてあの人を失った自分を憐れむため?

 あの人がいろんな権利をあなたに残した理由は?」


エネリンは活字の詰まった棚へ近づき、両手を広げた。

メンテリンを説得するように。

誰かに合図を送るように。

目の緑色が濃くなった。


「思い出して。彼が何を望んだか。

 思いは必ず受け継がれるわ。

 形が消えてしまっても、ここには彼のカケラがある。

 耳を澄ませてみて、さあ」


棚に置いてあった活字がひとりでに床へ落ちた。

1つ1つ順番に、何かを訴えるように。

メンテリンは落ちた順番に活字を拾い、机の上に並べて指でなぞった。


「祈りを唱えろ……?」


ここに居ないはずの男の声をメンテリンは聞いた。

雑音が混じっていたが、忘れようもない彼の声。


【おれにとっては……この過程そのものが……祈りなんだ】


遠い記憶がよみがえる。

いつだったか、グーテンベルクと共に印刷機用の活字を作っていた時だ。

借金の返済について相談中に、メンテリンが印刷機にこだわる理由を尋ねた。

その時グーテンベルクはこう答えたのだ。


「技術には偽りがない。聖書の言葉と同じように。

 妙なことを言うかもしれないが……

 こうやって活字を彫ってより美しいものを追い求めているとき、神を感じることはないか?

 おれにとってはこの印刷機を作り上げる過程そのものが神に語りかけること。

 祈りなんだ」


「めったなことを言わないでください。

 教会に引っ立てられますよ」


慌ててあたりを確認するメンテリン。

グーテンベルクは心底面白そうに笑った。


ドアを乱暴に開く音がして、メンテリンは追憶から呼び戻された。

十数人の男が入り口に詰めかけている。


「どうしたんだ、おまえたち」


メンテリンは驚いた。

集まったのはグーテンベルクの工房にいた元職人たちだ。

先頭の1人が一歩前に出てメンテリンと向き合う。

この場所を探し回ったのか、息が切れていた。


「グーテンベルクさんの声が聞こえた」


すると後ろの職人たちも次々と口を開く。


「おれも言われたんだ。おまえを助けろって」

「おれもだ」


ざわつきを収めるようにひときわ通る声が結論を出した。


「神のおぼしめしだ。また事業を始めることが」


次々と同意の声が上がり、一番前にいた男がうなずいた。


「もう一度おれたちで事業をやり直そう、メンテリン」


メンテリンは立ち上がってこぶしを握った。

目に光が宿り、表情が引き締まった。


「グーテンベルクさん。

 わたしがあなたのようになれるとは思わない。

 ただ……同じ道に立つことはできるだろうか。

 あなたの祈りの続きを唱えても構わないだろうか」


窓から日が差す。

光が満ちた。

治人はそう感じた。

景色にかかっていた(もや)が消え、鮮やかさを取り戻す。

室内が次第に熱気を帯びていく中、エネリンが1人踵(きびす)を返した。

治人と確かに目が合う。

カトリンの面影が重なった。

唇がハルト、と動く。イタズラっぽい笑み。

治人は応えるようにうなずく。

彼女は満足そうに笑い、目を閉じた。

それと同時に胸元の石の光が消える。

もう一度女性が目を開けた時、目は元の青に戻り、彼女の――カトリンの面影も消えた。。

おそらく本来のエネリンが戻ってきたのだ。

治人を興味深げに一瞥(いちべつ)し、役目は終わったとばかりにエネリンは家から出て行った。



――ヨハネス・グーテンベルク、グーテンベルク屋敷のヨハネスは印刷機を作った。

その印刷機からヨハネス・フストの手を経て聖書が出版され、印刷技術は瞬く間にヨーロッパ中に広がる。

出版ブームはやがて宗教改革の原動力となった。



工房は活気で満ちていた。

活字を組む者、インクを塗る者、ネジを回すもの、紙の仕上がりをチェックする者。

広い室内に20人ほどの職人が働いている。

作業を指揮していたヨハネス――メンテリンは、少年が出入り口近くに立っていることに気付いた。

いつ入ってきたのか。

なぜ誰も気づかなかったのか。

徒弟がいない今、なぜ彼のような15,6の少年がここに居るのか。

疑問がわいていいはずなのに、不思議と違和感はなかった。

メンテリンは自然に声をかけた。


「以前ここで働いていた子だな」

「お久しぶりです、メンテリンさん」


少年は一礼して当然のように室内へ進んできた。

具体的に何年前働いていたのか、どういう経緯で明らかに異民族の少年を雇ったのか、――なぜ唐突に戻ってきたのか。

やはりそんな疑問はわかない。

少年はメンテリンが最近仕入れた機械に興味を持ったようだ。

立ち止まってしばし見入っていた。


「印刷機が大きくなっている気が」


メンテリンは誇らしげに胸を張った。


「ああ。前の物よりたくさん刷れる。

 活字も違うぞ。

 前は木から作っていて耐久性に難があったが、今度は金属を彫ったものだ。

 あの人もせっかく金属彫刻の技を持っていたんだ、本当はそうしたかったんだろう」


「これ……全部自分で買ったんですか」


「まさか。フストから金を借りた」


「……やっぱり」


「前の借金と合わせて返済に何年かかるかな、ハハハハハ」


メンテリンは朗らかに笑い飛ばした。

その笑い方は以前の内気な彼ではなく、グーテンベルクに近いものだった。

少年はメンテリンの変化に気付き、つられて微笑する。

しかし機械から紙が取り出されると、笑顔が凍った。


「……メンテリンさん、これは」


独特の文字の配列、書体。

少年とは対照的にメンテリンは屈託なく笑った。


「教会から依頼された印刷物だ。

 持っているだけで贖罪(しょくざい)ができるとかいうありがたいもので……」

「免罪符」


すかさず少年がこたえ、メンテリンは大きくうなずいた。


「そう、それだ。高く売れるから助かる」


深刻な……というよりも複雑な表情の相手につられて、メンテリンも作業を見守る。

免罪符の注文は大量に入っている。

人の罪を(あがな)う書状が次々と刷られていく。

冷静に考えてみれば何やらそら恐ろしい意味を含んでいるようで、メンテリンは腕を組んだ。


「これはもしかしたら……発展の種であると同時に、争いの種でもあるかもな」

「もし未来を予言できる人がいて、争いの種だって教えたら、あなたはどうしますか?」


少年の問いかけにメンテリンは迷いなく答えた。


「決まっている。耳をふさいでこれを続けるさ」


メンテリンは免罪符から目を離さずに言葉をつづけた。


「わたしはとにかくグーテンベルクさんの残したこれを完成させたいんだ。

 そこまで責任は持てない。

 正しく使えばいいだけの話だ、そうだろう?」

「その通りです」


少年は苦笑に近い笑みを浮かべた。

その時職人に呼ばれてメンテリンがその場を離れる。

あわただしく動き回る印刷の現場では、さっきまでいた少年が忽然(こつぜん)と消えたことに注意を払う者はいなかった。



荒れ狂っていた海は、大暴れを恥じるようにすっかり凪いでいた。

仰向けに寝転んだ治人の頭の下で波音が繰り返される。

治人は右手をかざし、透き通った青空を視界から遮った。

手の中には1枚の紙が筒状に丸められている。

治人はそれを額に押し当てる。

なるほど、とつぶやいた。

こんな紙切れでも(すが)りつきたくなる時はあるらしい。

沈黙したままの治人の顔をノーシスがのぞきこんだ。


「治人、尋ねよ。知識は人の(いしずえ)じゃ。

 わしはそのためにおる」

「新しい歴史の現代――高校とつながる扉はどこか教えてくれ、ノーシス」


全てはそのための道のりだった。たとえ選んだ覚えはなくとも。


「分かった」


ノーシスの体に淡い緑の光がともった。

それを見守りながら、治人はポツリ、とつぶやく。


「それと、さ……いろいろ助かった。ありがとう」


突然ノーシスの光が消えた。

いぶかしんでいると、ノーシスは不審な物でも見つけたように顔をこわばらせていた。

こんな表情は初めてだ。


「何だよ」


尋ねると、ノーシスは重々しく口を開いた。


「その言葉には何と返せばよい。選択肢が多すぎる」


治人は目を丸くし、それから口の中で笑いをこらえた。

紙切れを握りつぶし、そのまま手の甲を眉間に押し当てて衝動をやり過ごす。

そうだ。確かに、礼に対する返答など設定しなかった。

治人は笑いを抑えて答えた。


「考えとくよ」

「うむ、そうか」


ノーシスが神妙にうなずくのがおかしかった。


次回最終話です。

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