第48話 虚像を躍らせる
泡がすべて消えるのを見届けてシュネードは立ち上がった。
反射的に治人は一歩下がる。
「そう警戒するな。
殺すつもりはないから好きにしろ」
治人はシュネードの言葉を正確に受け取った。
元の歴史に戻そうと、もう妨害したりしないという誓いだ。
シュネードは迷いなく知識の海とつながっている扉へ向かっていく。
その背中に向かって治人は尋ねた。
「ちょっと待って。これは?」
肩ごしに視線を寄こしてくるシュネードに向かって免罪符を左右に振った。
「もう必要ない。キサマが持っていろ」
「ぼくも要らないよ」
「そうか?」
返事はそれだけだった。
振り返りもせずにシュネードは緑白石をかざし、知識の海へさっさと飛びこんでいった。
「……ヤなやつ」
治人はぼそっとつぶやいた。
シュネードが元の時代に戻った所で村が暴徒に襲われた事実は変わらない。
カトリンは子孫がいたから生き残るだろうが、どのみち知識の海を渡った記憶は失っているだろう。
まあいい、と思った。
彼はもう誰かに使役されることもない。
誰もいなくなった部屋で治人は天を仰ぐ。
「ノーシス」
呼びかけるとスマートホンの画面から人の姿が生まれた。
「さっきローゼルが言ってたよな。
自分たちのいた村が沈んだって」
「うむ。あ奴らの過ごしていた場所は確かに沈んだ」
「ぼくのやろうとしていることは的外れじゃないんだ」
「そなたの言葉は届かぬといったじゃろう。
何をするつもりじゃ」
小首をかしげたノーシスに、治人はくすりと笑った。
「まだ働いてもらうよ」
「何じゃと」
「ぼくの声は届かなくても、きみはこの時代に干渉できるんだろ」
治人はスマートホンを操作して、ある音を再生した。
【今後この仕事を『事業』と呼ぶ】
男の声でスマートホンはそう鳴った。
「これは」
「スマホの中にグーテンベルクさんの声が録音してある。
これを基に彼の声を再現してほしい。
例えばぼくが『おはよう』って入力したらグーテンベルクさんの声で【おはよう】って再生するように」
「合成の音声か。
できなくはないが……何をするつもりじゃ」
再度同じことを尋ねたノーシスに、治人は意味ありげな笑みを返すのみだった。
シュトラスブルク郊外のとある工房。
数人の金属加工職人たちに交じってその男も働いていた。
男は両手で抱えた容器中の真っ赤な粘液を穴の開いた筒に注いでいる。
金属を溶かして型にいれているのだ。
表面上は他の男と笑っているが、目には時折失望の色が混じる。
腰を痛めているのか、後ろ手でさすりながらイスに座った時声が聞こえた。
【ドリツェーン】
男は呆然と辺りを見回した。
その工房に近い運河のほとり。
一隻の船が岸につながれた。
数人が船に群がり、樽を運び出し始める。
積み荷のワインを下ろしているのだ。
その中の1人も声を聞いた。
【リフェ】
男が力を失ったせいで周りの者たちが樽を落としそうになる。
男は慌てて意識を作業に集中させたが、顔にははっきりと動揺が浮かんでいた。
それからしばらく時間がたった後の、とある酒場。
十数人の男がテーブルを囲んでいた。
みんな陽気に騒いではいるがふと気を抜いた時に影が差す。
何かを吹っ切るように酒を酌み交わしていた。
その中の1人が酒樽のつまった棚へ目をやった。
「そこに誰かいるような」
隣の男がつられて見るが、視線の先には誰もいない。
「おい、また悪霊とかいうんじゃないだろうな」
「違う、そういうイヤな感じじゃない。精霊、みたいな」
「何だそりゃ」
会話があやふやに終わろうとした時、よく通る声が響いた。
【みんな】
酒場にはつきものの喧騒が消え、水を打ったように静寂が支配した。
しばらくして今度は混乱で騒然となる。
先ほどの声の主はよく知った、けれどこの場には絶対いないはずの人物だったからだ。
「待て!まだ話しているぞ」
最初に気配を察した男が注意した。
やや落ち着いてきたころに次の言葉が響いた。
【頼む。あいつの所へ行ってくれ】
男たちは顔を見合わせ、やがて声の言うとおりに従った。
かつての工房の職人たちが酒場から出て行くのを見届け、治人は先回りのために足を早めた。
多少動かせるとは思ったが、予想以上の効果だ。
精霊か。治人は自嘲気味に笑う。
ずいぶんと持ち上げてくれたものだ。
治人はこの時代の人に干渉できない。声も姿も認識されない。
動かすのは『彼』だ。
治人ができることはせいぜい、彼の虚像を躍らせることだけ。
死後もなお、これほどに人を惹きつける。
彼と最後に食事をした酒場を治人は見渡し、立ち去った。
目的地の前に、あともう1か所。
【フスト。頼みがある】
いないはずの人間が自分の名を呼んだ。
長年の商売客。
客?
いや、たった1つの切り札だった彼。
フストから驚愕の色はすぐに消えた。
「グーテンベルク。おまえ……」
フストはこぶしを握り、そして、
「おまえ、おれに大損をかかせておいて、死んだ後もたかる気か!」
宙を殴り始めた。
死者から返事はない。
図星だったのか、反論を考えているのか、あるいは――単純に驚いただけなのか。
「おれはな!儲け話ができるやつ、つまり生きているやつにしか興味はないんだ!
隠し財産のありかを教えに来たんじゃないなら、さっさと消えろ!」
命令どおり死者の声はぴたりとやんだ。
ゼイゼイと肩で息をするフスト。
何事かと様子を見に来た部下をフストは振りかえった。
「得意先を回り終えたら、あいつの所にも寄るぞ」
部下がまたたきを繰り返す間にフストは手早くコートを身に着けた。
「グーテンベルクがあいつを差し置いておれの所にだけ現れるはずがない。
はやく用を終えて不良債権を回収しに行くぞ」




