第47話 決着
治人は相手に聞こえるようゆっくりとつぶやいた。
「免罪符がもう1枚。
本当にこのままでいいの、ザシャ?」
――本当にこのままでいいのか、ザシャ――
シュネードの肩に力が入った。動揺している。
「もう1枚持っているのに、何度もぼくから取り返そうとした理由は?」
シュネードが落とした免罪符は今も治人のポケットに入っている。
そしてさっきシュネードの服の内側には確かにもう1枚の免罪符が括りつけられていた。
「1枚はきみ、もう1枚はお母さんのぶんだろう?
母親と一緒に地獄へ行くって言いながら、きみは救われることを諦めてなんかいない。
本当はまだお母さんと一緒に天国へ行くことを願っているんだ」
こんな紙切れで本当に罪を贖えるのか。
天国へ行けるのか。
そもそも死後の世界なんて存在するのか。
そんなことは一切問題ではない。少なくとも目の前の少年と神父にとっては。
彼らにとっては人が死後天国か地獄に行くことは決定事項であり、免罪符で懺悔を省けるというのが真実だ。
「本当は罪を犯したくなんてなかったはずだ。
これ以上罪を重ねたくないんだろう!?
目の前のその人は自分だけカトリンや家族のいる天国へ行こうとしている。
それでいいのか」
「黙れ!」
取り乱し始めるシュネードをなだめるようにローゼルが口をはさむ。
「耳を貸すな。おまえは私と同じだ、シュネード。
罪を犯さずにはいられない」
「あんたが勝手に決めるな」
治人はローゼルをけん制し、ひと際声を大きくして続けた。
「どうして活字を、弟子の証をまだ持っているんだ。
本当はグーテンベルクさんを殺したくなかったんだろう?
きみはあの人の所で働いていたかったんだ」
そう。服の中に免罪符と共に銀色のカケラが見えた。
あれはおそらくグーテンベルクからもらった金属製の活字だ。
治人の推測は当たっていたらしく、シュネードが胸元を抑えた。
「その人間は罪人だ、シュネード。
ためらっている分地獄の苦しみが深くなるぞ」
ローゼルが煽り、シュネードはナイフをかまえ直す。
ローゼルは知らない。
グーテンベルクがどんな人間だったか。
シュネードにどんな言葉をかけていたか。
シュネードにとって――ザシャにとって彼がどんな存在だったか。
治人は力の限り声を上げた。
「ぼくが何をやったっていうんだ、ザシャ!」
――おれが何をやったというんだ、ザシャ――
シュネードの表情が大きくゆがんだ。治人の思惑通りに。
今シュネードの心を最も揺さぶるもの。
それは彼が死の間際にはなった言葉だ。
「やっとだ。やっともう一度たどり着くことができた。
だからその機械を壊すな」
――やっと新しい聖書が作れる。だからその機械を壊すな――
「ぼくを殺したいわけじゃないだろう!!
きみに罪をかぶせていたのは誰だ!」
「あああああ!!!」
少年の叫び声が部屋に満ちる。
「神父、様」
かすれた声でシュネードが呼ぶ。
ローゼルの左胸には深々とナイフが刺さっていた。
柄を掴んでいるのはシュネードの両手、その内側にもう一組の手が包みこまれている。
ローゼルの手。
シュネードはローゼルの手にナイフを持たせた上で、胸に刺したのだ。
シュネードは震えながら手を離した。
それに伴いローゼルの手も力を失ったように垂れ下がる。
ローゼルは数歩下がり、床に崩れ落ちた。
目に浮かんだ絶望の色は意外にもすぐに消えた。
驚愕からさめるとローゼルは穏やかな表情になった。
すべてを諦めるような、受け入れるような。
「これで私も人殺しだ。自分を殺した」
シュネードはローゼルの傍らにひざまずいた。
横たわった男の声がどんどん小さくなっていくのをただ見守っている。
「長い暗闇を歩いてきた。
これから向かうのも灼熱の闇……
あの子……姪と呼ぶことしかできなかった娘とはもう永遠に会えない。
ザシャ。どうかおまえは神の愛を感じることができるように」
ローゼルは手を伸ばし、シュネードがその手を取ると目を閉じた。
手の力が失われる。
シュネードはローゼルの手を彼の胸に置いた。
「おれも母さんも社会からはじき出されたゴミだった。
だから、拾われたあの日から、おれの命はあなたとカトリンの物だったのに。
あいつのせいだ。
あいつが、貴族のくせに妙なことを言うから……」
治人は知識の海で探し当てたシュネードの記憶を思い出した。
何か彼を動かせる記憶はないか、探し出してついに見つけた場面。
薄暗い部屋に頼りなさげなロウソクの明かり。
グーテンベルクの『事業』小屋だ。
金属片を磨くグーテンベルクの背後からシュネードが近づく。
「もう、事業はやめたらどうだ?人が死んだんだぞ」
グーテンベルクは手を止めることなく答えた。
「ドリツェーンの兄貴が死んだのは病気だ。
死体に傷をつけただけだな」
「何でそんなことがわかる」
「昔医術もかじったんだ。よっと」
グーテンベルクは息を吹きかけてカケラを払い、金属片を左右に動かして仕上がりを確かめる。
「いい出来だ。おまえ手先が器用だな。
どうだ?ほんとに弟子入りしないか」
何気ないその誘いに気おされたように、シュネードが一歩後ずさった。
「ムリだ。おれは」
「本当にこのままでいいのか、ザシャ」
シュネードは息をのんでグーテンベルクを見る。
まともに目が合った。
「刃、か。偽名だったんだな」
「何でそのことを」
「清貧会の奴らがおまえをそう呼んでいただろ。
お節介かもしれないが、いいうわさを聞かない。
あそこを抜けてこっちに来る気はないか?」
「そんなことできない。
おれはおまえみたいな貴族とは違うんだ」
「貴族なんて名前だけだ。
おれもそれなりに苦労してきたんだがなあ」
グーテンベルクは困ったように頭をかいた。
シュネードは彼を試すように、ゆっくりと尋ねる。
「橋の下や下水で物をあさったことはあるか」
「無い」
「ボロボロの毛布をまとって凍えながら朝が来るのを待ったことはあるか」
「無いな」
「何でもするから食べ物と宿を恵んでくれと人にすがったことはあるか!」
「それも無い、な」
苦笑するグーテンベルクにシュネードは言い募る。
「神が見ている。それでも罪を犯さなきゃ生きてこられなかった!」
シュネードは言葉を切り、うつむいた。
「その程度なんだ、おまえの苦労なんて」
グーテンベルクはやはり困ったようにため息をついた。
「確かにな、おまえが背負ってきた苦労をおれは分かってやれないかもしれない。
それでも、今こうして並んでしゃべっている。
これから同じ場所を目指すことはできるって考えは甘いか?」
シュネードが徐々に顔を上げると、グーテンベルクは彼の頭に手を置き笑いかけた。
「おまえがどこで生まれたか知らないが、抜け道はいろいろあるんだ。
大人に任せとけ」
シュネードの動揺が深くなった。
迷っている。
それは人生の岐路に立ちすくむというより、幼い子が親の語るおとぎ話を信じるべきかどうか、判断に困っているという印象だった。
グーテンベルクは立ち上がり、机の上をシュネードに見せる。
そこにはひもでくくった活字が並んでいた。
「こうやって活字を作って、並べて、聖なる言葉を広めて生きていく。
この事業はきっと世の中をひっくり返すような力がある。
そばで見てみないか?きっと楽しいぞ」
グーテンベルクは活字の中の一つをつまんだ。
「弟子の証だ。持っていけ」
そう笑ってシュネードに差し出す。
シュネードは両手で受け取り、泣きそうに顔をゆがめ、走ってその場から去った。
治人が知識の海で見つけた記憶はそこで終わっていた。
今遺体のそばに座るシュネードは記憶の中と同じく迷子のように背中を丸めている。
「あいつが夢みたいなこと語るからだ」
神への信仰と身分に縛られたシュネードにとって、それは目がくらむほど甘美で残酷な夢だっただろう。
グーテンベルクが植え付けた夢はシュネードの中で芽吹き、育って彼の意思を咲かせた。
彼の元で過ごしてみたい。
あんな風に生きることができたら。
シュネードは命の途切れたローゼルの手を強く握った。
「煉獄で待っていてくれ、神父様」
やがて遺体は色を失い、透き通り始めた。
遺体は無数の泡となり、徐々に水の中にばらけていく。
シュネードの手からも泡があふれ、彼のそばをしばらく漂い、やがて離れていった。




