第43話 知識の海
「方法を探す。待っておれ」
ノーシスは地面の端でしゃがみ、海に片手をひたして目を閉じた。
全身が淡い光に包まれる。
太陽光ではなく、パソコンやスマートホンの放つ明かりに近いものだ。
光の中に粒子が混じり、アルファベットや数字、記号がノーシスの体をぐるぐるとまわる。
その中の1つをノーシスはもう一方の手でつかみ、目を開けた。
同時に光が消える。
「どうだった」
「常にわしがそばに控えておれば海の中を沈まずに移動することは可能じゃ」
「じゃあグーテンベルクさんの時代には?」
「不可能、に近い」
歯切れの悪い答え。
治人は説明を求め、ノーシスは硬い表情で口を開いた。
「わしは知識の海の案内人。海から外へ出ることができぬ。
じゃがそなたはわしの案内を失えば海に飲み込まれる。
つまり、たとえ海の底へ沈んだグーテンベルクへの時代の扉を見つけても、開けた瞬間にそなたはわしの手を放すことになる」
「グーテンベルクさんの時代へたどり着いた瞬間にぼくは海へ沈んでしまう、か」
秩序を乱した治人への怒りを発現したように荒れ狂う波。
沈んだところで命が奪われるわけではない。
ただ、治人がこの海を通して体験したこと、出会った人々の記憶は消えてしまうのだろう。
それはつまり、今の自分が無くなってしまうことと同義だ。
治人の視界に透明な地面に放置された黒い板が映った。
スマートホンだ。最後に陽次から返された。
治人はそれを拾い、脇のボタンを押す。
波にのまれたのにもかかわらずスマートホンは普通に起動した。
そこで思い至った。
チョコレート、カトリンの緑白石、シュネードの免罪符――そして、このスマートホン。
モノは海を、時代を超えることができる。
それならば。
治人がスマートホンを操作するのをノーシスは不思議そうにながめる。
やがて異変が起こった。
ノーシスがすさまじい勢いで引っぱられ、治人のスマートホンの中に吸いこまれていった。
「何をする!」
スマートホンの画面の中からノーシスが叫ぶ。
「アプリに制限をかけてぼくのスマホでしか使えないようにした。
君に効くかどうかは賭けだったけど、影響あったみたいだね」
治人はこともなげに言った。
「これで君はただのモノだ。
モノなら知識の海から抜け出せるんじゃない?」
治人の表情に混じった安堵の色を見て、ノーシスは警告を重ねる。
「そなたが何を考えておるか知らぬが、沈んだ世界の住人はそなたの声も姿も感知できぬ。
以前は『そこにいるべきもの』として周りの者に認識されるよう働いていた知識の海の殻が、今はそなたの存在をかき消してしまうのじゃ。
できることといえば、物に触れたり、物同士をぶつけて音を立てる程度。
そのような状態でどうやって歴史に干渉するつもりじゃ」
くすり、と治人は笑った。
「大いなる知識の海の管理人がいるんだ。
方法の1つくらい思いつくよ」
治人はためらいなく海へ飛び込んだ。
治人の左手首をノーシスがしっかりと握っている。
すぐにノーシスの体が淡く光り、ノーシスが握った左手首を通じて治人の体も光に包まれた。
気を抜くと感覚が狂い、頭の中を文字の羅列と無数の映像が支配しそうになる。
ノーシスの手の感触を頼りに治人は己を保った。
海の中に1人の男が立っていた。
こちらから声をかける間もなく向こうから近づいてくる。
「やあ!初めまして」
「ア、アルベルトさん!?」
「確かに私はアルベルト・アインシュタインだ」
男――アルベルトは顎をつまんで考える。
「不思議で愉快な夢だな、知らない人間に会うなんて」
治人のことは忘れているらしい。まあいいだろう。
アルベルトは治人の手を引っぱり、海の中を滑り始めた。
「きみの望みは分かっている。こちらへ」
促されるまま、治人はアルベルトの後に続く。
奇妙なことにアルベルトには波が襲ってこないようで、彼の後ろにいると楽に海の中を移動できた。
やがてアルベルトは動きを止めた。
目を凝らすと、波の向こう側に人影のようなものがあった。
薄いレースを何枚も重ねたようなおぼろげな輪郭だ。
「ルイ・パスツール。
この少年を失われたシュトラスブルクへ案内してやってくれないか。
私は立ち寄らないことになっているんだ」
幕の向こうで人影――どうやら男性らしい――が反応した。
「ストラスブール!実に懐かしい。
博士論文を書いたのがあそこだった。
さあ、こちらへ来てくれ」
手を差し伸べられた。
戸惑う治人にアルベルトが「さあ」と促す。
尚も迷っている治人にノーシスがそっと言い添えた。
「信用してよいと思うぞ。
ルイ・パスツール。
腐敗が自然に起こるものではなく微生物や細菌に由来することを突き止めた学者じゃ。
広大な知識の海からそなたの求めるシュトラスブルクへたどり着くのは海底で1かけの石を探すようなもの。
シュトラスブルクに縁のある者たちの手助けが必要じゃ」
治人は腹をくくり、波の合間から突き出た手を握った。
途端に体が引っ張られる。
波にもまれ、体が一回転したような衝撃を受けた。
平衡感覚が乱れ激しいめまいが襲う。
長い時間に感じたが実際は一瞬だったらしい。
自分をとらえていた網を破るような感覚があり、途端にめまいが収まった。
治人の前には線の細い男が1人立っていた。
「自力で海を渡ることもできない少年が、よくもまあここまで。
ようこそ。そして帰還おめでとう」
さっき幕の向こう側で聞いた声と同じだ。
男――パスツールは優しく手を取った。
「遠慮することはない。
ここにたどり着いたものはみな兄弟のようなものだ。
大いなる知識の祝福を」




