第4話 グーテンベルク最大の敵を追い返す
ひと段落ついた陽次は背伸びして腕を回した。
同じ姿勢で作業していた体をほぐす。
長い時間をかけてようやく写し終えたのはたった数行だ。
「ハルー。お前どんくらいできた?」
陽次は体を横に倒して後ろからのぞいた。
治人は陽次よりもさらに時間がかかっているようだ。
というか、これは……
「お前1文字じゃん!サボってただろ!」
「マジメにやる方がびっくりだよ。ほっといてくれ」
1文字だけ書かれた紙を板ごと取り上げようとする陽次と、隠そうとする治人。
ざわついた気配にグーテンベルクが反応した。
「おーい、そこ。手を止めるな」
こちらに近づいてくるグーテンベルク。すると、静かな声が彼を呼び止めた。
「待て。先に報告がある」
声の主はグーテンベルクの背後――その上。窓枠へ器用に腰かけていた少年が床に飛び降りた。
2階ほどの高さから飛んだのに、着地の音は軽い。ずいぶんと身軽だ。
治人と陽次は少年を目で追った。
褐色の髪と瞳、そして肌。白い肌の人間が多いこの工房ではかなり目立つ。
彼自身も意識しているのか、麻のローブで全身を覆い、屋内でもフードを目深にかぶっていた。
「シュネード、だったっけ?」
陽次が自信なさげにつぶやいた。
新入りという設定を利用して工房の職人は一通り紹介してもらったが、まだ覚えきれていない。
グーテンベルクが治人達をけげんそうに見た。
「紹介してなかったか?」
「正式にはまだだったと思います」
「悪い、忘れてた。ハハハ」
陽次が困ったように言うと、グーテンベルクは豪快に笑い飛ばす。やや大ざっぱな性格のようだ。
「こいつは雑用係のシュネードだ」
グーテンベルクの紹介を受けても、シュネードは面白くもなさそうにこちらを一瞥するのみだった。
「どっかで見た……」
陽次が小声でつぶやき、治人はわずかにうなずいた。
高校に居ただろうか。それにしては思い出せない。あの浅黒い肌ならば印象に残るはずだが。
第一シュネードの見た目は12,3歳で明らかに治人たちより年下だ。
「で、報告って?」
困惑する治人達をよそに、グーテンベルクはシュネードに尋ねた。
「『奴ら』がここに向かっている」
シュネードが告げた瞬間、工房の空気が張り詰めた。
「全員、緊急体制!」
グーテンベルクの号令と共に職人の一人が机のベルを鳴らす。
カンカンカン……
わらわらと階段をのぼり、職人たちが踊り場の窓から外へ出て行く。
窓から屋根に出られるようだ。
「お前ら何突っ立ってるんだ!逃げろ!」
最後に取り残されてしまった治人と陽次をグーテンベルクが急かした時だった。
バン!
入り口が乱暴に開けられ、数人の男が工房に押し入る。
中心にいた男がグーテンベルクを見つけて意地の悪い笑みを浮かべた。
恰幅がよく、服装も工房にいる男たちより整っている。年齢はグーテンベルクと同じか少し上くらい。
「今日こそ借金を返してもらうぞ、グーテンベルク!」
中心の男が大音量で宣言し、左右に控えた者たちが続けて叫んだ。
「期限を守らず」
「こそこそと副業ばかり」
「その場しのぎの天才」
「いい加減にしろ」
痛いほどの沈黙が満ちた。なんとなく事態を察した治人はグーテンベルクに確認する。
「あの人たちはまさか」
「ああ。真ん中にいるのがヨハネス・フスト。三人目のヨハネス。
金持ちで、金をくれる人だ」
「やった覚えはない、貸しただけだ!」
分かりやすくて失礼な紹介に、ヨハネス・フストが怒りの混じった声を上げた。
グーテンベルクは気に留めず次々と指さす。
「横にいるのがフストの借金を返すために金を借りた人。
で、その借金を返すためにさらに借りたのが隣。
順番に行って最後はフストに戻ったわけだ」
治人はめまいを覚えた。典型的な借金地獄だ。
「悪いな、フストと借金取りたち!金は今度だ」
ひどい捨てゼリフと共にグーテンベルクは全速力で階段を駆け上った。
治人と陽次も雰囲気にのまれて後に続く。
「お前の『今度』は年単位ではないか!」
フストたちが追いかけてきた。
グーテンベルクと治人が屋根に出て、陽次も出ようとした時にフストが追い付いた。
「うわ!」
とっさに陽次は手に持った木の板で窓をふさぐ。
「いいぞ、オトワ」
グーテンベルクがすかさず荷袋からクギとカナヅチを出して打ち付けた。
板は窓の一部を覆っただけだが、人が出入りできるスペースは無くなった。
怒りの声とともに木の板をたたく音が聞こえていたが、しばらくしてあきらめたらしく、静かになった。
フストたちが工房から出て行き、こちらをにらんで去っていくのを確認して、グーテンベルクは打ちつけた板を取ろうと手に持った。
そこでクギをつまんだまま固まる。
「どうしたんですか」
メンテリンが尋ね、グーテンベルクはあいまいに言葉を濁した。
木の板に貼りついた、治人が一文字だけ写した紙。それをグーテンベルクは食い入るように見つめている。
手抜きをとがめられるかと治人は冷や汗をかいたが、そのつもりはないようだ。
しばらくしてグーテンベルクはクギを抜き、板をどけて工房への窓を開けた。
職人たちが続々と工房へ戻る中、陽次は逆行して屋根の端まで歩いて行った。
「見てみろよ、ハル!」
呼ばれて治人は陽次の隣に行った。
屋根が途切れて街の景色が広がる。
街並みは旅行の写真などにあるヨーロッパの古都そのものだ。まあ、全体的に薄汚れてはいるが。
石畳の大通り。とんがり帽のような三角形の屋根と白い壁の家。
それらを二股に分かれた川が楕円形に囲み、さらに川沿いの壁が街と郊外とを分けている。
市壁に守られた中心街でひと際抜きんでている建物は、おそらく教会だ。
陽次は天を穿つヤリのような尖塔をいつになく真剣な顔で見つめている。ポツリ、と低い声が治人の耳に届いた。
「何なんだ、ここ。おれたち本当にこんな所から帰れんのか?」
治人はうつむいた。自分たちには情報が圧倒的に足りないのだ。
「陽次、下に降りよう。この街を調べるんだ」
工房に戻ろうとすると、突然肩を掴まれた。
「事情がありそうなところ悪いが……お出かけの前に仕事しろ、キヅキ」
振り返ると、グーテンベルクがほとんどまっさらな紙を片手に冷たい笑みを浮かべていた。