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第39話 彼の前で人はひざまずく

翌朝、ヴィルティンに見送られて迎えの車に乗った治人たちは、途中で軍の車に分乗して郊外に着いた。

アルデンヌの森。

ここを通るよう示唆したのは治人自身だが、緑白石が教える史実を宰相に伝えただけで実際にどんな道かまでは理解していなかった。

生いしげる木々、ぬかるんだ地面、行く手を遮る倒木。

なるほど、通れるとは思わない。

フランスがここをマークしていなかったのも納得だ。

治人たちが通るのは何台か戦車や車が通った道で、最初よりもならされているはずだ。

それでも揺れと騒音が激しく、誰も言葉を交わさなかった。

後部座席にいるチェスターは無言、後ろの車に乗る伝介と咲太郎は車酔いしたらしく、ぐったりともたれている。

やがて森を抜け、ひらけた丘陵地に出た。

ところどころ、土ぼこりにまみれた塊が転がっている。

赤黒いしみに気付き、治人は目をそらした。

もし自分が動かなかったら、この兵士は。

そこまでで思考を無理やり止め、前を見ながらひたすら目的地に到着するのを待った。

やがて街道の向こうに赤茶色の尖塔(せんとう)が見えた。

尖塔はみるみる近づき、街の外壁も視認できるほどになる。

高い建物が増えたようには思うが、昔の面影も確かにあった。

とうとう来てしまった。

すでに元の歴史とは異なる道を歩んでいるシュトラスブルク。

治人は自分の記憶と照らし合わせたが、街のどのあたりを走っているのかさえおぼつかない。

街並みは変わってしまった。

かつての名残を通りの一部や壁の端に感じることもあったが、数百年後のシュトラスブルクはもはや別の街だ。

知らない場所にいるような心もとない気分になった。

中心街に入って車から降り、治人たちは大通りを歩いた。

妙に人が少ない。

違和感の答えを伝介が与えてくれた。


「ほとんどの人は避難しちまったらしいぜ。

 帝国がここを狙っているのは分かり切っていたからな。

 ご丁寧に橋や施設も爆破して準備した焦土作戦。

 ま、あんまり意味なかったが」


ここよりも先に首都(パリ)が陥落したことで防衛ラインはその実力を発揮できなかった。

敵が国境警備を重視している間に、正面衝突を避けて別の道を回り、先に首都を攻撃する。

考えてみればまっとうな戦法だ。

広場に出、シュトラスブルク大聖堂を見上げてようやく帰ってきたのだと思えた。

大聖堂もまた流れた年月の長さを感じさせた。

彫刻はまろやかさを帯び、外壁の色はややくすんで、長い時を経た建物特有の幽玄(ゆうげん)な美しさを帯びている。

治人たちは宰相の一行に続いて大聖堂の中に入った。

大聖堂の内部はグーテンベルクが殺されたとき以来だ。

祭壇やベンチの位置、新たに設置された天文時計など内装が変わっていた。

中ほどまで進んだところで宰相が足を止め、天井をしみじみと見渡した。


「素晴らしい。ケルン大聖堂に勝るとも劣らない荘厳さだ。

 ここは神聖ローマ帝国臣民の国家的聖域。

 ステンドグラスを避難させろ。

 このような前線に置いておくと危険だ」


さっそく宰相は側近に指示を出す。

取り巻きの一部が敬礼をしてその場を去ると、宰相は治人へ目くばせした。


「キヅキ氏、こちらへ」


治人は宰相のそばに歩いて行った。

彼の視線の先をたどると、高く掲げられたキリスト像に行きついた。


「あの像のことをどう思う」


質問の意図が分からず宰相を見直すと、詩でも朗読するかのような言葉が続いた。


「イエス・キリスト。

 よくできた人物だったようだが、その教えには脆弱(ぜいじゃく)な部分があった。

 弱き者、愚かな者にまで救いの手を差し伸べたことが大きな過ち。

 それはマルティン・ルターも同じだ。

 身体も精神も優れ、強さと賢さを兼ね備えた遺伝子を残すことこそ我らの使命ではないか?

 どちらが真に世の中のためになると思う?」


ごう慢さがもたらす腐臭(ふしゅう)を治人は嗅ぎ取った。

しかめそうになる表情をコントロールして、治人は宰相が望む答えを与えた。

宰相は満足そうにうなずいて立ち去った。

治人は宰相の立っていた場所に進み出て、同じ角度で見上げる。

はりつけにされた男の像。

結局のところ『これ』を巡って争いが起こるのだろうか。

そんな疑問が頭をよぎった。

すると急に視界が暗くなった。

立ちくらみのように、視界に濃いセピア色のフィルムがかかる。

ステンドグラスに黒い影が差し、床を茶色いものがいくつも横たわる。

ここに来るまでの道に転がっていたものと同じ。人の体だ。


「何だ、これ……」


治人のひとり言に緑白石が答えを出す。

今までに行われた争い。これから起こる戦争。

その結果もたらされる荒廃。


「よせ!こんなものを見たいわけじゃない」


緑白石を投げようとしたが、手に張り付いて離れない。

手の平にめりこんでいる。

海の水が緑白石からあふれ、治人の体を内側から浸した。

知識が、映像が体になだれ込む。

自分の輪郭がぼやけ、意識が徐々に遠くなる。

この石は治人の手に負えるものではない。

そう悟った。

思考を手放しかけた時、治人の目の前に人が現れた。

人形のように均整の取れた顔立ちと無機質な表情。

ノーシス。

治人は声にならぬままそう呼びかける。

ノーシスは治人の背に腕を回し、もう一方の手を後頭部に置いてそっと抱き寄せた。

治人の額がノーシスの肩に押し当てられる。

とたんに体から海の水が引き、緑白石に帰っていった。

手のひらの一部となっていた石を皮膚が押し返し、はがれる。

ノーシスが体を離した。

意識が再び鮮明になり、大聖堂の中は元の景色に戻った。

治人は緊張が解けてベンチに座り込んだ。

どうやら助かったらしい。


「危なっかしいのう。飲まれるでない」


諭すようなノーシスの言葉に答えず、治人は大きくため息をついて体中の空気を出せるだけ出した。


「この石はぼくの疑問に答えようとしたのか」


ノーシスはうなずいた。


「そなたら人には理解しがたいことにも緑白石は解を出そうとする」

「本当に、何でも答えてくれるんだな」

「だからと言ってみだりに知ろうとするものではない。

 緑白石は元来己の知を制御することのできる賢者に許された力。

 うまく使えば知識の海のしずくを受けることができるが、生半可な好奇心ではたちまち情報に飲み込まれる。

 知の扱い方を心得ることじゃな」


ノーシスは珍しく厳しい顔で説教し、現れた時と同じように音もなく姿を消した。




「どうしたんだい。顔色が悪い」


声をかけてきたのはチェスターだ。

その視線は先ほどまでノーシスがいた所に向かっているが、さっきの光景は見えていなかっただろう。

長い時間が過ぎたように感じるが、実際にはほとんど時間が経ってないようだ。

何でもありません、とごまかした。

チェスターは治人の隣に立ち、興味深そうにキリスト像と治人を見比べた。


「ハルト。君はずいぶんと稀有(けう)な旅をしているようだが、その途中で神様に会えたことはあるかい?」


いつもの軽口かと思ったが、チェスターの目は思った以上に真剣な色を宿していた。

治人は首を横に振る。


「そうか。ぼくも会ったことはないんだ」


チェスターは顔を上げた。

キリスト像というより、像を照らす窓からの光を見つめているようだ。


「彼は一体何をしているんだろうね」


質問の意図を理解できず治人は無言でチェスターを見る。

チェスターは言葉をつづけた。


「戦争は続いている、こうしている間も。

 みんな彼の言葉を聴きたくて、思いを知りたくて、彼に愛されたくてやっている。

 それなのに彼は誰の前にも現れず、真意は分からないまま」


チェスターはそこで自嘲の混じった笑みを浮かべた。


「知識の海のことを調べればその答えに近づけると思ったけど、むしろ遠ざかるばかりだ。

 本当に知恵の実ってのは掴めば掴むほど彼から疎まれるものらしい」


一歩前に出てチェスターはうなだれ、両手を組み合わせて祈った。

その後ろ姿がかつてのグーテンベルクと重なった。

自らの不安を押し込み、輪郭の分からぬ大きなものと対峙しようという強い意志。


「さて、余計な時間を使ったな。

 宰相の執務室へ行くから君を呼びに来たんだよ」

「執務室?」

「君が宰相に取り入ってくれたおかげで助かったよ。

 お礼に特等席を用意したから見届けてくれ」


まだ事情を分かっていない治人の手を取り、チェスターは強引に大聖堂の外へ引っぱり出した。

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