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第37話 宰相に自分を売り込む

ある朝、治人が起きて居間に入ると、伝介が真剣な顔で手紙を見ていた。

一目で高級な材質と分かる、厚手の真っ白な紙だ。

治人に気付くと、伝介は口元に笑みを浮かべた。


「宰相から謁見(えっけん)のお許しが出た」

「どんな魔法を使ったんだよ、伝ちゃん!」

「いつものやつ」


咲太郎は一瞬呆けた顔をし、すぐにああ、と嘆息した。


「無事帰ったら嫁さんにチクってやる」

「ご自由に。さ、どうする?」


最後の問いかけは治人に向けられたものだ。


「行きます」


治人は即答した。伝介は試すように言葉を続ける。


「罠かもしれないぞ。

 あのシュネードとかいうガキが待ち構えているかも」

「その可能性は低いと思います」


伝介が理由を尋ね、治人は自分の考えを整理した。


「多分今のローゼル神父……司教たちと宰相は連携していない。

 陽次は宰相のそばにいたけれど、シュネードがどう行動しているかは知らなかった。

 近くにも清貧会のメンバーはいなくて、陽次は彼らと切り離されて囲われているようだった。

 シュネードがあれから来ていないのも、宰相から妨害された可能性がある」


ノーシスがこの時代へ治人を導いた理由が分かった気がする。

ローゼルは歴史に干渉しきれなくなってきている。

宰相は陽次を自分らの側に引き入れてローゼルたちを遠ざけているのだ。

それに、と治人は続けた。


「もし罠だったらあなたは止めると思うから」


伝介は声に出して笑った。


「なるほど」


出立の時間が決まると、伝介と治人は手早く準備を済ませた。


「さあ、行くぞ」


複雑な表情の治人に、伝介は苦笑した。


「どうした」

「2人にとってこれは余分なことじゃないかって」

「前から思ってたんだが、もしかして大人に甘えるのが苦手か?」


治人は目をそらして押し黙った。


「きみみたいな若者は、どうせなら利用してやるぐらいの気持ちで行けよ。

 この前みたいに1人で抱えこんで無茶するよりはこっちの方がいいだろ」


軍人に囲まれた状況で陽次に直接声をかけ、挙句人払いされたとはいえ銃を向けた。

冷静に考えると無茶極まりない。


「……はい」


顔を伏せて押し黙る治人。

伝介はその背中を押して歩き出すよう促した。



室内に一歩踏み入れただけで他の部屋とは一線を画することが分かった。

絨毯(じゅうたん)は柔らかいながらも適度に歩きやすさを保ち、調度品も華美ではないが機能性と重厚感を兼ねそなえている。

広い部屋の窓際に大きな机が置かれ、男が座っている。

机の上には1冊の本。

小ぶりの辞書ほどの大きさで、革表紙のそれがすぐに聖書だと分かった。

男は聖書の上にそっと手を置き、宣誓するように口を開いた。


「エルザス・ロートリンゲンは因縁の地。

 普仏戦争、先の大戦、これからも。

 鉱脈はもちろんだが、それ以上にグーテンベルクの遺産がもたらす果実が関わっている。

 聖書物だけではない。

 広告、ポスター、包装……社会のあらゆる場所に実り、もはや社会を動かす歯車の1つとなっている。

 かの地を偉大なるアーリア人の手に取り戻そうとするこの時、君がここを訪れたのは神のおぼしめしというほかない。

 君がキヅキハルトか」


治人は呼吸を整えて一礼した。


「はい、宰相様」


宰相は軍人出身らしい精悍な顔立ちの男だった。

鼻の下には整えられたヒゲをたくわえ、やや落ちくぼんだ目は相手を威圧するような気迫をたたえている。

治人を値踏みするようにながめ、口角をぐっと下げた。


「やはり理解に苦しむ。

 イギリスに渡ったゲルマン人の思想家、マルティン・ルター。

 彼が後世に書き残してまで協力するよう子孫に託したのが日本人だとは」


治人が返答を考えていると、宰相は何かをあきらめるように肩をすくめ手のひらを上に向けた。


「まあいい。本物の君が現れたおかげでローゼルたちの干渉を退けることができた」


あくまでもさりげなく、治人は尋ねた。


「干渉、ですか」

「悪しき因習にとらわれた者たちの妄言だ。

 科学技術の発展を押さえろなどと。

 悪名高き聖書物印刷法にしても、教会と癒着(ゆちゃく)していたギルドのみに印刷技術を扱えると定めた前時代から進歩していないのだ」


やはり。治人は内心でほくそ笑んだ。

印刷の発展を恐れるローゼルたちはこの宰相から(うと)んじられている。


「あなたは科学技術の重要性をよく理解しておられる。

 長い間帝国を操ってきた清貧会のくびきを外れたことはご英断と考えます。

 賢明な指導者が現れた今の帝国にわたしを託せたこと、ルターさん……ルターも喜ぶでしょう」


伝介との打ち合わせを思い出しながら治人はほめた。

見えすいたお世辞だがまんざらでもないらしい。

宰相は表情をややほころばせ、語りだした。


「わたしはこれからもう1つルターの願いを実現するつもりだ。

 ユダヤ人どもの隔離。

 奴らの会堂を焼き、家を壊し、宗教書と金銀を没収し、逆らうものを処刑し、奴隷にする。

 見極めが肝要なのだ。

 民衆のしたたかさと愚かさ、浅ましさ。

 それらを見極めたうえで憎しみに火をつけ、煽り、炎を燃え立たせるのだ」


おそらく治人の返事は求められていない。

表面上は治人に話しかけているが、実際に彼が見ているのは別の存在だ。

もっと大きく、あいまいで抽象的なもの。

彼は観客を必要としない演説をしているのだ。

ここで宰相は余興を思いついたように楽しげな口調になった。


「そうだ、キヅキ氏。

 こういう場合ルターの言い残したきみならどうするだろう。

 きみの家のそばにもう1つ小さな家が建っていた。

 小さな家の奥には宝箱があって、珍しい鉱石や面白い本がたくさん入っている。

 きみはかつて自分の家のようにそこで遊び、宝物も自由に触ることができた」

「閣下!」


扉のそばに控えていた軍人がいさめるように声を上げた。

宰相は手のひらを向けて部下を黙らせ、続けた。


「ところがある時、隣の家の同級生がその小さな家を自分の物だと言いはって君を追い出し、君の家との間に見張り小屋まで建ててしまった。

 見張り小屋は君を追い出すための武器や数日分の食料はもちろん、エアコンや映画スクリーンまでそろった立派なものだ。

 きみはどうしても宝箱が欲しい。

 さて、簡単には壊せない見張り小屋をどうやって突破しよう?」


治人は頬杖(ほおづえ)をつくように右手で右頬を覆い、目を閉じた。

やがてぽつり、とこぼす。


「突破しません」


「どういうことだ?」


「宝物のある家にたどり着けばいいんでしょう?

 見張り小屋を通らない回り道で隣の家に行って、同級生の両親を説得します」


「残念。それはできない。

 君たちの家は木々や川に囲まれているんだ。

 通れるのは見張り小屋のある道だけ」


「通れないとは限らない」


「とても人が通れるような道ではないんだ」


「だったら自動車で行きます」


宰相はうなって考えこんだ。

治人の背後、扉のそばに控えた軍人たちからも驚嘆(きょうたん)の声が届く。

やがて、宰相がクツクツと笑いだした。


「自動車か、なるほど。自動車はわたしも好きだ」


上機嫌で笑い続ける宰相の前で、治人は伝介の助言を思い出していた。


――宰相の好きなマスメディアっていうのは骨組みしかない人形でも大きく映して踊らせることができるんだ。

力をやたらめったら振りかざす奴ほど本当は臆病で認められたがるものなのさ。

相手が何に怯えているのかよく観察することだ。

そこに付け込む隙が生まれる。

きみ自身の能力や性格は関係ない。

ただきみが『キヅキハルト』であることが重要なんだ。

せいぜいでかい虚像を躍らせてみることだな――


仕掛けるならここだ。治人は息を吸った。


「宰相様。ぼくはもう1つ、ルターの遺言を預かっています。

 もしこの神聖ローマ帝国に神の意思を代弁できる指導者が現れれば、補佐するようにと。

 あなたを見ているとその言葉を思い出す」


風向きがまた変わった。

宰相が興味をひかれたように大きく目を開けて身を乗り出す。

治人は震えそうになる声を制御し、ゆっくりと(ひざまず)いて深く頭を垂れた。


「ユダヤ教、カトリック、ピューリタンの過ちを改め、帝国を1つにまとめ、ヨーロッパを統一し得る人物。

 強力な指導力と政治力、高潔(こうけつ)な思想を兼ね備えたあなたこそその器にふさわしいのではありませんか」


無意識のうちにだろう、カップを取ろうとした宰相の左手が大きく震え、倒れたカップから中身が流れ出した。

手伝おうとする治人を手で制し、宰相は引き出しからハンカチを取り出して手際よく拭き取った。

効果の大きさは宰相の表情が物語っていた。

興奮を抑えるように口元が震えている。


「今日の所はこれで失礼します。

 ぼくが申しあげたこと、よくお考えになってください」


うやうやしく一礼し、治人は退室した。

部屋の扉が閉まり、治人はようやく肩の力を抜いた。

右手に隠していた緑白石をポケットに入れる。

演技は得意だ。小さいころからずっとやってきたから。

あくまでも自分の考えで発言したように。

常識にとらわれない天才的な閃きがあるかのように。

宰相の心に刻めればいい。自分という存在が彼の印象に残れば。

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