第36話 コピー機の原型ができる
治人は伝介と共にいったん宿へ戻った。
「勝手に無茶をするのはやめてくれ。
見ているだけで寿命が縮んだ」
伝介は軽くそう叱っただけで、治人の行動を詮索しなかった。
気を使ってくれたのだろう。
聖書暗唱士の会合に軍の幹部は出席せず、伝介の方も空振りに終わった。
伝介は当てが外れてもさほど気にしていないようだ。
治人の存在を帝国の政府に知らせるための次の手を考えている。
その間、手持ち無沙汰になってしまった治人は今までどおりチェスターの助手を務めることにした。
チェスターは連日の夜更かしがこたえているのか、うつむいて眉間をつまんでいる。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、チェスターは隈のはった目を治人に向けた。
「問題ない。ただ、なかなか大変なんだ。
でっかい鳥が頭の右側と左側に居て、それぞれが耳元で勝手なことをわめき続けて混乱するんだよ」
「それかなり問題あると思います」
考えてみれば、突然命を狙われたのだ。
シュネードが来たのはあの一度きりだったが、チェスターにしてみれば気持ちが安らぐことはないだろう。
「宿は変えないんですか」
「ぼくの実験をできるところは貴重だからね。
なんだかんだ言っても追い出さないでいてくれるここはありがたい」
複写機の実験に必要な硫黄化合物には強烈な悪臭が伴う。
確かに場所は限られてくるだろう。
チェスターは窓の外を眺め、ふうっとため息をついた。
「本当はマインツに行きたかったんだ。
グーテンベルク屋敷跡を探したくってね」
「グーテンベルクさん……グーテンベルクの家があるんですか?
シュトラスブルク以外に?」
「シュトラスブルクには一時的に移り住んだだけで、もともと彼はマインツの出身だよ。
グーテンベルクというのはマインツにあった屋敷の名前だ」
咲太郎が納得したように何度もうなずいた。
「ふうん。グーテンベルク屋敷に住んでいたヨハネスさん、ってことか」
「そう。彼の痕跡が無いか調べてみたくなるだろう!?
だけど無理だろうなあ、今の状況じゃ」
「マインツってフランスの防衛線の近くだろ。
体中に穴空けて無言で帰ってくるのがオチだな」
「君のジョークは笑えないんだよ!」
2人のやり取りに形ばかり笑いながらも、治人は釈然としないものを感じていた。
さっきの話、何かが引っかかった気がする。
焦りを覚えるほどの胸騒ぎ。
だが結局その正体を掴むことはできなかった。
それにしても、と咲太郎は治人に顔を向ける。
「知識の海とやらの力で何とかならねえのか?
こいつがマインツまでたどり着けるかどうか」
「それはムリです。何度も試しました」
個人の命運について尋ねても知識の海は無反応だ。
答えて、ふとチェスターの顔に勝ち誇ったような色が浮かんでいることに気づいた。
「どうして知識の海のことを?
話した覚えはあるかい、ハルト」
あ、と治人は声をもらした。
そうだ、咲太郎には伝えていない。
話題にしたのは――
「サクタロウ、君英語分かるだろ。
ぼくが油断すると思ったかい?」
話題にしたのは、チェスターに対してだけだった。
「この際フェアにいこう。ぼくらの目的はおそらく一緒だ。
グーテンベルクの遺産」
「まあな」
目的とは、印刷技術の視察だろう。
チェスターの言葉にしぶしぶと言った様子で咲太郎がうなずいた。
「西洋の技術をどんどん取り入れていた日本にとって印刷技術は魅力的だったし必要なものだった。
本当は前に来たとき持っていくはずだったんだ。
けど当時の清貧会の権力は強くて、許可が下りずもたもたしているうちに先の大戦が始まってな。
シュトラスブルクはフランスに分捕られた」
それが伝介と咲太郎の目的だったのだ。
はるばるこんな異国まで来たのは西洋の印刷技術を取り入れるため。
「ぼくの複写技術も持って帰るつもりかい?」
「手柄を盗むつもりはねえよ。
ただ、お前の複写が無事認められたら優先して取り入れさせてくれ」
「気の遠い話だね。ま、考えておくよ」
商談成立、とばかりに咲太郎とチェスターが握手を交わしたところで、部屋の奥からアルベルトの呼ぶ声がした。
「チェスター、来てくれ!」
垂幕をめくって部屋の奥に入ると、悪臭がひと際濃くなった。
アルベルトは真っ暗な部屋の中心で机に向かっている。
全員が入ったのを確かめてロウソクをともした。
「ほら、見ろ」
アルベルトが嬉しそうに一切れのパラフィン紙を手渡してきた。
はっきりと判読できる文字で『berlin』と記されている。
ようやく安定した複写ができるようになったのだ。
「光を照らす秒数、使用した材料、静電気をためる時間まで。
今回は記録を詳細にとった!
これで帝国にも売り込むことができる」
複写機――コピーの誕生だ。
治人は一息ついてイスに腰を下ろした。
うれしさよりも安どの方が勝っている。
パラフィン紙を食い入るように見つめているチェスターへ、アルベルトが満面の笑みを浮かべた。
「おめでとう。この国で最後にひと仕事できてよかった」
「ほとんどきみのおかげだよ。
よかったら、しばらくここに居ないかい?
今から亡命するのは危険すぎる」
アルベルトは目を伏せて首を横に振った。
「わたし達ユダヤ人に対する風当たりは日増しに強くなっている。潮時だ」
チェスターはしばらく目を伏せたが、やがてノートに挟んだ紙数枚をアルベルトに渡した。
「大学の知り合いのリストとぼくの手紙。
どこまで役に立つか分からないけど、よかったら連絡を取ってみてくれ」
アルベルトは紙を受け取り、明るい笑みを浮かべた。
「いろいろと手配してくれたようだね。心から感謝する、チェスター」
「カールソンだ。チェスター・フロイド・カールソン」
チェスターが右手を差し出し、アルベルトは白衣で右手をふいてから握った。
そういえば自己紹介もしていなかったのだ。
「わたしはアルベルト・アインシュタインだ。
また生きて会うことを願っているよ」
「もちろん!」
イスからずり落ちそうになった治人に構わず、科学者2人は互いの前途を祝福しあった。




