第35話 偽物と本物
今後作中で登場する『エルザス、ロートリンゲン』とは、『アルザス・ロレーヌ地方』のドイツ語読みです。念のため。
おびただしい数の人間が整列していた。
視界が軍服の色である深緑に染まる。
みんな一様に右腕を斜め前に伸ばし、帝国と宰相の威光をたたえていた。
「祖国万歳!」
低い声が幾重にも重なって大きなうねりとなり、広場を満たしていく。
「すごい熱気ですね」
隣の伝介と話すにもいちいち声を張り上げなければならない。
伝介は周囲の熱狂とは対照的に冷めた目で辺りを観察していた。
外国の賓客をもてなすための歓迎式典だ。
この後にある聖書暗唱士との会合に伝介が参加するということで、治人は連れられてきた。
うまくいけば政府の中枢に紹介してもらえるそうだ。
今は戦争中ということで式典は簡略化されているそうだが、兵士たちの熱狂は十分だった。
「今の所負けなし。
対外的には戦争をやめるようなことを言っているらしいが、エルザスをあきらめてないとおれは思う」
「エルザス?」
「フランスとの国境のことだ。聖地シュトラスブルクを抱える地域」
エルザス、シュトラスブルク。治人は復唱する。
「シュトラスブルクの近郊が聖書の一大産地だってことは前に言ったな?
先の大戦でフランスに奪われてしまったんだ」
この兵士たちはシュトラスブルクを奪還するためにいるのだ。
遠い。ずいぶんと遠ざかってしまった。
あの時目の前にあって、実際に触れ、グーテンベルクたちと共に完成を喜んだ機械。
兵士の歓呼と共に1人の男が壇上へ上がった。
中心に備えられたマイクの前に男が立つと、静寂が広がる。
その静寂を十分に味わってから男が演説を始めた。
「宰相様の得意芸だ。
あの演説で金持ちの急進派から熱烈な支持を受けて、のし上がっていった」
伝介が耳打ちしてきた。
演説の内容は兵士たちを鼓舞するものだった。
「今こそアーリア人の国を創造する時。帝国の威光を世界に示せ」
治人にとって意外だったのは、演説がごく理論的で筋が通っていることだ。
惑わされるわけではない。
納得と共感を呼ぶように緻密に言葉を選んでいる。
「幻想さ。
古代ローマ帝国。ユーラシア大陸の統一。
こいつらが長い間くすぶらせていた夢を実現しようって誘われて、みんな巻き込まれちまった」
伝介が小声でそうささやく。
治人は改めて宰相の姿を眺め、あることに気付いた。
緑の軍服の波、最奥に宰相。
その背後に並ぶ軍人の中に異質な存在が混ざっていた。
明るい茶色の髪と瞳、少年の面差し。
治人は遠く隔たった彼を見据えた。
陽次。
このまま伝介が面会の手はずを整えるのを、距離が縮まるのを待つのか。
ローゼルたちはすでに国の名すら異なる、いびつな歴史を作り上げて集大成を待つばかりなのに。
治人は緑の波に向かって一歩踏み出した。
「先に宿へ帰ってください」
一方的に告げ、伝介の制止を無視して治人は深緑の人波へ分け入った。
『殻』の影響だろうか、怪訝そうにはされるものの、誰にも咎められることなく治人は演説台の真横に着いた。
すでに演説は終わり、宰相と側近も退席した後だ。
陽次も側の者に声をかけられて去ろうとしていた。
「待て、陽次!」
治人の呼びかけに陽次を含む数人が振り返る。
軍服の男たちが治人を囲もうとし、戸惑ったように足を止めた。
治人に見覚えがあったのだろう。彼らの中では。
「ああ。そいつは大丈夫」
陽次の一言で警戒が解かれる。
左右に分かれて直立する軍人の間を悠然と彼は歩いてきた。
「よく来たな、ハル」
「今はきみがハルトだろ」
治人は冷たく切り返す。
陽次はキョトンとし、すぐに「そうだったな」と苦笑してみせた。
治人は式典が行われた建物の一室に通された。
案内してきた軍人に陽次が声をかけると、軍人は敬礼して部屋を出た。
話をしたいと言っていたから人払いしたのだろう。
治人は部屋を見分した。
陽次にあてがわれた控え室らしく、1人がけのソファーが窓辺に置かれている。
「シュネードならいないぞ」
陽次の言葉で、自分が無意識のうちに人の気配を探っていたことに気付いた。
陽次のこういう掴みにくいところが苦手だ。
自分のやりたいように行動するくせに目ざとい。
単純なお人よしの割に人を殺すような組織とつながる。
治人は懐の中の物を取り出した。
焦点が狂わないようにしっかりと握る。
「ぼくのスマホを返せ」
陽次は自分に突き付けられた拳銃を見て、「おお」と目を見開いた。
それだけだった。
「悪い。あれ無いと不便なんだ」
謝罪に深刻な響きはない。
借りっぱなしの文房具やマンガのことを指摘されただけのような。
「ていうか、よく今までスマホ無しでやってこれたな。
すぐに来ると思ってた」
銃を前にして、陽次はごく普通に歩いてきた。
「それ。撃てるか?」
陽次が促す。
治人は固まってしまった。困惑したのだ。
陽次の方から一歩一歩近づいてくる。
あまりにも自然な足取りで、それでも銃口は陽次を向いていて。
その異様さに治人は飲まれた。
握手できそうなくらいの距離になり、陽次は息を吸った。
と、同時に治人の手を払う。
「つっ!」
反応が遅れた治人は銃を落とす。
しびれた手首を陽次がつかみ、治人の背後に回ってもう片方の手首もとらえて背中にまとめる。
「――とまあ、こんなもんだ」
陽次はパッと手を離した。
拘束から解放された治人は呆気にとられた。
「何で?」
このまま捕らえられると思った。本気で覚悟したのに。
「お前が納得しなきゃ意味ね―じゃん。
一緒にやってほしいんだよ、おれは」
陽次の言葉が信じられなかった。
これだけ勝手な行動をしておいて何が納得だ。
「満足か?たくさんの人を、国を、歴史を動かせる立場について。
ぼくの名前まで騙って」
「おい。何か勘違いしてるだろ。
おれはちゃんと自分の名前を言った!
それを周りの奴らがルターの予言だとか勝手に騒いで、ローゼル神父がそれに乗っかって、こんなことになったんだ!」
「キヅキハルトって呼ばれてるじゃないか!」
「ファーストネームだって!」
意味が分からず、反論が止まった治人に陽次が言い募る。
「ファーストネーム、ファミリーネーム、間にミドルネームってあるだろ。それだよ」
「どれだよ!」
「だから!おれは音羽陽次って名乗ったのに、勝手に周りがくっつけちまったんだ!
キヅキハルト=オトワ=ヨウジって」
治人はあ然と立ち尽くす。
真っ白になった頭でようやく絞り出した声は素っ頓狂なほど高かった。
「はああああ!?ふざけるな!」
「ふざけてねえよ!」
「ありえないだろ!」
「あったんだよ実際!」
陽次は手ぶり付きで大きく叫んだ後、我に返ったように声を小さくした。
「勝手に周りが決めたんだ。
ルターの書き残した人物と特徴が同じだ。
しかもエルザス・ロートリンゲンの奪還を計画していたこの時期。
彼こそはキヅキハルト。
聖地シュトラスブルクを再び治めろっていう神のおぼしめしだって」
自分と陽次の外見を一緒にされたことはひとまず置いておいて。
ルターの書物を利用し、偽名を使って組織に取り入る。
確かに陽次の思考回路とは真逆だ。
それでも。
「それでも、周りの誤解とローゼルの策に乗ったのはきみの判断だ」
「うーん……まあな」
「自分が何をやっているか分かってんのか。
歴史が変わるんだぞ!違う、もう変わってる。
無くなったはずの国がここにある。
生まれるはず、死ななかったはずの誰かが犠牲になっていくんだ」
「だから?」
「陽次!」
「ずっと考えてた。
何でおれたちだけ、こんな変な目に遭ってるんだろうって。
突然違う時代や国に飛ばされて、いろんな人が死ぬところを見て。
でも多分意味なんかない。たまたまだ。
じゃあ何ができる?何をすればいい?」
陽次は目を伏せ、決意を込めるようにこぶしを固く握った。
「グーテンベルクさんが死んだとき、もう歯車は外れているんだ。
だったら、おれは変えたい。
じいちゃんがあんな死にかたしなくて済んだ世界に。
誰かが犠牲になるって言ったけど、その代わり誰かを救えるかもしれない」
治人の頭をよぎるのは、懐かしい家に集う黒衣の人々。
陽次の祖父母、源治と桜は自動車事故により亡くなった。
先祖から継いだ印刷会社が倒産し、気晴らしにと無理に出かけた結果の運転ミスだった。
陽次は言葉を続ける。
「もう変わってしまった以上は、技術を管理してできる限り犠牲が少なくて済む方法を考えているんだ。
ローゼル神父は最善を尽くしてる」
馬鹿げている。
それでも治人には笑うことができなかった。
あの時。家に入ることができず、黒衣の人々を眺めていた時、何度も思ったからだ。
自分がもう少し粘っていたら工場はつぶされず、源治と桜も失意の日々を送らずに済んだのではないかと。
過去に戻れたら何としてでも2人の死を止めたのにと。
「もう気付いてるだろ、ハル。
神様だとか国家だとか民族だとか、口ではいろいろ言っているけど……
結局みんなやりたいようにやってるだけだ。
その意思に巻き込まれた人が犠牲になる。
お前も変な我慢はやめて、お前らしくやってみろよ、ハル」
陽次が差し出した手を治人はぼんやりと見つめた。
陽次の言うとおりだ。
治人は現代で自分の思うように行動していた。
グーテンベルクと会ってから、調子が狂っていたけれど。
治人と陽次が取り戻したいものは同じだ。
源治、桜と過ごした時間。
だったらなおさら。
「協力するわけにはいかない」
治人は陽次に背を向け、部屋の扉へ向かって歩いた。
「ハル!」
陽次の呼びかけを無視し、扉を開けると軍人が入れ違いに入ってくる。
「お取込み中申し訳ありません。
ハリー様、デンスケ様という方がお探しのようですが」
伝介がここまで探し当ててくれたらしい。
関係者しか入れないため入り口で足止めされたのだろう。
「来るな。これ以上話すことなんか何もない」
追いかけて来ようとした陽次を振り返ってけん制する。
陽次は一歩踏み出した姿勢で固まり、苦笑した。
「そうか。まあ、仕方ないな」
いずれ分かってくれる、という含みを持たせたその言い方が気に食わなくて、治人は必要以上の力を加えて扉を閉めた。




