第32話 チェスター・F・カールソン
チェスターがビンから黄色い粉を出し、金属の板にまんべんなく塗っていく。
「この硫黄を亜鉛板に付けるんだ。聞いているかい?」
治人はうなずき、口元を覆う布の上からさらに手で鼻を抑えた。
マスクを勧められた理由が分かった。
実験用の硫黄化合物のビンから悪臭が漏れて部屋中立ち込めているのだ。
今回使う粉末の硫黄はさほど匂わないのが幸いだった。
薄暗い室内、ランプの明かりの中で治人はチェスターから新技術の説明を受けていた。
チェスターは慣れているのかマヒしているのか、そつなく作業をこなしていく。
実験を見学しに来た咲太郎は距離を置いてながめるだけだ。
それともう1人。治人は長机の端へ目をやった。
視線の先には50~60歳くらいの男が立っていた。
遠足前の子どものようにうきうきと実験道具を並べている。
怪訝な顔で見守る治人と咲太郎に、チェスターは紹介した。
「彼はアルベルト。この宿の住人だよ。
手伝ってくれるそうだ」
先日廊下をのぞいていた男だ。
詮索するなと注意されたが、向こうからやってきた場合どうすればいいのだろう。
「ああ、わたしのことはかまわずに」
アルベルトと紹介された男はそう断った。
こちらもできればそうしたい。
はあ、と返すと、アルベルトは突然目を大きく見開いて顔をぐいっと近づけてくる。
「きみとはどこかで会った気がするな、少年」
「はあ」
「わたしに見覚えは無いかね」
「はあ」
「まあいい。
光と重力を超えた場所のどちらが先で後か、大いなる知識の前にはムダな議論だ」
アルベルトは何やら勝手に納得し、『遠足の準備』を再開した。
そっとしておいた方がよさそうだ。
アルベルトが知り合いだと思い込んだ原因は分かっている。
知識の海の殻。
「なるほど。こうやって知り合い認定されるのか」
治人が振り返ると、心底楽しそうなチェスターの視線とぶつかった。
チェスターはにっこりとほほ笑んで、
「硫黄を塗った亜鉛版と、動物の皮。
じゃあハリー、頼むよ」
茶色い皮と分厚い板を渡す。
治人が疑問を口にする前にチェスターはてきぱきと指示を出し始めた。
「この板を、革を使ってこするんだ。
ひたすら、指紋もなくなるくらいにこすり続けてくれ」
「何でそんなことをぼくが?」
「いい質問だ。いいかい?
ぼくが開発した技術は硫黄の光伝導性を利用した画期的なものだ。
静電気をしっかりためた金属板に原板を通して光を当てると、文字型のマイナス電荷の像ができるからその部分に色の付いた粉末をパラフィン紙に」
「さっぱり分かんねえよ」
咲太郎が治人の言葉を代弁した。
すると『遠足の準備』を終えた男が突然流ちょうに語りだした。
「要するにこういうことだろう。
エジソンの開発した複写機は写真の原理を応用しているが、複写物が渇くまでに時間がかかるのが難点だった。
それに対し、きみのは光伝導性を利用して像の形の電荷を負った金属板に色のついた粉末を吸着させることにより乾燥した状態で印刷でき、将来的には連続して素早く複写が可能になる。
違うか?」
呆気にとられる治人と咲太郎に、ほらね、とチェスターは肩をすくめた。
複写の原理は、何度も説明を受けた自分たちですらおぼろげにしか理解できない。
それを目の前の男は、こんがらがった糸の一点をあっさりほぐすように、すらすらと述べてみせた。
それ以上に驚くのは、男が心底楽しそうに目を輝かせていることだ。
体をそわそわと動かして、楽しくて仕方ないのが伝わってくる。
アルベルトは自分のバッグから白衣を取り出した。
目に留まったのは左胸に付いたマーク。
角が6つの黄色い星型の布がついていた。
アクセサリーかと思ったが、それにしては生地がくたびれている。
咲太郎が目を見開いた。
「黄色の六芒星……お前、ユダヤ人か」
「ああ。
奴らが服にもマークをつけるよう宣伝しているそうじゃないか。
望み通りしっかり入れてやった!」
アルベルトはいたずらっぽく笑った。
「亡命の足止めを食っているうちに、面白いことに取り組んでいる若者に出会った。
これも何かの縁だろう」
一方で治人は周りに気付かれないようポケットから緑白石を取り出して耳に押し当てた。
チェスターやアルベルトの理屈が分かったわけではない。
ただ、思い当る節があった。
速やかな複製、乾いた紙への転写、光を利用。
治人は彼の名を緑白石に尋ねた。
すぐに答えは返ってきた。治人の予想通りの。
「あなたの発明はやがて世界中にいきわたる」
治人はそう告げた。
チェスター・フロイド・カールソン。
彼はコピー機の開発者だ。
「会社、学校、商店、個人の家にも。
あなたの作った仕組みを使った機械が置かれ、グーテンベルクの印刷機以上に身近な存在になる時がやってくる」
「ありがとう!
今までかけられたどんな気休めよりもずっと励みになる一言だ!」
治人とやや大げさな握手を交わしたチェスターは、もう一方の手で再び布切れと板を差し出す。
そうだ、論点がずれていた。
「複写の仕方の説明じゃなくて!
どうしてぼくがそれをすることになるんですか」
「驚いた。きみに選択権があると思っているのかい?」
「え?」
「知識の海を渡ってきたものは殻をかぶるそうだね。
知り合いでも何でもないのに、そばにいて当然だと周囲に思い込ませる『そこにいるべき者』としての殻。
きみの不思議な雰囲気、ゲルマン語も英語も達者に操るくせに読み書きはできないこと。
そのせいじゃないのかい?
ぼく自身きみのことをぼくの知り合いだと何となく思っていた。
しかし一度殻のことを思い出してしまえばきみはただの居候だ。
結局きみは、変なアメリカ人の通訳としてここに居る資格を得ているんだよ。
何か反論は?」
治人は息をのみ、考える前に浮かんだ疑問を口に出していた。
やはり聞き間違いではなかった。
「何で知識の海のことを」
言った後で、しまった、と思った。
チェスターの言葉を暗に認めたことになる。
チェスターは満足そうにうなずいた。
「ぼくは渡ってきたわけじゃない。
ただ、教会のローゼル一派はそんな連中を多く抱えているみたいだね。
知識の海の研究はタブー視されているが、それでもアメリカで研究しているやつは少なくないのさ」
「おい、高速の英語で話されても分からねえよ、何の話だ」
咲太郎が置いてきぼりにされた子どもみたいにムスッとしている。
いつの間にか英語で話していたらしい。
「失礼。というわけでよろしく頼むよ、ハリー」
もはや拒否することはできず、治人はあきらめて手伝うことにした。
金属の板を動物の皮でこすって静電気をためる、それの繰り返し。
「全然足りない。もっとだ」
突き返されて、治人はさらに早くこする。
「ぼくは一体何をやっているんだ」
今回もそんな疑問が頭をよぎったが、とにかく今は目の前の仕事をこなす。
何度目かに渡して、ようやくチェスターは満足した。
金属板の上に文字が数個書かれた原稿を重ね、光を当てる。
そしてチェスターは黒っぽい粉が入ったビンを取り出した。
「ここで胞子を振りかけると、静電気の残るマイナスの部分につくから、息を吹いてしっかり付いていない胞子を飛ばす。
これをパラフィン紙に写して熱を加えると、乾いた複製の出来上がりだ!」
「けっこう時間がかかるんですね」
「何だって!?」
治人の感想にチェスターは心外そうな声を上げた。
つい現代のコピー機と比較してしまった。
パラフィン紙とは蝋を塗った紙のことで、ワックスペーパーの一種のようだ。
チェスターは紙をあぶり、表面がうるんできたタイミングを見計らって火から離した。
やがて蝋は固まり、文字をかたどった粉が定着する――はずなのだが。
「読めません」
「読めねえなあ」
「わたしの字よりひどい」
治人、咲太郎、アルベルトの順に回された完成品は、アルファベットの輪郭がかすれ、とても判読できる状態ではない。
「謄写版印刷機を開発したかのトマス・エジソン曰く!
『失敗したわけではない。それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ』。
良い勉強になったね、みんな!」
強烈な悪臭の中、チェスターの笑い声だけが高らかに響いた。