第31話 宿の住人
話がひと段落したのを見計らい、治人は先ほどから気になっていたことを口にした。
「変な匂いがしませんか」
先ほどから生ゴミを濃縮したような匂いが辺りに漂っている。
「本当だ、臭い!」
咲太郎が鼻をつまみ、伝介も手の甲を鼻に当てる。
時間が経つにつれ匂いはどんどん濃くなり、たまらずに3人は廊下へ出た。
治人の部屋のすぐ前に下へ続く階段がある。
ここは2階らしい。
廊下には一定間隔で扉が並んでいて、ここが宿屋であることを示していた。
匂いは一番奥の部屋から来ているようだ。
そこの扉を女性が叩いている。
「ちょっとあんた、ひどい匂いだよ!何とかならないの?」
「どうした、女将?」
伝介が声をかけると女性は少しほっとしたようにため息をついた。
「ああ、デンスケ。何回も注意しているのにまたこれだ。
何とかならない?」
異臭について口出しできるということは、この女性が宿の管理人なのだろう。
年齢は伝介や咲太郎と同じくらい。
いかにも宿の女主人といった恰幅のいい金髪碧眼の女性だ。
伝介が近づくと、部屋の扉が開いて中から青年が現れた。
黒髪に黒目の柔和な顔立ちだ。
「やあすまない、マダム。
ドアの前に新しくカーテンをつけたが効果が無かったようだ」
そういえば男の後ろにくたびれた布がかかっている。
ずいぶんと大ざっぱなカーテンだ。
「カーテンよりあんたが変な実験をやめてくれれば効果あるんだけどね」
「残念だがそれはできない。家賃も今以上は払えない。
気を付けるよ」
特に反省の色もなく青年はまくしたてた。
女主人もそれ以上は責めず、まったく、と呆れて立ち去り階段を下りていった。
「やあ、サクタロウにデンスケ。実験を手伝ってくれるのかい?」
「くせえんだよ」
咲太郎が鼻をつまみながら答えた。
チェスターは「オオ」と声を上げ後ろ手で扉を閉めた。
3人は知り合いのようだ。
伝介が治人に小声で教えてくれた。
「こいつはおれたちの乗っていた船に荷物として乗り込んでいたんだ」
「それっていいんですか」
「よくはない」
「ですよね」
「本当は船員に突き出そうと思ったんだが……」
そこで伝介は口ごもり、困ったように顔をしかめた。
「咲ちゃんが気に入っちまってな」
「だってよお。面白いだろ、こいつの話。
全く新しい印刷法を開発するって言ってるんだ」
「新しい印刷法?」
治人が思わず反応すると、
「興味あるかい!?」
青年がぐっと近づいてきた。
「正確には印刷じゃなくて複写だ。
再現実験さえ終われば後は売るだけの!」
「その再現実験に何日かかってるんだ」
伝介のつっこみを青年は無視して治人に一礼した。
「まだ名乗っていなかったね。
ぼくはチェスター。新しい複写技術を研究している者だ。
人手が足りなくてね、よかったら手伝ってみないかい?」
唐突なチェスターの申し出に咲太郎がのっかった。
「そうだ、行く所もないんだったらこいつの助手代わりをするのはどうだ?
おれも伝ちゃんもゲルマン語しか話せないんだ。
英語が話せる人間が身近にいた方がこいつも喜ぶ」
どこかの時点から英語で会話していたらしい。
緑白石の力を使って翻訳していたので、きっと流ちょうにしゃべっていたのだろう。
治人はうなずいた。拒否する理由はない。
ましてや目の前の青年――チェスターの目的が新しい印刷の開発ならば。
治人が名乗ろうとした瞬間、伝介が強引に割って入ってきた。
「こいつはハリーだ」
「そうか。初めまして、ハリー」
固まってしまったのは一瞬だけ。
治人は動揺を隠して笑みを浮かべ、握手を交わした。
「よろしくお願いします、チェスターさん」
「チェスターでいい。
汚れてもいい服やエプロンが用意できたらここに来てくれ。
じゃ、後で」
一方的にそう告げると、チェスターはいそいそと部屋に戻った。
治人の頭を占めるのは、先ほどのやり取りの理由。
伝介は悪びれる様子もなく言った。
「きみはうかつに名乗らない方がいい」
訳アリの連中が集まるこの宿で姓は教えない。
伝介がそう言っていたのを思い出した。
「もう1人いますよね」
治人は隣のドアを指差した。
半開きになった隙間から額と両目がひょっこりと覗いている。
大人の男のようだが、仕草の中に子供っぽさがある。
目が合った途端にドアは閉じてしまった。
「あの人は?」
「こちらからは必要以上に働きかけないようにするんだな」
伝介はそう言ってさっさと自分の部屋らしき扉を開けて中に入ってしまった。
咲太郎もそれに続く。
姓は名乗らず、お互いは詮索せず。
もしかしたら伝介は治人の作り話にも気付いているのかもしれない。
隣の男の部屋からしきりに物音がし始めたが、治人は気にしないようにして部屋へ戻った。




