第30話 先祖に会う
この章では歴史上の出来事や実在した人物が登場しますが、史実とはかけ離れています。ご了承の上お読みください。
カトリンの体が遠ざかっていくのが見えた。
伸ばした手の先で扉が音もなく閉まる。
ノーシスに引っぱられて治人は透明な地面に倒れこんだ。
治人をはじき出した扉が海に沈んでいく。
先ほどまで自分の居た、カトリンの暮らす世界が。
「放して」
乾いた声で告げる。
ノーシスは聞き入れずに治人の腕をしっかりとつかんでいた。
「カトリンはすでに沈んでおる。
そなたが海に入った所で引き戻せはせぬ」
頭では分かっていたことでもノーシスに淡々と突き付けられると、胃を締めつけるような痛みが走った。
「飛び降りたりしない。だから放してくれ」
ようやくノーシスは腕をほどいた。
それでも顔は強ばったままだ。
まさかとは思うが……心配しているのかもしれない。
治人はあおむけに寝転がった。
全身を脱力感が覆い、思考は散らばってまとまりそうにない。
それなのに頭の中心がやたらとざわつき、焦っている。
早くしなければ。
治人は自分の奥深くから響く警告を無視し、休息したがる本能に従った。
波の音が耳をくすぐり、潮の香りが漂う。
視界を埋めるのはめまいを覚えるほどの青空。
海へ沈んでいったカトリンの笑顔がよぎる。
治人は目を閉じる。
もうどうでもいい。早く追え。
相反する二つの声。
「あやつが何のためにそなたをここへ返したと思っておる」
カトリンのことだ。
彼女は確かに扉の向こうから治人を押した。
そうでなければきっと自分も彼女と一緒に沈んでいただろう。
治人は床から重い体を起こし、ノーシスに尋ねた。
「次に行くのは西暦何年だ」
「1940年じゃ」
ノーシスが扉の1つを指差す。
その扉からは淡い光が漏れていた。
これまでと比べて格段に光が弱くなっている。
それだけ元の歴史に近づける可能性が減った、ということだろう。
「ずいぶん間が空くんだな」
治人は頭の中で計算した。
前のマルティン・ルターの時代が1525年。
400年以上経っている。
「そなたのおった現代に歴史の流れを近づけるにはこれが最後の機会じゃ。
ローゼルは印刷技術を掌握することに成功した。
数世紀にわたってそなたの介入を許さぬほどに」
「どういうこと?」
「詳しい実態は直接行って確かめるがよい」
これ以上詮索してもムダらしい。
治人は最後に1つ、どうしても確認したいことを尋ねた。
「陽次は、ローゼルたちについて行ったのか?」
「うむ……」
そうか、と治人は簡潔に答えた。
ならばあえて探し出さなくても、治人が印刷にかかわる中で必ず再会するだろう。
治人はドアを開けた。
かすかな光が治人を包み、眠りに落ちるように少しずつ治人は意識を手放した。
意識が徐々に浮き上がり、体の感覚がよみがえる。
わずかに動くと体を包む柔らかいものも一緒に動き、木材のきしむ音が響いた。
ベッドの上に寝かされているのだ。
すぐそばに誰かの気配がする。
ここがあの名も知らぬ村の教会だったらいいのに。
気配の正体がカトリンだったら。
――そんなはずはない。
治人は重いまぶたを開けた。
ぼやけた視界が焦点を結び、自分をのぞき込んでいる人物と目が合う。
「おい。気づいたみたいだ、デンチャン」
日本語だ。治人は驚いて起き上った。
年は50代半ばくらい。濃い茶色の髪の男だ。
がっしりした体と無精ひげのせいでがらが悪くなりそうなのを、明るい瞳と愛嬌のある表情が中和している。
「お前、日本人だよな?
どっかで会った気がするんだが、悪いけど忘れちまった」
『そこにいるべきものとしての殻』。
おかげで目の前の男は全く警戒していない。
ふと、この男は顔見知りでなくとも人をむやみに警戒しなさそうだ、と思った。
日本人同士ということも大きい。
そこまで考えて疑問がよぎった。
日本人?
ならば自分がノーシスに案内されたここは一体――
「ここはどこですか」
「自分で覚えてねえのか?ベルリンだよ。
この宿の前に倒れていたんだ」
治人はこっそり布団の中を探った。
ポケットの緑白石を探し当てると、目を閉じてベルリン、と尋ねた。
治人の頭の中に地図が浮かび上がる。
神聖ローマ帝国北部、シュトラスブルクよりずっと北東にある街だ。
やはりここは神聖ローマ帝国だ。
なら、目の前の日本人はなぜここに居る。
ガチャッとドアが開いてもう1人男が入ってきた。
年はやはり50代半ばといったところ、ややまとまりのない黒髪で背が高い。
口にはタバコをくわえていた。
「目を覚ましたか」
黒髪の男は治人をちらっと見て、親指で茶髪の男を示す。
「サクチャンに感謝するんだな。
君がこの宿の前に倒れてたのを運んだんだ」
「ありがとうございます。ええと……」
2人はああ、と顔を見合わせた。
入り口近くにいた黒髪の男がそれぞれに指をさす。
「おれは伝介。こっちのちっこい方が咲太郎だ」
デンチャン、サクチャン、とはお互いの呼び名らしい。
困惑した治人に気付き、伝介が補足する。
「この宿には訳ありの連中が集まっている。
姓はなるべく名乗らないのさ。十分だろ」
よりによって怪しい場所に拾われてしまった。
宿の流儀に従って「治人です」、と短く名乗ったが、当然それだけで話は終わらない。
伝介と咲太郎は治人が留学生だと勘違いしているようだ。
その思い込みをそのまま利用させてもらうことにした。
近くの学校へ留学したが、大きなトラブルに巻き込まれてしまい、旅に出たところで力尽きて宿の前に倒れてしまった。
ほとぼりが冷めるまでどこにも戻ることはできないのでしばらくここに置いてほしい。
一通り話を作り終えると、今度は治人が尋ねた。
「2人はなぜここに?」
「おれたちは、その」
「仕事だ。伝ちゃんは聖書暗唱士の資格を持っているからな。
何十年か前にも2人で留学に来たことがあるんだ」
何か言いかけた伝介の前に咲太郎が割って入った。
伝介はあきらめたようにため息をついて口を閉じる。
聖書暗唱士、と治人は復唱すると、咲太郎が付け加えた。
「キリスト教の聖書を暗唱できる人のことだよ。日本ではまだ珍しい」
「そんな資格があるんですか」
「聖書物印刷法って知らないのか?」
治人が首をかしげると、今度は伝介が淡々と説明し始めた。
「正しくは『聖書物印刷にかかる規則』。
聖書をはじめとする宗教書を印刷できるのは教会の定めた会社に限るという決まりだ。
まあ、新教のイギリス、アメリカあたりじゃ闇会社がやりたい放題やってるが……
一応公式に出版できるのはカトリック教会が認めた印刷工場だけだ」
マルティン・ルターらがシュトラスブルクを離れたのち、カトリックは大規模な改革を行った。
免罪符の販売を止め腐敗を正す一方で聖書を大量に作り、外国で活発に布教するようになった。
中でも印刷機の発見されたシュトラスブルクは重要な宗教都市であり聖書の一大生産地になっている。
一方、イギリスに逃れたルターは現地の教会と組んで改革を起こし、やがて新大陸にも新教は伝わっていった。
聖書物印刷法は新教にまで手が回らず、闇会社が現れては教会が取り締まるというイタチごっこを続けている。
「教会の中で力を持っている一団が発行部数を管理してきたんだが、戦争に負けて今の宰相に変わってからそいつらの力が弱くなったんだ。
おかげで外国の聖書暗唱士とも交流できるようになった」
教会の中で力を持っている一団。
その答えを治人は知っていた。
「清貧会、ですね」
伝介がわずかに目を見開いた。
「何だ。そんなことは知っているんだな」
まあ、とあいまいに治人はうなずいた。
長話に飽きたのか、咲太郎が立ち上がって大きく伸びをする。
「さっさと交流会と仕事を終わらせるぞ。
早く帰ってゲンジの顔を見てえよ」
伝介がわずかに吹き出した。
「すっかり孫バカになっちまったな、咲ちゃん」
「うるせえ。いつ死んでもおかしくねえ年なんだ。
お国のためとはいえ、ジジイに大仕事を押し付けやがって」
治人は息をのんだ。今何と言った?
「2人とも。よかったら名字も教えてもらえませんか」
伝介が口を開く前に咲太郎が言った。
「おれは音羽咲太郎。伝ちゃんってのは木月伝介だ」
「おい!」
「同じ日本人同士で固いこと言うなよ、伝ちゃん」
伝介が顔をしかめるが、咲太郎は笑っているだけ。
伝介はあきらめたようにタバコの煙とため息を吐き出した。
「木月?音羽?」
治人は不意に思い出した。
陽次の祖父である源治が話していなかったか。
源治の祖父、つまり陽次の高祖父と治人の高祖父が親友で、外国から印刷技術をいち早く取り入れたのだと。
彼らの立ち上げた会社を源治は継いだのだと。
特に名前を隠す理由はないと思った。
「ぼくは木月治人です」
2人とも驚いて顔を見合わせた。無理もない。
外国でたまたま出会った日本人の名字が一方と同じだったのだ。
咲太郎が矢継ぎ早に尋ねてくる。
「おまえ、それは何かの冗談か?」
「いいえ。偶然同じでした」
「偽名じゃなくて本名なんだな」
「ええ」
「はああ。不思議なこともあるもんだな」
咲太郎がひとしきり感心している。
伝介も表面上は冷静だったが、右手を口の前に持ってきてタバコが無いことに気付き手を元に戻した。
たった今、それ以上に不思議で驚くべきことが発覚したのだが、2人には話さない方がいいだろう。
彼らは陽次と治人の先祖だ。




