第29話 それぞれの決意と決別
活字を受け取ったローゼルは信者たちを従えて道の向こう側へと渡った。
通りを挟んだ向かい側には墓地が広がっている。
放心して倒れたままのカトリンは彼らの背に呼びかける。
「ローゼル神父。ザシャ」
ローゼルは半身だけ振り返った。
「あの日。
村が襲われ、教会が焼かれ、それまで積み上げてきたものがすべて崩れた日。
扉が現れたのは神のご意思だと感じた。
印刷の可能性をつぶすこと、それがわたしの新しい望みとなった。
カトリン。おまえのように悲しい思いをする子を二度と生み出さないために」
ローゼルはカトリンへ優しくほほ笑みかけ、再び歩きだした。
墓標の1つ、元グーテンベルクの作業小屋の前で立ち止まったローゼルは扉の金具を手に取った。
「カトリンの『I』と『L』、それにヨハネス・メンテリンの元に残された活字。
間違いないな、ヨウジ」
「そう。印が付いていたのは『E』2つと『N』3つだった」
陽次の同意にローゼルは満足そうにうなずき、ひものついた銀色の棒を次々とカギ穴へ差し込んだ。
あれは弟子の証。メンテリンの家に置いてあったものだ。
治人の隣でルターがつぶやいた。
「女性の名だ。E-N-N-E-L-I-N」
エネリン。
グーテンベルクの元婚約者、エネリンも錬金術師だと言っていた。
そしてカトリンの先祖は代々錬金術を研究していたという。
グーテンベルクがカギを託したのは、メンテリンともう1人。
婚約者だったエネリンだ。
おそらくカトリンは彼女の子孫。
そしてメンテリンがグーテンベルクから受け継いだカギをかけて地下室を封印した時、陽次はすぐそばで見ていた。
きっとメンテリンが残した『弟子の証』を見つけてすぐこのからくりに気付いていたのだ。
扉が開かれた。
印刷機へと続く階段が100年ぶりに白日の下にさらされる。
信者たちが我先にと階段を下りて行った。
「カトリン。今のうちに」
治人がささやき、放心していたカトリンは表情を引きしめた。
彼女は唯一拘束されていない。
すばやく腰の荷物袋に手を伸ばし、起き上ると同時に取り出した球を地面へ投げつけた。
濃厚な煙幕が一帯を覆う。
周りの視界が奪われている間にカトリンはルターと治人の拘束を解いた。
ルターと治人は混乱に紛れて走り出す。
カトリンは――立ち止まっていた。
「何をしてるんだ、早く!」
治人が呼びかけると、カトリンは肘の内側を手でぎゅっと握った。
「ハルト。どうしたらいいか分からない」
「逃げるんだよ!」
カトリンの手を掴み、治人は強く引いた。
彼女のショックも分かるが、今の状況でローゼルやシュネードとまともな話ができるとは思えない。
それに、と治人は苦い気持ちで考える。
陽次も行ってしまった。ここに留まる理由はない。
カトリンは戸惑いながらもちゃんと自分で走り出した。
煙の奥で、地下室から機械を引き上げる音が聞こえた。
運河に渡された名もない小さな橋。
その1つに治人たちは潜んだ。
徐々に日が暮れていく。
治人は震える呼吸を整えるのが精いっぱいだった。
ひどい恐怖にさらされていたのだと、今さら自覚した。
隣ではルターが薄汚れた壁にもたれ、両手で顔を覆った。
「マルティン・ブーツァー。
トマス・ミュンツァー、そしてロベール・エティエンヌ。
腐敗を正すまでに、わたしはあと何人の若者を巻き込んでいくのだろうな」
「ルターさん」
治人がかすれた声で呼びかけると、ルターは何に対してかうなずいた。
「分かっている。今の教会にたてつくとはこういうことだ。
それでもわたしは――神の言葉に忠実でありたい」
ルターは姿勢を正し、ハルトと正面から向かい合った。
「グーテンベルクの遺産が敵の手に渡った今、わたしはこの街から手を引く。
キヅキハルト。遺産の再生を目指していた君には申し訳ないが」
「そんな!」
抗議めいた声を上げた治人に、ルターは首を左右に振った。
「警備はこれから厳しくなる。
マインツ大司教の訪問前にこの街を抜け出した方がいい」
エティエンヌの目的は印刷機によって商売を広げることだった。
それに対し、ルターは最初から自分の主張を広め教会の姿勢を正すことを目的としていた。
命を懸けてまで印刷機にこだわる必要はない。
この違いこそが、エティエンヌが殺されルターが見逃された理由だろう。
肩を落す治人にルターは言い募った。
「ただし芽を絶やすつもりはない。
たとえここで踏みつぶされても、いずれ立ち上がってくる芽を守る。
それがエティエンヌへの手向けだ。
何十年、もしかしたら何百年とかかるかもしれないが……
君は時を超える秘術が使えるのだろう?」
エティエンヌから聞いたのだろう。
半分真剣に、もう半分は冗談めかしてルターは誓った。
「約束しよう。
今は退いても、時をかけて必ず君の目的を成し遂げると」
すでにこの時代でも1人の命が奪われているのだ。強要はできない。
治人はゆっくりとうなずいた。
それと同時に足元から水が侵食してきた。
潮が満ち世界が沈み始める。
「キヅキハルト、カトリン嬢。
何を慌てているんだ」
ルターは海水を感知していないようで、眉をひそめているのが薄いベール越しに見えた。
治人はあたりを見回して、橋の上に扉が現れているのを見つけた。
階段を登ればすぐの所だ。
「カトリン。一緒に行こう。
君の言葉ならシュネードもローゼルもいずれ聞き入れる」
カトリンへ手を差し伸べた。
カトリンは迷いながら、それでも治人の後についてくる。
ほどなくして扉にたどり着き、取っ手を引いた。
青い海と空が扉の向こうに広がっている。
「ハルト」
呼ばれて振り返った治人の胸をカトリンが強く押した。
扉の内側に治人が倒れる。
ノーシスが治人を抱き留めたのを見届け、カトリンは自ら扉を閉め始めた。
「わたしはここに残るわ。
あの村で2人が帰ってくるのを待つの」
ぼうぜんとする治人にカトリンは笑みを向けた。
「故郷が壊されて、ただ逃げて、教会にたどり着いた時。
わたし神様にお願いしたの。もう一度やり直したいって。
家族とただ静かに暮らしたいって。
神様はかなえてくださったわ」
覚悟を瞳に宿した笑顔。
「今まで本当にありがとう、ハルト」
「感謝なんか――」
感謝など要らない。この手を取ってさえくれたら。
身を乗り出そうとする治人をノーシスが止めた。
「何をやっておるのじゃ!そなた沈む気か!」
治人が手を伸ばした先で扉が閉まった。
後に残されたのは笑みを浮かべた彼女の残像だった。




