第28話 カギが奪われる
今回、暴力表現、残酷な描写があります。
ルターは目的地の近くの桟橋で運河から上がり、エティエンヌと治人を誘導した。
目指すのは、元事業小屋の墓場に一番近い隠れ家。
陽次に伝えた場所だ。
郊外に入ったとたんに兵の数が減った。
警備を徹底していたのは中心部だけのようだ。
ルターはブーツァーが気がかりなようで何度か運河の方へ視線を向けた。
「心配するのは後でもできる。
まずは逃げ切ることだ、ルターさん」
エティエンヌが彼らしい言い方で励ますと、ルターは意外にもしっかりした口調で「分かっている」と返した。
ルターは足取りを早め、治人とエティエンヌもそれに続いた。
隠れ家の前に着いたところでようやくエティエンヌが息をついた。
「しばらくここでヨウジを待とう。
で、夜になったら街を出るんだ」
ようやく休憩できる、とエティエンヌは顔をほころばせる。
一方で治人は異変に気付いた。
なぜ、入り口の前に馬がつないである。
誰かが自分たちより先に着いた?一体誰が。
思考が違和感の理由にたどり着くよりも早く、治人の目の前に茶色の布地が広がった。
フクロウが羽を広げて降下するように、少年が近くの住居から飛び降りてエティエンヌを捕まえたのだ。
袖口と袂から伸びた手足は褐色、まくれたフードから垣間見えた顔立ちに治人は戦慄した。
シュネード。
人の姿をした猛禽は獲物を拘束し、鋭い爪――手に持ったナイフをのど元に滑らせる。
と同時に地面を蹴って返り血から逃れる。
地面に着地し、十字を切って早口で祈りを唱えた。
その所作は流れるようで、美しくさえあった。
エティエンヌのうめき声でようやくルターは硬直を解いた。
鮮血が地面を染める。
「ロベール・エティエンヌ!」
駆け寄ろうとしたルターは急に立ち止まった。
介抱をためらった理由は分かる。
エティエンヌが助かる見込みがないこと、そして。
シュネードはゆっくりと顔をこちらに向けた。
その目は獲物を狩り終えた暗い高揚を宿している。
ルターは1歩下がった。
治人はその場に踏みとどまったが、それは意志によるものではなくただ圧倒されていたからだ。
警笛が鳴り響く中、治人は呆然と立っていた。
まただ。また見ているだけだった。
隠れ家に潜んでいたローゼルの合図で清貧会の信者が殺到し、ルターと治人はあっけなく捕まった。
このタイミングの良さ。
エティエンヌの殺害に成功したら治人たちを捕らえるよう、事前に申し合わせてあったのだ。
何人もの信者に抑えられて身動きが取れない治人にシュネードは近づき、ベルトに着けていた布袋を奪った。
「触るな」
抵抗しようとする治人の両肩を信者が押さえて強引に座らせた。
シュネードは一瞥もよこさず荷物を探り、やがて眉をひそめた。
「免罪符はどこだ」
意味が分からず瞬きだけを返すと、シュネードはいら立ったように繰り返した。
「おれの免罪符だ。キサマが拾ったんだろう」
治人は耳を疑った。人の命を奪っておきながら、何をいまさら。
「知らない、あんな紙切れ」
捨てたわけではない。
シュネードにつながる手がかりだから、荷物袋にまとめず直接ポケットに入れていたのだ。
だがわざわざそれを教えてやるつもりはなかった。
「紙切れだと!?」
「あんなもので罪の償いが帳消しになるんだって?
君は人殺しだ。その罪は消えない」
シュネードは治人の胸ぐらをつかんだ。
常に感情を抑えていたシュネードが見せたことのない怒りを浮かべている。
そこに、穏やかな低い声が響いた。
「シュネード」
ローゼルが放ったその一言でシュネードは我に返り、治人を乱暴に突き放した。
治人もさすがに気勢が削がれて口をつぐむ。
「ノーシスを呼べるからくり板に、食料と金。
この球はカトリンの催涙弾だな」
シュネードは一通り布袋の中身を検めると、興味を失くしたように手近なものに渡した。
「この板はお前に必要だろう。持っていろ」
治人は受け取った相手の姿にくぎ付けになった。
急速に体温が冷えていくのを感じた。
何故。それだけが思考を占領する。
――何でそっちにいるんだ、陽次。君はこっちだろ――
彼がこちらへ顔を向け、一瞬笑みを浮かべた。
「悪いな、ハル」
まるでペンやノートを貸してくれと頼むかのように言って、陽次は治人のスマートホンを自分のポケットに入れた。
ローゼルが前に出て陽次の肩に手を置いた。
「彼はわたしたちに協力を約束してくれた。
ハルト、お前も協力してくれるなら歓迎しよう。
未来の知識は貴重だ」
「断る!誰が人殺しの集団なんかに」
はっきりと拒絶しながら、治人は思い出していた。
シュネードがカトリンを訪ねて村に来た時、寝室の窓が開いていた。
今思えばあの時、シュネードは先に陽次と治人の部屋へ勧誘しに来たのだ。
そして陽次は誘いに乗った。
「わたしたちは無益な人殺しなどしない」
なおも諭そうとするローゼルを治人は鋭くにらんだ。
「宗教改革を止めたいっていうだけでグーテンベルクさんやエティエンヌさんを殺した!」
「違う。彼らの死によって争いが遠ざかるのだ」
ローゼルは断言した。
その表情には一点の陰りもなく、誇らしげでさえあった。
「争いを起こすのは印刷技術だ。
印刷が人の知恵を拡散させ肥大させていく。
知恵の実を食べる前のエデンにまでさかのぼることはできない、
ならばせめて果実をすべて摘み取ってしまえばいい」
ローゼルの目的は宗教改革の阻止ではなく印刷技術そのものを管理すること。
だからこそルターではなく印刷技術を掘り起こそうとしたエティエンヌを殺害したのだ。
治人が首を左右に振ると、ローゼルは心底残念そうにため息をついた。
過ちを認めない若者を憐れむようだった。
その時、女性の声が響いた。
「何をしているの、みんな!」
清貧会の信者たちは明らかにうろたえた。
彼らは声の主のために自然と道を開ける。
その姿に治人は思わず声を上げた。
「カトリン!どうしてここに」
「ハルト!?」
カトリンは取り押さえられた治人とルターの姿を認めると、周りの信者1人1人を鋭く叱りつけた。
「カール!ヴォルフ!フランツまで。
みんなこんな所で何をしてるの」
カトリンが話しかけているのは清貧会の中でも幹部級の信者のようだ。
服のデザインが統一されている。
どうやら村人がそのまま清貧会を運営していたらしい。
カトリンの叱責に幹部たちはたじろいだ。
勢いに任せて人の輪の中心にたどり着いたカトリンだが、治人と向かい合う2人の前まで来るとその表情は怒りから困惑へと変わった。
「神父様。ザシャ……」
カトリンは2人の背後にある遺体を一瞥した。
次にシュネードの袖口に赤黒いしみが付いているのを見つけ、泣きそうに顔をゆがめた。
カトリンは震える声で懇願した。
「ハルトとルターさんを放して」
2人から返事はなかった。
シュネードは顔を伏せて一歩踏み出した。
その手がナイフの柄へ伸びていることに治人は気づいた。
「やめろ!」
立ちあがろうとした治人は兵士に押さえつけられ、地面に膝を打ち付けた。
「やれ、シュネード」
ローゼルの一言をきっかけにシュネードは真っすぐ駆けた。
勢いに任せてカトリンにとびかかる。
全く警戒していなかったカトリンは仰向けに倒された。
彼女の頭上にシュネードがナイフを掲げ、垂直に下ろす。
治人は声にならない悲鳴を上げた。
――キン。
軽い金属音が鳴り、ナイフが地面に突き刺さった。
カトリンの首元――すぐそばの、ネックレスの鎖を断ち切って。
シュネードは鎖から十字架を手繰り寄せ、十字の中心にあった金具を外した。
十字架が2本の棒に分解される。先端には複雑な切れ込み。
それは見覚えのある形状だった。
活字だ。
シュネードは2本の活字を懐へ入れ、割れ物を扱うようにカトリンの右手を両手ですくった。
「必ず戻る。だから待っていてくれ、カトリン」
カトリンは迷子をあやすように柔らかく問いかける。
「また怯えているの、ザシャ?」
シュネードはカトリンの手を自分の額に押しあて、すぐに手を離して立ち上がる。
迷いのない足取りでローゼルのそばに戻り、活字を手渡した。




