第26話 真夜中の訪問者
静寂の降りた室内に、コン、とかすかな音が響く。
カトリンと治人が顔を見合わせた時、もう1度、コン、と音がした。
木窓に小さなものが当たったのだ。
「カトリン」
今度は少年の声。
カトリンは弾かれたようにイスから立ち上がり、窓際へ駆ける。
カーテンをめくるのももどかしそうに脇へどけ、木製の窓を開けると、黒ずくめの服を着た子どもが外に立っていた。
その手がフードをめくり、顔を見せる。
シュネードだ。本当の名前は――
「ザシャ……」
カトリンはかすれる声で呼びかけ、口元を抑える。
「迎えに来たよ、カトリン」
シュネードの声は弾んでいた。
気迫のカケラもない、子どもそのものの声。
「詳しいことは歩きながら話すよ。
シュトラスブルクでローゼル神父が待っているんだ」
そう早口でまくしたて、シュネードはカトリンの手を取ろうとする。
治人は無言で動き、カトリンの側に立った。
明るい笑みを浮かべていたシュネードの顔が一気に強ばった。
「キサマ、何でカトリンの部屋にいる!」
つかみかかってきそうなシュネードを、カトリンが静かに制した。
「ザシャ、先に答えて。
あなたが罪もない人を殺したってハルトから聞いたわ。
本当なの?」
シュネードは口を閉ざす。
体をすくませたその様子は、親の叱責におびえる幼児のようだった。
カトリンは目を伏せた。
「本当、なのね」
答えは返ってこない。
深くうなだれたシュネードに、カトリンは手を差し伸べた。
「何があったか、何をしたか、全部教えて」
シュネードはこちらに表情を隠したまま体を反転させる。
「ザシャ!」
カトリンの叫びは、少年の姿と共に夜の茂みの中へ消えていった。
窓辺で立ちつくすカトリンと治人に、後ろから声がかかった。
「おい。何の騒ぎだ?」
エティエンヌがけげんな顔をしていた。
続いて陽次ものそのそと顔を出す。
外の茂みを見続けたままのカトリンから離れ、治人はエティエンヌと向き合う。
「清貧会の偵察が来ていました」
治人がそう告げると、ほう、とエティエンヌは楽しそうに応じた。
その時エティエンヌが右手に白い紙を持っていることに気付いた。
治人の視線を受け、エティエンヌはこちらに文面を向ける。
「見るか?玄関で拾ったんだ」
紙の面積に対して文字は極端に少なかった。
「なんて書いてあるんですか」
「『魔の技術にかかわるな』。以上」
このロコツな脅迫状はシュネードが置いて行ったものだろう。
エティエンヌは鼻で笑った。
「誰がここで引くかっていうんだ。
聖書を量産できる機械だって?
もし本当にそんなものが存在するなら、大量の金が動くし、今の社会は一変する。
教会の奴らにも一泡吹かせられるだろうさ。
そんな大事を、おれの手で起こせるんだ。
商人としてこんなにも面白いことはない」
「けれど、ルターさんが狙われているのは確かです」
熱っぽく語るエティエンヌに治人はクギを刺した。
ローゼルとシュネードが宗教改革を止めようとしているのは確かだ。
そのためならルターを暗殺することも考えているだろう。
シュネードがさっきここに来た目的も、もしかしたらルターが村にいると考えたからかもしれない。
エティエンヌは肩をすくめて両手を広げた。
「教会はしばらく大人しくしているさ。
教会に不満を持つ職人、商人、都市貴族、参事会。
死ぬ気で火種をまいたからな」
「……の割に楽しそうですね」
治人が冷ややかに応じると、エティエンヌは皮肉気な笑みを深めた。
「よく覚えとけよ。
今の世の中を動かしているのは商人だ。争いの陰には商人がいる。
領主さまも司教様も、俗界も聖界も結局金の力に踊らされてるのさ」
そう語る口調には圧倒されるような毒気があった。
以前治人のことを口先で人を動かすと評したのは、エティエンヌ自身が同類だからではないかと今さらながら思った。
「……何でそんな話をぼくに」
「こんな話だからお前なんだよ。分かるだろ」
エティエンヌは一方的に言い放ち、
「もう寝ろ。明日はもう一度シュトラスブルクに戻るぞ」
会話を打ち切った。
寝室へ戻ろうとし、治人はカトリンの部屋を振り返った。
部屋の主はなおも外を見続けている。
その背中に治人は「おやすみ」と声をかけた。
返事はなかった。
ただわずかにカトリンの頭が動き、うなずく仕草をした。
扉をそっと閉め、興味深そうな陽次の視線を避け、治人は足早に階段を上る。
「長いことカトリンさんと話してたんだな」
からかいを含んだ口調だった。
こういう時の陽次は苦手だ。考えを見透かされるようで。
治人はまともに答えず、
「陽次は起きてたんだ」
話をそらすと、
「まあな。カトリンさんの声がしたから降りてきたんだ」
陽次が後ろで答える。
部屋につくと、窓代わりの板がどけられて細い月がのぞいていた。
陽次が開けたのだろう。
こいつでも眠れないことがあるのか、と治人は意外に思った。
一転二転する状況に堪えていたのは治人だけではなかったのだ。
すると、陽次がやはり後ろから静かに言った。
「ハル。あの人、とっくに死んでる人だ。過去の人」
治人は無言で自分の枕を投げつけた。
陽次はこともなげにそれを受け止め、穏やかに投げ返してきた。




