第17話 再び知識の海へ
治人たちが事業小屋に戻ると、外にまとめてあった印刷機の残骸がきれいに片付いていた。
直せばまだ使えそうな部分もあったから修理のために別の場所へ運んだのだろうか。
治人の疑問を察したらしく、メンテリンは
「地下室へ運んだ。捨てるつもりだ」
と簡潔に答えた。
「事業、やめるんですか。メンテリンさんだって印刷機は使えるのに」
治人が尋ねると、メンテリンは力ない笑みを浮かべた。
グーテンベルクの死を悲しみ、怒り、疲れ果てたようだった。
「自分で言うのもなんだが、私は優れた技術を持っていると思う。
だがそれだけだ。
印刷機を作った所でどうすればいいか見通しがない。
グーテンベルクさんは違った」
メンテリンは手に持っていた銀色の棒を見つめた。
失敗作の活字だ。
印刷機は捨てても『弟子の証』は残していたらしい。
「いっそ殺されたのが私だったらと思う」
メンテリンは大きく肩を落とした。
かけがえのない人を失ったものはこんなにも弱々しくなる。
もし彼が生きていたら、影が差すメンテリンの背中をひっぱたいて励ましただろう。
『だからおまえは暗いんだよ』
治人にはかけるべき言葉が見つからなかった。
立ち尽くす治人の後ろから男が現れメンテリンに声をかけた。
1人だけ身なりがいいので周りから浮いている。
「約束通り持っていくぞ」
ああ、とメンテリンは生返事した。
「フストさん」
金貸しのヨハネス・フストだ。
印刷事業に出資していた彼にとってもグーテンベルクの死は一大事だっただろう。
フストが手に持っていた布袋には固いものがぎっしり詰まっているらしく、輪郭がいびつに変形していた。
治人の視線をたどり、フストは布袋を持ち上げた。
「奴の遺産だ。とはいえ、マシなのはこれくらいだが」
フストが袋の中からつまみだしたのは1本の鎖だった。
鎖の真ん中に金属製の小さな円盤が通されている。
円盤には天使と星をかたどった精巧な模様が彫ってあった。
ネックレスだ。
アクセサリーとは無縁の暮らしを送っていたグーテンベルクには似つかわしくない代物だ。
彼自身には。
「そのネックレス、誰かのために残していたんじゃ」
今後、事業をうまく軌道に乗せられた時、グーテンベルクが一緒に生活しようと考えていた誰か。
「そのようだな。だがそれがどうした」
治人の問いに返ってきたのは、突き放すような声だった。
グーテンベルクの遺志を尊重して渡すべき人に渡そうという気はないらしい。
フストは下らない余興を見せてしまったとばかりに自己嫌悪の表情を浮かべ、ネックレスごと布袋をポケットにねじ込んだ。
「非情と思うか。金貸しとはこういうものだ。
教会にさげすまれ、民衆から憎まれて富を手にする」
「……損な役回りですね」
治人の正直な感想に特に気分を害したふうでもなく、フストは続けた。
「せめて『事業』が完成していたら少しは回収できたんだがな。
とんだジョーカーだった。奴のおかげで大損だ」
印刷機の完成はフストに知らされていなかったらしい。
え、と治人がもらした声はフストまで届かなかったようで、独白をつづけた。
「グーテンベルクが死んだら話は終わりだ。
一か八かかけてみよう、そう思わせてくれるのは奴だけだった。
おれはただの金貸しに戻る」
布袋を一度強く握りしめ、大きくため息をついてフストは足早に部屋から出て行った。
グーテンベルクがいない。
それだけで光が消えたようだ。小屋の中は灰色に染まっている。
陽次の祖父の工場が閉まりかけていた時によく似ていた。
この事業の行く先は――
もういいか、と治人は思った。
どうせ600年後には消えてしまう技術だ。
きっと違う誰かが開発して、同じように広まって、同じように無くなる。
メンテリンは小屋の奥へ向かい、地下室への階段の扉を閉めようとしていた。
扉を合わせ、金属製の箱が付いた棒を取っ手に通す。
陽次がメンテリンの手元をのぞき込んだ。
「それは……カギっすか」
「グーテンベルクさんの小細工だ」
メンテリンは力なく笑った。
暗い階段の下にグーテンベルクの人生をかけた成果が閉じこめられる。
1人の男が命がけでなそうとした事業が封印される。
それは墓だ。
メンテリンはグーテンベルクと共有した自分自身の思いも埋葬しているのだ。
カチッという金属同士がかみ合う音がした。カギが閉まったのだ。
と同時に異変が起こった。
治人と陽次の足元が水に沈み始めたのだ。
雨の水が入ってきたわけではない。
「どうした」
この異変をメンテリンは感知していないようだった。
高校の時と同じ。周りの者は気づかないのだ。
世界が沈み始めた。
「このタイミング!?
何でグーテンベルクさんが殺された直後には沈まなかったんだ」
もし印刷機の開発という点がこの現象に関係しているなら、印刷機が壊され、グーテンベルクが殺された瞬間に始まっていたはずだ。
まさか犯人を追う時間が与えられていたというのか。
戸惑う治人の腕を陽次が引っぱった。
「そんなこと考えてる場合か、逃げるぞ!」
2人で小屋の中を走る。
小屋の入り口までたどり着くと、扉の向こうからノーシスが手を差し伸べていた。
「治人、わしの手をつかめ!」
一方の手でノーシスと、もう一方を陽次とつないで治人は扉をくぐった。
見渡す限りに広がる海の濃い青と空の薄い青。
海の上に広がる透明な地面、宙に浮く扉。
知識の海に帰ってきてしまった。
後ろで扉がひとりでに閉じる。と同時に扉の光が輝きを失った。
グーテンベルクが印刷機の開発に人生を懸けた世界は海の底へ沈んでいった。
それは治人たちが元の世界に戻れる可能性が潰えたということを意味していた。




