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第15話 暗転

今回残酷な描写、暴力表現があります。

「やめろ!壊すな!」


耳に飛びこんできたのは男の声。

それを契機に物音が立て続けに鳴って治人は体をすくませた。

もともと浅かった眠りは急速に遠ざかっていった。

重いものが倒れる音、木がへし折れる音、人のうめき声。

誰かが争っているような。

治人は姿勢を崩さず首だけを動かして状況を探ろうとした。


「う……キヅキ、印刷機の部屋には来るな。逃げろ!」


グーテンベルクの声だ。

自分がいつもの寝室にいると思いこんでいるらしい。

そして警告している。ここに来るな、と。

治人は動けなかった。

心臓の音がやけに強く響く。頭が熱で沸騰(ふっとう)しそうだ。

そのくせ体は冷え切って、幕1枚隔てた自分は落ち着いて思考を進めている。

この時代は夜が暗すぎる。月が陰った屋内は両目に漆黒が映るだけ。

ずっと探していた非日常が今闇の中に広がっている。

治人は息を殺して耳を澄ませた。

また物音。

木製の何かが引きずられる、衣擦(きぬず)れの音がして大きなものが床に倒される。

誰かが印刷機を壊そうとしている?

それを止めようとした者が突き飛ばされた?


「おれが何をやったというんだ……」


床の方からグーテンベルクの声がして、もう一方の人影は動きを止めた。

かすかに息をのむ音がする。


「やっとだ。やっと新しい聖書が作れる。だからその機械を壊すな」


月を覆っていた雲が晴れ、明り取りの窓から光が差して室内を照らす。

床から起き上がろうとするグーテンベルクと、銀色に光るナイフを持ったシュネード。

シュネードの腕には黒い布が巻き付けられていた。


「断る」


シュネードがそう答えたのが合図だった。

再びつかみ合いが始まり、ほどなくしてシュネードが床に転がされる。

シュネードは、コン、と軽く床を踏んで起き上がった。

グーテンベルクよりも身軽だ。


「どけ!」


シュネードの声と共に鈍い音がした。そしてうめき声。

すぐそばでグーテンベルクがうずくまる。

治人の足に粘り気のある温かな液体が触れた。

鉄さびの匂い。のどが詰まるほどの。

尚も苦痛にあえぐ声は続いていた。

そこに人――シュネードが近づいてきて、もう一度グーテンベルクに一撃を加えた。

今度こそ動きと声は絶えた。

シュネードが膝から崩れ落ちた。

少年の息は乱れ、歯がカチカチと鳴っている。

震えながら右手の中指を立て、(ひたい)、胸、左肩、右肩の順番に1回ずつ触れた。

十字を切ったのだ。

そして両手を合わせて眉間に押し当て、早口で祈りを唱えた。

その時、奥の部屋から扉を乱暴に開くガチャッという音がした。


「ハルー!グーテンベルクさんー!」


のん気で明るい声。腹が立つほどに。泣きたくなるほどに。

ドスドス響く遠くの足音と対照的に、コト、と室内の人影が動いた。

2,3度静かに足を運んで機材の上に乗り、死角に入ってしまったが、どうやら窓から外に出たようだった。

ようやく治人の金縛りが解けた。

機材の下から這い出て震える体を起こし、壁にもたれながら扉までたどり着いた。


「陽次……」


廊下へ出るとともに絞り出した治人の声は、弱々しくかすれていた。

燭台(しょくだい)を手に寝室をのぞこうとしていた陽次が動きを止めた。

こちらへ向けた顔がみるみる内にひきつる。


「おまえ……どうしたんだよ!」


何をそんなに驚いているのだろう。感覚が遠い。

泥のように(にご)った頭を無理に働かせて、治人は思い至った。

ああそうか。服に血が付いているんだ。

すそのべっとりとした感触が気持ち悪い。


「ぼくのじゃない。グーテンベルクさんが、中に」


治人が言葉を切ってしまったので陽次は首をかしげた。

それでも異常事態なのは伝わったらしく、慎重に足を踏み入れた。

陽次が息をのむ音を治人はどこか遠くに聞いた。




その後の記憶は倍速再生のように上滑りだ。

小屋に立ち寄ったメンテリンがグーテンベルクの死を知る。

付き添っていた職人の1人が酒場へ知らせに行き、そこにいた者たちも駆けつける。

衝撃が一通り過ぎ去ると、いつまでも部屋をこの状態にしておけないと考え、彼らは作業を始めた。

グーテンベルクの遺体を寝室へ移し、床の血をふき、壊された印刷機の破片を外へ運び出す。

大人の男が亡骸(なきがら)にすがりついて号泣するところを治人は初めて見た。

夜が明け始め、部屋が片付いてからメンテリンはようやく落ち着いたようだった。

職人たちが着いた時点で何が起こったか治人は伝えていた。

シュネードが印刷機を壊したこと、止めようとしたグーテンベルクを殺したこと、どこかへ逃げてしまったこと。

しかし、シュネードを探しに行った一団が空振りで戻ってくると、治人は状況をより詳しく尋ねられることになった。

話を終えると、メンテリンが口を開いた。


「なるほど。それで、おまえは何をやっていた」


質問の意図を測りかねた治人に、メンテリンは疑いのまなざしを向ける。


「話を聞く限り、グーテンベルクさんは大人しく殺されたわけではなかったようだ。しばらく抵抗していた。

 おまえはそれを静観していたのか」


そう糾弾する。治人は淡々と、ただし目はそらして答えた。


「そういうことです」


メンテリンは腕を伸ばし、治人の胸元を掴んで一喝した。


「ふざけるな!グーテンベルクさんが殺されるくらいなら、おまえが……」

「メンテリンさん!」


陽次はすかさずメンテリンの腕に手を置いた。

怒りにゆがんでいたメンテリンの顔が理性を取り戻した。


「くそ!」


忌まわしいものを振り払うようにメンテリンは治人から手を離した。

治人はバランスを崩してしりもちをつき、その時に気付いた。

機材の下に白い物が落ちている。

窓のそば、ちょうどシュネードが踏み台にしたあたりだ。

手を伸ばして取ってみるとそれは1枚の紙切れだった。

折り紙よりも一回り大きめの紙に細かい文章とイラスト。

治人を助け起こした陽次がのぞきこんできた。


「なんだそれ。新聞か?」


陽次の表現がぴたりと当てはまった。

そうだ。この文字の詰め具合は新聞に似ている。

周りに内容を聞いてみたが、そもそも文字を読める者がいない。すると、


「貸してみろ」


メンテリンが手を差し出してきた。


「さっきは悪かった」


いえ、と答える治人の声は硬くなってしまった。

メンテリンは新聞もどきを凝視し、眉間のしわを深くした。


「これは犯した罪の償いが免除されるありがたい紙だそうだ。

 メンザイフってやつじゃないのか?」


免罪符。

世界史の授業で聞いたような気がする。

治人はポケットからスマートホンを取り出した。


免罪符。別名は贖宥状(しょくゆうじょう)

犯した罪の償いが省略出来るといううたい文句で、教会が金儲けのために信者へ売りさばいた証明書だ。

これが後に宗教改革の引き金の1つとなった。


だが気になる点がある。


「陽次、おかしい。

 教会が大々的に売り出したのはもっと後の時代、100年くらい先だ」

「先行販売してたんじゃね?メンテリンさんも知ってるし」

「コンサートじゃないんだから」


「だが妙だな。これはまるで……まさか」


免罪符を観察していたメンテリンの顔が青ざめた。


「ありえない。これは印刷機で刷られたものじゃないのか!」


印刷機はグーテンベルクが作ったもの1台だけのはず。

それも昨夜シュネードによって壊された。


「昨日のうちに刷ったんじゃ」

「こんな活字は作っていない!」


メンテリンの声が焦りで上ずる。

知らないうちに別の場所で印刷機が開発されていた、と考えるのが妥当だろう。

だが多少なりとも開発にかかわった治人には分かる。

生半可な資本と知識でできるものではない。

作るには人手と金がかかるし、近くで開発されていたとなればグーテンベルクやフストの耳に入ってもよさそうだ。

何かが引っかかる。治人の頭を少年の姿がよぎる。

これは彼の落とし物ではないか。どこか浮世離れした彼のたたずまい。


「メンテリンさん。シュネードはどこに住んでるんですか?

 手がかりがあるかも」

「それは誰も知らない。なあ」


メンテリンの呼びかけに周りの職人たちは首を横に振った。そんなバカな。


「何で彼を雇うことに」


メンテリンは眉間のしわを深くして考えこんだ。


「そういや何でだったかな。

 グーテンベルクさんが連れてきて――いや、グーテンベルクさんも知り合いってわけじゃなかった。

 いつの間にか居ついて」


治人は背筋が凍るのを感じた。違和感の正体をようやくつかんだ。


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