第12話 ×交渉→〇駆け引き
ブドウにまみれた労働を終えてシュトラスブルクに戻った治人と陽次は、住居である事業小屋に向かった。
久しぶりに都市のにぎやかさを感じながら見慣れた景色までたどり着き、そこで足を止めた。
小屋の前に女性が立っていた。
整った顔立ち、透き通るような長い金色の髪と華奢な体つき。
清貧会の偵察かと疑ったが、どうにも雰囲気が違う。
扉を開けようか迷っているそのおずおずとした様子はごく普通の女性だ。
なによりもトレードマークの黒い布が無い。
「何か用ですか」
治人が声をかけると、女性は「こんにちは」と笑いかけた。
「今日ヨハネスはいる?工房にいないからここかと思ったんだけど」
親しげな口調だが治人も陽次も見覚えが無い。
2人の戸惑いを察したように女性が苦笑した。
「会ったことなかったかしら。エネリンです」
グーテンベルクとメンテリン、どちらに用があるのだろう。
反応が遅れた治人の代わりに陽次が小屋の壁に顔を押し付けた。
彼の驚異的な視力でわずかな穴から中が見えるそうなのだ。
ちなみに治人には認識できないほど小さな穴である。
「あ。3人目の人」
陽次が声を上げた。まだ名前を憶えていないらしい。
「ヨハネス・フストさんだろ」
治人はそう付け加えた。すると途端に女性の顔がくもった。
「ヨハネス・フスト?金貸しの?」
胸のあたりを手でぎゅっと押さえ、体を反転させた。
「そう。まだなのね」
そのまま立ち去ろうとする。治人は驚いてその背中に声をかけた。
「あの。誰かに会いに来たんじゃ」
「ありがとう。でももういいわ」
余裕がないのか、女性は早口で断りさっさと歩きだしてしまった。
「何だったんだ」
陽次に聞かれたが治人に分かるはずもない。すっきりしないまま、とりあえず小屋の入り口と向かい合った。
治人と陽次は二つずつカギをポケットから取り出す。
鍵穴が扉の四隅にあり、順番通りに解錠しないと開かない。
金属加工が得意なグーテンベルク特製の仕掛け扉だ。
治人は入る直前に道を振り返ったが、女性の姿はもうなかった。
小屋の入り口は部屋に直結している。
今部屋の空間のほとんどは大きな一枚板の机で埋まっていた。
机の上には何枚もの紙をつなぎ合わせて作ったらしい絵図。
3人のヨハネスがその机を囲んで――というか机と壁の隙間に立っていた。
「おまえたち久しぶりだな」
メンテリンがかすれた声を出した。どことなく疲労の色が濃い。
一方グーテンベルクとフストは難しい顔をしたままこちらを見向きもせず、緊迫した空気を発している。
「えーと。どういう状況っすか」
陽次が尋ねても2人は反応しない。代わりにメンテリンが答えた。
「あれからずっとここにこもってグーテンベルクさんと印刷機の設計図を仕上げたんだ」
「ずっとって。まさか村から帰ってきてからずっとですか!?」
グーテンベルクたちが帰ってから数日は経っている。
そういえば2人とも目の下にクマがありげっそりとやつれている。ろくに眠っていないようだ。
驚く治人に対し、メンテリンは大した事でもなさそうに「そうだ」と流した。
「案は固まった。後は金の問題だ」
それでフストが来ているのだ。
しかし、ただでさえ延滞を頼んだ彼にこれ以上の援助が望めるのか。
グーテンベルクの緊張は不安の表れだろう。
ふっとグーテンベルクが息を漏らした。自嘲するような笑みだ。
「考えてみりゃおまえと一番相談している気がするな。メンテリンや事業の協力者より」
「早く本題に入れ」
フストに促され、グーテンベルクは機械の構造や印刷の仕組みなどを説明していった。
話が進むにつれフストの眉間のしわが深くなる。
「最初に言っていたよりもずっと大がかりではないか」
「ああ。村にあったブドウ絞り機を見て気付いた。
必要なのはプレス、紙に圧力をかけることだったんだ。
となると絞り機並みの機械が要る」
「結局のところいくらかかりそうなんだ」
単刀直入にフストが尋ね、グーテンベルクは腕を組んだ。
「そうだな。木材と組み立て費、他の材料を考えてざっと……」
グーテンベルクが告げた数字に、フストはぐ、とうめいた。
相当な金額だったようだ。
そこにグーテンベルクが言いつのる。
「機械さえ完成すれば利益が出る。手書きの写本と比べてはるかに安く刷れる。
庶民でも手を出しやすい分、冊数を稼げるはずだ」
治人は少し引っかかり、口をはさんだ。
「あの、グーテンベルクさん。安すぎる値段で売ろうとしていませんか」
「いや。材料費に手間賃だろ、あと利益。ちゃんともうけは出る計算だ」
「そうじゃなくて。手書きの本として売ってもいいのでは」
グーテンベルクはキョトンとする。治人は詳しく説明した。
「だから、印刷機で本を刷って、それを手書きと言って売るんです。
実際の手書きの本よりはやや安い程度の値段で。利益は大きなものになる」
「おまえ……それは」
返事を渋るグーテンベルク。治人にフストが加勢した。
「その徒弟の言うとおりだ。最低限の利益で売ってやっていける状況か。
納得できなければ借金を返し終わってから本の値段を下げればいい……
この設計で本当にできれば、の話だが」
フストは設計図をにらんだまま考えこんだ。
描かれた機械がもたらす未来の利益を計算しているのだろう。
「うまくいく、と思っている」
グーテンベルクのあいまいな答えにフストはため息をついた。
「話にならん」
冷たくそう言い放った。
グーテンベルクが何か言いかけ、フストの怒りを察して口を閉ざす。
フストはグーテンベルクに背を向けた。
長い付き合いの客が窮地に陥っていてもフストには関係ない。
彼を動かしているものは損得の天秤なのだ。
儲かりそうなら金を貸す。見こみがなくなれば手を引く。それだけ。
だからこそ慎重に、神経をすり減らして金を回収できる見こみを計算する。
帰ろうとしているフストの腕を陽次がつかんだ。
「ちょっと待ってください!グーテンベルクさんは事業を成功させます」
フストは迷惑そうに陽次の手を振り払った。
終わった商談をしつこく進めようとしてくる客をあしらう。
「たかが徒弟のかたよった推測は要らん」
「推測じゃなくて!おれたちは知ってるんだ。
ヨハネス・グーテンベルクが新しい印刷術を開発すること!」
その時、わずかにフストの体が揺らいだのを治人は見逃さなかった。
一度は傾いた彼の天秤が再び平衡を保ち始めている。迷っているのだ。
治人は前に出てフストと正面から向き合った。
「カード、返しちゃうんですか。
すぐに結末が分かる勝負は面白くない。賭けはじっくり楽しむものでしょう?」
治人の言葉にフストの足が止まった。顔と体が半分こちらに向いた。
興味をひかれているのだ。
「たかが徒弟でもぼくたちはあなたより知っていることがある。
陽次が言ったとおり、グーテンベルクさんは新しい印刷の開拓者になる。
これは未来の事実なんです」
フストは考えこんだ。
陽次と治人の自信の理由が分からなくて困惑している、そんな顔だ。
まあ未来からこの時代へ渡ってきたなど思いつきもしないだろう。
「どこにそんな根拠がある」
フストの弱々しい反論を治人は一蹴した。
「信じたくなければそれでもいい。
あなたはカードを失い、別の人が印刷機のもたらす莫大な利益を手にすることになる」
長い沈黙。
グーテンベルクも、メンテリンも、陽次も黙ってフストの答えを待った。
やがて舌打ちの音が聞こえた。
「3か月だ。それまでに形にしろ」
グーテンベルクがぱっと顔を上げる。そこにフストは釘を刺した。
「忘れるな。おまえは私のカードだ。
せいぜいあがいて私にもうけをもたらすことだな」
「……覚えておく」
頭をかきながらグーテンベルクが答えた。
扉が閉まり、フストの足音が聞こえなくなるとグーテンベルクは大きく息を吐いた。
「おまえたちのおかげで助かったよ。礼を言う」
部屋に満ちていた緊張感が薄れ、治人たちも姿勢を崩した。
ふと治人はここに入る時のことを思い出した。
「そういえば。外でエネリンってキレイな人に会ったんですけど、誰ですか」
名を出したとたんにグーテンベルクがびくっと肩をすくめた。
「あー。何というか、元師匠だ」
「師匠?」
明らかに女性――エネリンの方が年下に見えた。
治人の疑問を察してグーテンベルクが付け足す。
「年齢は関係ない。あいつの方が知識は上で、金属の性質なんかを教えてもらっていた。
あいつ自身は最近流行っている……確か錬金術ってやつを研究していたが」
メンテリンが納得したように顎をつまんでうなずいた。
「なるほど。婚約されたのはそういう経緯だったんですね」
「おい!」
グーテンベルクが大声で遮り、メンテリンがようやく気付いたように「すみません」と頭を下げた。
婚約って。顔を見合わせる治人と陽次。
グーテンベルクは古傷を触られたように顔をしかめた。
「……破談になった。分かったな。この話終わり!」
破談。
エネリンは金貸しのフストの名前が出たとたんに顔を曇らせた。
そして「まだなのね」という言葉。
まさか、原因は。
グーテンベルクはすでに設計図へ視線を移して計算を書き加えていた。
これ以上の追及を拒否しているようだった。
メンテリンがさりげなくグーテンベルクの横に立つ。
「私はキヅキやオトワと一緒に工房へ行こうと思いますが、グーテンベルクさんはどうしますか」
「おれはもうちょっと設計を詰める」
「ではしばらくしたらまた来ますね」
グーテンベルクはメンテリンを恨めし気ににらんだ。
「……そういう気づかいされるのイヤなんだよ」
「それは失礼」
メンテリンは苦笑して一礼した。
とはいえグーテンベルクも1人になりたかったらしく、とくに引き留められることもなかった。
「妙なものだ。懐かしく感じる」
街並みを見渡してメンテリンが呟いた。
そういえば村から帰ってきて以来ずっと小屋にこもりきりだったのだ。
3人が歩く街道の先にはシュトラスブルク大聖堂がそびえたっている。
現代でもめったに見かけない高さの尖塔。
建設するのにどれだけの労力と時間を要したのだろう。
人が持つ知識と技術の限界へ挑んでいるようだった。