第二話 尼姫封姫
十九世紀のアメリカ大陸、サンフランシスコに突如現れたこの二人組の日本人だが、逮捕記録では、とりあえず日本の留学生、と言うことで供述が残っている。
ただ、何とか英語は話せるものの、どう見てもまだ年端もいかない深草萌黄と、言葉が通じない癖に傍若無人、無茶苦茶な言動と行動をとる早瀬弾正の二人の話は、現地側としてもどのように受け止めていいのか、分からなかったに違いない。
「だ・か・ら、言ってるじゃないですか!わたしたちは正当な手続きを経て入国したし、強盗事件にも巻き込まれた、いわば被害者なんです!この不当な処置には断固抗議します!まずは、『万国公法』に則った、正式な待遇を要求します!」
萌黄は取り調べを受けても一歩も引かずに抗弁した。発音にはややぎこちないものが残るものの、話している英語は正統なブリティッシュで、その供述の論旨も非常にはっきりとしていやに明快だ。しかも当時、アメリカで発表されたばかりの国際法理論を楯に抗議すると言うかわいげのなさだった。
ただ、問題はそのきっちりとした英語を話しているのが、武器を持った得体の知れない東洋人の年端もいかない少女と言うことで、ますます担当官を困惑させる方向にしか、効果を発揮していなかったことだ。
「がたがた抜かすなっ、てめえらがちゃんとしねえからあんな悪党がのさばるんだよ!馬だってまだ盗ってねえだろうが、とっとと釈放しやがれっ」
見知らぬ土地で逮捕されてもふてぶてしい態度を取り続けた弾正とともに、この二人は話せば話すほど、要注意人物と言う印象をますます深くさせていた。
青い目の男たちは、どちらも埒が明かない、と言うように顔を見合わせて肩をすくめるばかりだった。
結局二人は処分が決まるまで勾留と言う処置がとられた。
二人は牢屋の中に閉じ込められると、今度は日本語で言い争いを始めた。
「どうするんですかっ、先輩」
「…っるせえな」
「先輩のせいでいきなり捕まっちゃったじゃないですか!本国に照会したって、知らんぷりされるだけで、わたしたちを助けてくれる人なんて一人もいないんですよ!」
頬を膨らませて怒りを募らせる萌黄をよそに、弾正などは小あくびをしているばかりだ。
「萌黄、お前はメリケン語出来るからって、調子こき過ぎなんだよ。大体よ、どうせこうなるんなら、あそこで馬盗っときゃよかったじゃねえか」
「馬なんか盗ったら、本当の泥棒じゃないですか!」
「バーカ、発砲した時点で、お前だって犯罪者なんだよ!」
「わっ、わたしのは正当防衛です。問答無用で人の腕を斬り飛ばした先輩に言われたくないですよ!」
「おんなじだよ。バーカ!バーカ、バーカ!」
壁を背にして、ひそひそ話で始めたはずの言い争いはどんどん熱を帯びてきた。
「静かにしろっ」
「るせえっ。どいつもこいつもくたばれ!つか刀返せ!バーカ!」
警棒で牢屋を叩いて警告した保安官にがん、と格子を蹴り返した弾正は、限りなく態度が悪い。
「…脱走しましょう」
ぽつりと、萌黄が言ったのは、気まずい沈黙で数分鎮まったのちだ。
「やっとやる気になったか。へへっ、最初からそれが手っ取り早いじゃねえか。そうだな、まず火でもつけてみるか?」
「そっ、そんなことしたら、死人が出るじゃないですか!だから、上手くその、見張りの人から鍵をくすねて」
「あいつか」
弾正はあごをしゃくった。さっき警棒で、牢屋の格子をぶっ飛ばした保安官だ。退屈そうに椅子に腰かけた男のすぐ近くには、二人の武器が放置されている。
「ぶちのめすのは任せろ。なあに、素手でもあんな野郎に負けはしねえ。得意のメリケン語で、誑かすんだろ?ようしじゃあ、あのメリケン野郎を誘き寄せろ」
すると自分で言い出した癖に萌黄は、目を白黒させた。
「…どっ、どうやって誘き寄せたらいいんですか?」
「なんだよ。お前がやるって言ったんだろ。色気だよ、色気。吉原の仲見世ア行きゃあ、振袖の姐さん方がやってるだろうが」
「わっ、わたし、そんなとこ行ったことないですもん。おっ…岡場所の女の人の真似なんて」
「出来るよ。あっちじゃお前ぐらいの小娘からやってんだ。煙管でよう、こうやって窓の格子をコンコン、って叩いて『ねエ、兄さん、チョイと寄ってくんなんし』」
「…あとは?」
「うっふんでも、あっはんでもいいや。とにかくない色気を振り絞れ」
「やですよっ!大体ない色気ってなんですか失礼な!だったら、先輩がやったらいいじゃないですか!」
「やだよ馬鹿野郎!なんで、おれがそんな、みっともねえ真似やらなきゃいけねえんだ!」
相変わらず不毛な争いを続ける二人には、すでに数分前に保安官が去ったことなど、知る由もなかった。数十分後、二人の牢の前には、今までとは全く違う人物が立つことになる。
その男の出現に気づいたのは、萌黄だ。不毛な言い争いに嫌気が差したとき、そこにさっきまでの保安官とは違う異質な男が座っているのを見つけたのである。
男は、背後の明り取りから幽かな陽の光を浴びたまま、置物のように座っていた。
なるほどあの保安官と同じ白人だったが、温暖なサンフランシスコの陽に灼けたのとはまた違う、褪せた色合いの日の焼け方をしていた。
さらにはその黒い髪は長く伸びて強張り、潤いを喪っている。着ているのは萌黄たちと同じ漆黒のフロックコートだが、それも白っぽくくすみを帯びて旅塵をまとっている。潮風を浴びて旅を続けてきたことは、それで明白だった。つまりはこの男も、萌黄たちと同じ、サンフランシスコに入港したばかりの異邦人だと言うことだ。
「出ろ」
同じ姿勢のまま、男は訛りのきつい英語で言った。
「君たちに話がある」
萌黄たちは、取調室に戻った。相手はその男一人だった。もはやこの男に全権は委ねられたのか退屈をもてあました牢番の保安官が、その様子を遠巻きに眺めていた。
「ったく、まーた違うメリケン野郎のおでましか」
不敵にも椅子の上にふんぞり返った弾正は、いらいら膝で貧乏ゆすりをしている。
「萌黄、どこのどなた様なんだか、メリケン語で聞いてやれ」
偉そうにあごをしゃくる弾正に、萌黄が眉をひそめて口を開こうとすると、
「…エイクリー・ヴェイン、上海から日本に来た。貴殿らと同じ軍人だ。メリケンの、だが」
なんとエイクリーが突然、日本語で話し出したのだ。
「驚く、必要はない。君たちの言葉が分かる宣教師が、国の商館にはきちんといる」
「なるほど」
萌黄は頷いてみせた。当時、横浜の居留地に行けば、同じ漢字を使った言葉を扱う中国人の通詞や、布教のため彼らからいち早く日本語を学んだ西洋人宣教師たちが、沢山いるのである。
その点、エイクリーの日本語はイントネーションこそ心もとなかったが、文節ごとにゆっくりと言葉を区切って話す、意外に確かな日本語と言えた。少なくともブロークンな英語を話されるよりは、理解しやすい。
「海を超えて、私が君たちを追ってきた理由、は、薄々理解、しているはずだ。君たちは何十日か前、横浜で事件を、起こしたね?」
エイクリーが取り出したのは、横浜で発行されている居留地民向けの新聞の号外だ。横浜の商館で商船が焼かれ、非道な人身売買を行っていたアメリカ人商人が悪事を暴かれたと言うニュースだった。
「これは、わたしたちにはなんの関係のない事件です。それが何か?」
内心の動揺を隠しながらも萌黄は、体温を感じさせない声音で言った。
「この記事には載っていないが、現場で弾正を名乗る男が、アメリカ人将校を一名、斬り捨てている」
その瞬間弾正が、これ見よがしに口笛を吹いたので、萌黄はいらっとして背後を睨みつけた。
「その男は、上海ではおれと同じ部隊で指揮をとっていた。腕が立つ男だ。だが銃を抜いた手ごと、腕を斬り飛ばされていたそうだ」
「そ、そうですか。…でっ、でも確か商船に監禁された清国人や日本人は、拉致されて来た人たちでしょう。つまり、悪いことをしていたんです。不当な略取は、国際的に問題が」
「居留地の犯罪者は、本国の法律で裁かれることになっている。ハリス条約(一八五八年締結、日米修好通商条約の通称、この場合は領事裁判権の内容を指す)にも記されていることだ。その点で言えば、彼らの非合法性は別としても、居留地で暴動事件を起こした君たちに対する裁定は、我が米国の領事館に委ねられている」
「で?そのメリケンの御法度ってやつで、お前がおれたちを召し捕りに、わざわざこんなところまで来やがった、ってわけか?」
「君たちの立場を知らせただけだ。それに、ようく分かっている人間が手引きしていると思うが、居留地でアメリカ人と問題を起こして、アメリカ本国へ逃げる日本人などいない。そもそも逃亡に一番いい方法は、日本国内に行方を晦ましてしまうことだ」
エイクリーは片目をつぶってみせると、小さく首を傾げた。
「ついでに言おう。おれは、連中が上海でしてたことまで知ってる。個人的に言わせてもらえば、報いを受けるべきはあの豚野郎どものはずだ。それより、問題にしたいのは、君たちがなぜ、アメリカ本土に足を踏み入れたか、と言うことだ」
エイクリーは手際よく、二冊目の資料を出した。そこに一葉の写真が手挟まれていた。その写真を見て、萌黄の顔色が変わるのをエイクリーは俊敏に見極めていた。すかさずエイクリーの指が示したのは水墨画風の書割を背景に微笑む清国人の服装をした若い女性だ。
「君たちが探しているのは、この女性だね?」
ほとんど反射的に萌黄は、あごを引いて頷いていた。
薄桃色の牡丹の髪飾りに、長袍と言われる玉蘭紋様の艶やかなドレスを着た女は、二十代中盤。雪のような白い肌にふくよかな身体つき、小体な瓜実顔に、ぽってりと肉厚な唇を持った、誰の目をも惹く中華美女だった。
「名前は判るか?」
「尼妃、としか」
硬い声だったが萌黄が応えだすと、エイクリーは満足げに微笑んだ。
「精確には、尼二封妃。だが、この女の正体を知れば、驚くぞ」
「なんだよ?あんた、その女が化け物か何かだって言うのかよ?」
弾正が皮肉げに水を差したが、エイクリーは口元に笑みを含んだまま頷くばかりだ。
「化け物か。そうだ、よく分かっているな。それとも見たのか?この女の、化け物じみたところを」
エイクリーの最後の示唆に、弾正も思わず息を呑んで黙り込んだ。知っているのだ。
エイクリーは知っている。この女が、何者であるのかを。
萌黄はとっさにそう思った。
「じゃあ、あなたはこの女性が、どんな化け物、だか分かっている、とでも言うんでしょうか?」
萌黄の質問は、仄めかすようなものだったが次の瞬間、エイクリーは、はっきりとそれを肯定したのだ。
「ああ、この女は化け物だ。それも掛け値なしの、な」
エイクリーは写真の女の顔を指で突くと、いらだったように言った。
「この女の目的は、混沌をもたらすことだ。尼二封妃は、上海での呼び名だった。その前はゴアにいた。全く違う年齢、人種で。性別すらも違うこともあった」
「そんな人間がいるわけねえだろうがよ」
「そんな人間はない。化け物だ、と言ったはずだ」
「勿体ぶるなよ。じゃあてめえ、そいつが何者だか分かって言ってるんだろうな?」
「分かっている。だが、何も分かっていないとしか言えない。旧い書物に伝わっているだけのことだからな。まず、この女の名は、尼二封妃ではない。精確には、おれたち人間には発音できない名前だ」
と、エイクリーはペンを執り、スペルを書き不思議な発音した。そこにはこう書いてあった。
Nyarlathotep
「え?何だって?」
「ニャルラトホテプ」
「確かに、そうは読めるな」
萌黄の発音にエイクリーは頷くと、話を始めた。
「上海ではこの女は太平天国に関わった」