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第十二話 闇をさまようもの

 ともかくも、かくして追手の脅威は去り平穏な夜の帳が降りてきた。

 銃声が絶えれば、広い平原の片隅にぽつんとたたずむエイワスの小屋は、とても静かだった。

 弾ける薪の中から揺らめき立った炎が舐めるように、古びた鍋の中身を温めていた。中身は仔牛の肉と内臓を、玉ねぎや人参などの根菜類と煮込んだものだ。トマトソースと骨髄でとった出汁が利いて、炒った小麦粉で香ばしい匂いととろみがつけられている。

 これが当時のカウボーイたちの得意料理だったと言う。

「さあ、遠慮なく。こいつこそエイワス農場名物、正真正銘の畜生鍋サノバビッチ・シチューってやつだ」

 母、アニーと鍋の煮え具合を見るとレズリーは美味そうに目を細め、白い湯気に覆われた熱いスープの煮え具合をみる。

「ちょっと兄さん!汚い言葉を使わないでよ」

「美味いものに、理屈はいらんだろ」

 レズリーは小皿にとったスープを味見すると、これだと言うように頷いた。

 トマトで煮込んだ野趣あふれるシチューだ。カウボーイたちは激しい日々の労働の終わりに、仔牛を丸ごと煮込んだ鍋で体力を回復したのだ。ごろりとぶちこまれた牛肉も野菜類も、豪快としか言いようがない切り方だが、粗暴な料理とうかつに馬鹿には出来ない。

 ローリエ、ニンニク、胡椒などのスパイスで煮込まれた乳歯の生え変わっていない牛の肉は、柔らかく臭味や癖もなかった。煮込む前に金網で軽く(あぶ)ってあるせいか、食欲が一気に湧いてきそうだ。

「わっ、わたし!その獣肉(ももんじ)は、苦手で…」

 と、渋っていた萌黄も、滋味たっぷりの仔牛の肉の誘惑には抗えなかった。エイワス家の飼育は確かで、じっくりと煮込まれたシチューは、旅で疲れ切った人間の心と身体を平等に癒してくれる。

武士(サムライ)は、剣で戦うの?」

 シャーロットはおかわりを盛りつけながら、弾正に話しかける。彼女はさっきので、日本の武士(さむらい)に、大きな興味を持ったようだった。

「ああ、それがまっとうな武士ならな」

「沢山の銃が相手でも?」

「戦場でもだ」

 当たり前のように言う弾正の言葉は、実戦経験に裏打ちされている。

「わたしたちは、戊辰(ボシン)と言われる大戦と言う戦争に出ていたんです」

 幕末分け目の戦いと言われる戊辰戦争は、慶応四年(一八六八年)、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いから端を発し、関東全域から北海道へ、足掛け二年にもわたった全国規模の内乱であった。

「あなたたちは、王国側だったってわけね?その元首は死んだの?」

「いんや。なにせ元々、いくさっ気のない御仁でね」

 弾正はレズリーが渡してくれたウイスキーを遠慮会釈もなく呷ると、いかにも不快げに鼻を鳴らす。

 王政復古(おうせいふっこ)の大号令の後、大政奉還(たいせいほうかん)をしたものの、徳川政権の影響力を嵩にして、最後の将軍慶喜は失地回復を図ろうとしていた。慶喜がとったのは純粋な政治的解決である。

 当時、アメリカ合衆国の二院制に学んだと言われる議題草案(ぎだいそうあん)を引っ提げた慶喜は、首都・大坂構想(慶喜は大坂に新政府を設けようとした)を目論見、革命後の政府そのものを牛耳ろうとしていた。だがその野望を打ち破ったのが、版籍奉還(はんせきほうかん)である。

 それは大和王朝時代やまとおうちょうじだい公地公民(こうちこうみん)の制に従い、武士たちが管理していた所領をすべて朝廷に返納せよ、と言うものだった。これにより政権は返上したものの、四百七十万石の覇王だった慶喜は、その影響力のすべてを剥奪(はくだつ)されたのだった。

「しかしそれでも、慶喜(きょう)は戦いを択びませんでした。開府二百五十年以上になんなんとする江戸の都を戦乱に陥れ、人々を戦火によって追うことになるのが忍びなく、上野寛永寺(うえのかんえいじ)に籠られ、絶対恭順を貫かれたのです」

「つまり逃げたのね?」

 シャーロットと弾正は揃って眉をひそめた。

「そうさ、奴は国賊にだけは、なりたくなかったんだ。でわけでまだ鳥羽伏見(とばふしみ)で戦ってる、おれたちを見限って大坂湾から江戸へ、てめえだけ脱出したのさ。だがな、おれに言わせりゃ戦って国を盗らねえ武士、ってなあ、武士じゃねえんだよ」

 そこで弾正は何かを思い出したように、自分の佩刀(はかせ)を手の中に納める。

「あなたたちの国にも、銃はあるんでしょう?」

 まさかその剣一本で、戦争を潜り抜けてきたわけはないと、シャーロットは鼻白んだ。

「メリケンさんには、信じられねえだろうがな。案外死なねえもんさ。おれはそれで蝦夷地(えぞち)の果てまで行った男だって知ってる」

 北海道がロシアやシベリアに近い地だと聞くと、シャーロットは目を丸くしていた。

「あなたたちも、そんなところまで!?」

「い、いえ。わたしたちの戊辰戦争は、江戸で和平が成立するまででした。わたしたちの最後の戦地は上野と言う山、九度山練兵隊(くどやまれんぺいたい)はそこで解散になりました」

 旧幕を追い払った維新政府軍は京都から江戸に朝廷を移し、これをもって東京府(とうきょうふ)、と称した。()、とは古来、政庁を表わす言葉であり、王朝時代以来、初めて武士の手から天皇陛下へと、国家の主権が移ったことが、はっきりと宣じられた瞬間だった。


「いい銃だ。使い込めば使い込むほど、手に馴染む気がする」

 食後、レズリーは萌黄の銃を手入れしてくれた。機関各部にたまった砂埃を除去し、脂を引く。何しろ長旅を経てきたものだ。だがそれにしては萌黄の銃は、驚くほど不具合の危険性が少なく、レズリーは惚れこんだようだった。

「悪くないな」

 油を十分にひいた弾倉を回し、レズリーは何度も引き金の強さを確かめる。

 六文銭のエンブレムといい、レズリーには見慣れない銃のはずだったが、熟練したマウンテンマンは銃を愛撫(あいぶ)するうちに教えられずとも、その仕組みを熟知してしまったようだ。

「三十二口径?」

 萌黄は即座に頷いた。

「はい、S&W社の銃弾がそのまま使える仕様です」

 S&W社が一八五七年に開発したとされるRF弾は、日本ではすでに訳され辺縁打撃式(へんえんだげきしき)、と称していた。起爆剤と銃弾が別の雷管式(パーカッション)方式と違い、RF弾の不発が少ないのは、拳銃のハンマーがどこを叩いても、火薬が爆発する仕組みになっていることだ。

 これにより、火薬の偏りによる不発がなくなったのは銃史に画期的だ。奇襲を(ろう)してくる相手に、この銃でならいつでも即座に弾丸を浴びせられるのだ。

「ある方が上海で二挺購入したうちの一挺を、わたしに貸してくれました。それを基に、開発されたうちの二挺なんです。わたしたちの紀州、特に根来(ねごろ)は、近江、堺と並んで何百年も前から、国産銃を生産してきました。この新型も当然、その流れを汲んでいます」

「即座に連発が利くのがいい。連中は、夜、突然来るからな」

「連中?」

「静かに」

 レズリーは、人差し指に唇を当ててみせた。

「耳を澄ませてみろ。犬の遠吠えが、聞こえるはずだ」

 言われて萌黄は、耳を澄ませてみた。

「はい、確かに。どこかで犬の鳴き声が」

「月の出ない晩は毎回だ。だが今夜来たってことは、あんたたちが来たのを、何かで知ったからかも知れない」

 レズリーは萌黄に銃を返すと、今度は自分のライフルに弾丸を装填(そうてん)しだした。

「敵ですか?」

「ええ、でも心配しなくていいわ。兄さんは、慣れてるから」

「客人に寝ずの番をさせるわけには、いかないからな。シャーロット、お前も弾丸を装填しておけ」

「おれも行こう」

 ソファから立ち上がりかけたエイクリーを、レズリーは手で制した。

「大丈夫だ、客人に働いてもらうまでもないと言ったろう。それに仕留められるのは、運が良かったときに限る」

「妙な気配がしやがるな。さっきみたいな、薄気味悪い殺し屋の類か?」

 眉をひそめる弾正にレズリーは、かぶりを振ってみせた。

「そんなもんじゃない。想像を超えるものだ。あんたたちはきっと、見たら驚く」

「行くぞ、萌黄。おれらを案内しろ、といいな」

 と言う弾正を、レズリーとシャーロットはあくまで押しとどめる。

「とりあえずおれの獲物(ゲーム)だ。あんたらは朝食の出し物を、楽しみにしておいておいてくれさえすれば、それでいい」


 こうしてレズリー・エイワスは独り、銃を持って出て行った。

 真っ青な晩夏の月が、丘の上ににじんでいる。猟犬を引き連れたレズリーの影は、その淡い光の中に紛れ込んでいった。それからは時々、遠来の雷のように銃声が響いた気がするが、それも気のせいかと思えるような静かな晩だった。

「よく休んで」

 寝室に萌黄たちを案内すると、シャーロットも眠ってしまった。萌黄はずっと、天井に渡してある丸太に見入っていた。

(…こんなところまで、来てしまった)

 盛大にいびきをかく弾正の横で萌黄は、ふと物思いに(ふけ)る。考えてみればもう、一年以上経つのだ。あの真冬の京都、近江屋で坂本龍馬が脳を盗られ、表向きは幕府方の暗殺者に襲われて命を落としたのは。あれは今思い出しても、芯から冷え込んだ晩だった。

 萌黄は、はっきりと憶えている。長崎で引き上げた不気味な荷物の件について、萌黄の母は分かったことを坂本と話し合いに行ったのだ。香港でどうにか手に入れたイギリス屈指の魔術師、ジョン・D博士の英訳になる『ネクロノミコン』の写しは不完全だとし、オラウス・ウォルミウスによるラテン語の完全版を手に入れていた。

(あの得体の知れないものの正体を知るまでに、母はそこまでした)

 長崎の陸揚げに、萌黄は立ち会っていない。上海疎開地の富豪も肝入りで行われたその陸揚げは、一部の幕府関係者と坂本が主宰する亀山社中(かめやましゃちゅう)においても限られたものだけが関わっており、長らく秘密にすべきものだった。

「さすがに肝が冷えたね」

 その極秘の列席者の中に、勝海舟がいた。そのものの話を母と坂本と、三人で集まってするとき、あの楽天家の坂本が、表情を引き()らせて言った言葉を、萌黄は目の当たりにしている。

「何せあンものは、海の底の棺から引き揚げたになお生きて息をしておるがせよ」

 それは永遠にではないが、恐ろしく長い年月を超えて生き残り、やがて死を超える者。

 それは日本史に、禁忌と言う二文字がはっきりと刻まれた瞬間だった。

 列席した勝の鶴の一声で、幕府はそのものには永遠に関わらないものとなった。だが、坂本と萌黄の母は、研究を続けていた。恩師である勝海舟の意向に背いても。彼らは苦労して引き揚げた、そのものが何物であるかと言うことを、突き止めざるを得なかったのだ。

(化け物)

 萌黄はその雪の晩、飛行する不可思議な物体を見ている。それは|中京区河原町通蛸薬師下なかぎょうくかわらまちどおりたこやくしル、坂本が潜伏する近江屋がある方角から長州藩邸方面へ向かって飛んでいったのだ。

 炭を(おこ)して、萌黄は母を待っていた。鉄鍋に青葱(あおねぎ)を敷き、濃い目の割り下で野鴨(のがも)を煮ていたのだった。伏見の田で獲れた青首は、母の好物でもあった。夜半を過ぎても母は帰らない。

 冬の星座を観ようと外に出た萌黄は、はたと息を呑んだ。幕末、京都の深い闇の中でもはっきりと、見えた。恐ろしく異質な物体が町屋の屋根のすれすれを飛んでいたのだ。それは確かに空中に浮遊して飛行していたのだ。

 忘れてしまいたい。それほどに、おぞましいそのものは。

 タツノオトシゴのような、長い尾を持つ何かだった。大きさといい、人智を超えた名状しがたい形状をしていたように萌黄には思えた。

(まやかし)を見たんだ)

 萌黄の記憶はそれを、必死に打ち消していた。未知なる禁忌に踏み出した母への嫌悪感と危惧が、根ざしていた。その姿こそは悪夢のなせる業、今の今までそう思っていた。

「早く来い、招かれざる客を紹介する」

 夜も白む頃、レズリーが萌黄たちを叩き起こしにきた。

(化け物)

 悪夢は今、彼女の前に姿を現そうとしていた。萌黄は想い知ることになる。やはりそれは、ただの悪夢などではなかったのだ。

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