神無月 ~かみなづき~
村のお山のお社には、高麗渡りの獣が棲んでいる。
鈍色の群雲が風に流れ、月が尖った顔を現わした。四肢を踏ん張る石像に、さやさやと月影が降り注ぐ。凝り固まった背を反らして、太郎狛はうんと伸びをした。
草木も眠る丑三つの時。氏子も巫も夢うつつ。
向かい合わせに据えられた、妹狛の台座は既に空――。
その辛抱の足りなさを、愛しみながらも呆れていると、硬い頭のてっぺんに、こつん、と団栗を投げられた。
「たろ、遊ぼう」
声のした方向を見上げると、櫟の若木に腰掛けて、童姿の木霊が足をぶらぶらさせていた。
「主さんが留守やからいけん」
御影石の台座にのっそりと寝そべって、太郎狛はつれなく、短い尾っぽをぱたりと振った。
「けーちんぼー。鎮守が留守やさかいに、遊ぼて言うてるんじゃろうがあ」
利かん気な木霊はぷうと膨れ面をして、憎まれ口を叩きながら、また太郎狛の頭めがけてこんこんと団栗を投げつけた。
「やあい、やあい、石頭ー。これがほんとの石頭ー」
「やかまし!」
「ひゃあっ」
太郎狛に一喝されて、木霊は枝から転がり落ちた。ぶるりと身を震わせて、憑代の櫟の中にするりと逃れる。
邪魔な木霊を追い払い、太郎狛は台座から飛び降りた。敷石を辿って鳥居の下まで行けば、なだらかな山の裾野に寝静まる、小さな村が見渡せる。
今はかみなづき。神無しの月。この村の鎮守の神様も、出雲の国に出かけている。
鎮守の神の留守を預かって、邪気を払うが狛犬の心意気。爛々と瞳を輝かせ、太郎狛は月に向かって咆吼した。
人には聞こえぬ声に応えて、里犬山犬が次々と唱和する。そうして祈祷を締めくくるようにして、最後に妹狛が高く吼えた。
「兄さん、ただいま」
地を蹴り長い石段を駆け上って、妹狛は一足飛びに神社に帰ってきた。
「どこへ行っていた?」
「志乃のお産を見てきたのん。初めての子やからねえ、ちょっとでも軽うなるように」
「もう終わったのか?」
「うん。元気な男の子。お七夜には、見せにきてくれる筈」
「そうか、それは楽しみじゃ」
村人に子宝が授かった。妹狛は嬉しげににこにこと笑う。つられて太郎狛も微笑する。
不意に野分のような風が吹き荒び、慕わしい霊気が鳥居をくぐった。霊気は社の格子戸をすり抜けて、ご神体の銅鏡に潜り込む。
「――お帰り、主さん」
見返ると、見えざる手だけがひょろりと伸ばされ、太郎狛の喉をくすぐって、妹狛の頭を撫でさすった。
社の奥から聞こえるは、ぐうぐうぐうという高いびき。辺り一面に漂うは、芳醇な御神酒の香り。
「主さん、また飲み過ぎやのん」
妹狛のお小言に、太郎狛は呵々と笑う。
村のお山のお社の、鎮守の神は今年もまた、千鳥足でお戻りだ。