VSシエロ。その2(りんご視点)
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こんな物は、断じて下着ではない。
下着ではないけれど、あの男に言わせれば『そんなことはどうでもいい』のだろう。それに確かに自分としても、自分に本当に『力』があるのかどうか、確かめてみたい。
そのためにも、全く何も下着としての役割を果たしていないエアパイツ強化装置をカーテンの締めきった自室で身につけていたところに、
『今日は中止だ』
という、極めて一方的な連絡が勇登から入ったのだった。
「は?」
携帯電話につけた小さなアマガエルのストラップが、ぷらぷらと寂しげに揺れる。その通話の切れた画面を唖然と見下ろしながら、りんごはキョトンと立ち尽くした。
視線を上げると、そこには変態的な下着を身につけた自分が、姿見の中で間抜けのような顔をして立っている。
中止? 人がせっかく意を決してこんな恥ずかしいブラジャーを着けたというのに、急に中止とはなんだ。しかも一つの説明もなしで。
と、りんごは笑いものにされたような気分で思わず苛立ったが、先ほどの勇登の声がやけに緊迫していたことをふと思い出した。
――もしかして、何かあったの……?
そう思うと、このまま黙って家に閉じこもっている気にはどうしてもなれなかった。
ありがたさなど全くないにしろ、勇登は自分のためにも何かをしようとしてくれていたのだ。つまり、勇登に何かが起きたなら、その責任は自分にもあることになる。
エアパイツ強化装置を脱ぐか否か迷ったが、今は何より急ぐべきと判断して、それを身につけたまま再びセーラー服に袖を通してから、りんごは勇登のアパートへ足を向けた。
りんごは母と二人暮らしで、その母は昼も夜も働きに出ている。
貧しさゆえではなく、ひたすら働くことだけが生き甲斐であるがゆえのようにほとんど家へ帰らないが、その本当のところは、母はただこちらと顔を合わせるのを避けているのだった。
『貧乳が一縷の望みをかけて産んだ子もまた貧乳。母は自らを責め、その罪の意識から我が子を直視できない』
こういうことはよくあるらしいが、りんごはそれをとても馬鹿馬鹿しいと感じていた。
『自分が貧乳なんだから、その子供も貧乳になるのはほとんど当たり前じゃないか。そんなことは子供を産む前に覚悟しておけ!』
と言いたいところなのだが、どうやら深刻に悩んでいるらしい母に向かって、そんな正論を叩きつける気にはどうしてもなれないのだった。
ともかくそういうわけで、今も自宅にいるのは自分だけである。
だから、扉にしっかりと鍵をかけてから家を出て、すぐ傍のアパートへ走り、その路地側の壁に設けられている階段を上ろうとした直前、自宅とアパートのわずかな隙間に、スクールバッグがぽつんと置かれてあるのを見つけた。
――なんでこんな所に鞄が……?
怪訝にそれへと歩み寄り、ひょっとして勇登の物ではないかとその中身を確認しようとその傍に屈み込んだ瞬間、
「やはり来ましたね」
すぐ背後で、どこか嬉しそうな、しかし酷薄な声がした。
息を呑んで背後を振り向き、りんごはそこに立っていた女性――その本性を現したように無機質なスーツに身を包んだシエロと向かい合う。
「あなた……乳安の人ですよね?」
「ええ、そうですよ。ですから、その職責に則って、あなたに話を伺いに来たのです」
飄然とした笑みを浮かべてシエロは言う。人を小馬鹿にしたようなその表情に思わずムカッとしながら、りんごは正面を切って相手を睨みつける。
「なんであたしが連行されなきゃいけないんですか?」
「しらばっくれたって無駄ですよ。あなたは富士岡勇登の計画に賛同したのでしょう?」
「あたしは別に、まだ賛同も何もしてませんけど」
「しかし、『まだ』ということは、その可能性もあるというわけですね。ならば、やはり話を聞かせていただかねばなりません」
と、シエロはその冷たい目元に笑みを浮かべてこちらへ踏み出し、それに身構えるりんごに笑みを深めて言う。
「大丈夫です。あなたを殺すことまではしませんよ。本当にただ少し話をするだけです、あなたとはね」
『あなたとは』ということは、やはり勇登もまた乳安に捕らえられたのだ。りんごはそう察して、同時に抵抗の無意味さも察してしまった。
――勇登、あんた……。
何を簡単に捕まっちゃってるのよ。あたしはこれからどうなるの? 勇登はまさか本当に殺されたりはしないよね? あたしに力があるって期待させるようなこと言って、それだけで呆気なく終わりって、一体なんのよ! ああ、でも、どうしよう? やっぱりお母さんにも連絡されるのかな……?
心と思考は千々に乱れ、しかし何もかも拍子抜けして空っぽになったような気分で、りんごは手を引かれるままシエロの後について行く。ついて行っていると、唐突、
「だっ!?」
びたーん! と音がしそうなほど、シエロが前へとすっ転んだ。
その足元に突き出していた真っ赤なタイツを穿いた足、その伸びてきている方向へと呆然と目をやると、そこには自販機の脇に立っている真っ赤な郵便ポストがある。
が、突如、その両側面を突き破って黒服の手が現れ、続いて上面を突き破って勇登の顔が現れた。勇登は声を失うりんごの手を掴み、
「来い! こっちだ!」
と、段ボール製らしいその箱をバタバタガコガコと揺らしながら駆け出した。
「あ、あんた、何してんのよ! っていうか、なんでそんなカッコしてんのよ!」
「いざという時のために、街中に変装道具を隠しているんだ。ああ、ちなみに、俺を乳安の支部へと連れて行こうとした調査官は、トイレに行きたいと言って撒いておいたから安心しろ」
――安心って……!
りんごは驚きの余り口も利けなくなりながら、頼もしいのだかなんだかよく解らない勇登に連れられるまま息を上げて走り、やがて近くを流れる大きな川の河川敷へとやってきた。
雑草の生えた坂の下にあるそこには、土の野球グラウンドが二つ並んでいるが、今はそこにカラスの一羽さえもいない。だが、すぐ後ろにはシエロが何やら喚き散らしながら迫りつつある。
逃げ切れないと判断したのだろうか、勇登は河川敷へと降りてすぐ、鉄橋の手前あたりで足を止めると、りんごを背後に隠すようにしながらシエロと対峙した。
「よ、よくもこの私をコケにしてくれましたね、富士岡勇登……!」
息を切らし髪を乱しながら、シエロはその手にどこからともなくナイフを出現させる。刃渡り二十センチほどの、柄も刃も真っ黒なナイフ。どうやら、あれがシエロのエアパイツらしい。
「シ、シエロさん、このような目立つ場所で過激なことは……」
シエロの後を追ってきていた調査官が、おずおずと言う。が、シエロは先ほどまでの飄然とした表情をかなぐり捨て、額に青筋立ててその女性を突き飛ばす。
「黙れ! 私の部下のクセに、私に指図するんじゃない! これは久しぶりの『マル特事案』なんだ! 誰にも邪魔はさせねえぞ!」
「まるとく……?」
「暗殺の指示が出ている事案という意味の、乳安の隠語だ」
勇登はこちらを振り向きもせず平坦に言い、
「りんご、お前はここから逃げろ。流石にお前までは、その対象ではないはずだ」
「で、でも……」
「俺には構うな。俺に会ったことも、今ここで見ていることも、全て忘れて生きろ」
「流石は富士岡勇登、賢明な判断ですね。そうなんですよ、新原りんご、あなたは邪魔者なんです。あなたは見逃してあげますから、さっさと消えてください。この『ファレーナ』の餌食になりたいのであれば、話は別ですがね」
と、シエロは自らの眼前でナイフを光らせながら、ニヤとりんごに笑みかける。
その、まるでナイフそのもののような、これまで生きてきて見たこともない類の笑みを見た瞬間、りんごの全身を悪寒が突き抜けた。
息も止まるほどの恐怖が胸を締め、何も考えることができなくなる。そうして、気づくと独りでにりんごの足はその場から逃げ出していたのだった。
――あたしには無理っ……! あんな人たちと戦うなんて、あたしになんてできるわけないじゃん……!
自宅がどちらにあるかさえ解らなくなるほど混乱しながら、りんごは転がるようにひたすら逃げ続けた。
誰も追ってきていない背後を何度も振り向きながら、交差点で危うく自動車に轢かれそうになりながら、可能な限りあの河川敷から逃走した。
「はっ……! はっ、はぁっ、はぁっ……!」
肺が痛むほど息が上がって足が止まり、膝に両手をつきながら肩を上下させる。後ろを確認し、宅配便のトラックと、忙しそうに駆け足で荷物を運ぶ男性の姿だけがある住宅街の光景を見ると、ほっと肩から力が抜けた。
しかし、やがて呼吸がいくらか静まり、秋の冷たい夕風に汗が急速に冷やされてくると、りんごは胸に空虚な穴が空いていることに気がついた。澄み渡る秋の夕空が、遙か高みから自分を見下ろしているのを背中に感じた。
『りんご、君には確かに力がある。そして力を持つ者には、戦う義務がある』
トラックが脇を走り去っていき、やがて世界が停止したような静寂が周囲を包むと、どこからともなく勇登の声が頭に響く。
――あたしは……。
りんごは膝に手をついた姿勢から背中を起こし、淡い水色の夕空を横切る飛行機雲を見上げる。
――あたしはまだ、何も試してない。
なのに、怖いからといって逃げ出してしまった。勇登を置いて、自分だけが助かればいいと一人で逃げてきた。自分には戦う力があるかもしれないのに、戦う力のない勇登を見捨てて、逃げてきたのだ。
自分に力なんてあるはずがない。こんな貧相な胸の自分が、エアパイツなど持てるわけがない。でも、
『君ならできる。君は美しい』
勇登はそう言ってくれた。きっと、本当に自分を信じていてくれた。
「なのに、あたしは……!」
自分自身を信じないどころか、自分を信じてくれる人さえ信じない。可能性から目を背けて、人の命もお構いなしに言い訳ばかりしている。なんて臆病な、なんて情けない人間だろう。
バシン!
と、静けさの中に鋭い音がこだまする。
りんごは自らで自らの頬を力の限り叩き、その痛みに涙をにじませながら回れ右をした。
「ああっ、もうっ!」
自分自身に怒鳴りながら、りんごは来た道を再び全速力で駆け戻る。ヒリヒリと熱い右の頬を、冷たい風が撫でるように冷ましてくれる。
足に翼が生えたような速度で、なのに不思議と息が限界まで上がることもなく、りんごは風を切って疾走し、再び河川敷へと戻った。が、そこに勇登の姿はない。シエロら乳安の姿もない。
――まさか、もう……!