驚きと……。
女神像があった洞穴から、シャルナクの家である洞穴へと戻ってきて、それからユートは昏々と眠り続けている。
『皆さん……誰ですか?』
こちらを見上げてそう言ってすぐ、ユートはほとんど意識朦朧となって、シャルナクに抱えられてここへと戻ってきた。
ケガはなく、体調が悪そうな様子もなく、ただすやすやと眠っているその様子を、リラ、ダイン、シャルナクは戸惑いながら静かに見守っていた。
パチパチと炉の熾が静かに爆ぜる音を聞きながら、何をすることもできず一様に沈黙していると、ふとユートが深く胸に息を吸い込んだ。そして、
「皆さん、お話が」
瞼は開かないまま、言った。
が、その声はユートの声のようで、どこか違う。ユートの声よりもどこか低いその声に違和感を覚え、リラはダインを見る。
ダインは炉の向こう側で立ち上がり、厳しい眼差しでユートを見下ろす。
「そなた……ユートではないな」
「はい、私は勇登の父です。わけあって、今は勇登の中にいます」
――ユートさんの、お父さん……?
水を打ったように静まり返る洞穴の空気に、ユートの父だという人間の落ち着いた深い声が響く。
「本来なら外へ出て話をさせていただくのが礼儀ですが、今の状態を不用意に崩すのは得策ではないと私は考えます。したがって、このような形で話をさせていただかねばならない非礼を、まずはお詫びしたい」
「ユートの中に、もう一つ別の誰かがおる。それは薄々勘づいておったが、よもやそれが父であるとは……全く、そなたらには驚かされてばかりじゃ。が、今はそんなことばかり言っとられん。そなたの考えを聞かせてくれ。今、ユートに何が起こっておる」
「私にも解りません。しかし、間もなく勇登は目を覚ますでしょう」
「とりあえずは無事なのじゃな?」
「ええ、身体も無事のようですし、命が危うい状態ではないでしょう。ですが、間もなく目を覚ます勇登は、勇登であって勇登ではありません」
「どういうことじゃ?」
「勇登の本来の精神は、いま深い眠りに就いています。私の声さえも届かない、深い心の底で……。ですから、皆さんにお願いをしたい。どうか、勇登を見守ってやってください。いずれきっと、勇登は本当の意味で目を覚ますでしょう。それまで、どうか」
言葉が終わりに近づくにつれ、その声は掠れて弱々しくなっていった。そして、末期の呼吸のように一つ、深く息を吐いたと思うと――ユートがパッと目を開いた。
「ん……」
眠たげに目をこすりながら身体を起こし、皆の顔を見回して、
「ここは……?」
「こ、ここはシャルナクの家じゃ。ユートよ、そなた、本当にわしらのことを憶えておらぬのか?」
「おじいさん……誰ですか?」
「なんということじゃ……」
ダインが力なく座り込むと、その傍らで座っていたシャルナクが、炉の鍋からお湯をコップへ移し替え、それを持ってユートへと歩み寄った。すると、
「ひっ……!」
ユートが、まるで幼い子供のように怯えてリラの背中に隠れる。
「だ、大丈夫ですよ、ユートさん。あの人はあなたのお友達です」
思わず面喰らったが、どうやら本当に怯えているらしいユートに冷たく接することなどできない。安心させようとリラが笑みかけると、ユートは上目遣いにこちらを見つめ、
「本当、ママ?」
「マ、ママ……?」
ユートはこくんと頷いてから、目にうっすらと涙を浮かべ、
「ママじゃ……ないの?」
「え? い、いえ……」
もはや何に驚いてよいかも解らず、リラはただパチパチと目を瞬く。
シャルナクはもじもじと俯くユートを呆然と見つめていたが、やがてコップを炉の傍に置くと、肩を落としてとぼとぼと洞穴を出て行った。ユートに怯えられたことが酷くショックだったらしい。
ダインが、白昼夢を見せられているように目を丸くしながら言った。
「尋ねるが……ユートよ、そなたは今、何歳なのじゃ?」
「…………」
再びリラの背中に隠れ、ユートは口を噤む。
リラは、自らの腕をかよわく掴んでくるその手にそっと手を重ねて、
「ユートさんは、今おいくつなのですか?」
「……九歳、です」
空気が凍りついたような静寂。
ダインもリラも身動きさえ取れなくなり、ユートはそんなこちらを目をくりくりさせて交互に見ていた。
なんということじゃ……。ダインは再び呟き、シャルナクが置いていった湯で口を潤してから、言った。
「大きな力が一気に身体へ流れ込んだせいなのかどうか、わしにもよく解らんが……どうやらユートは、あの時のショックで精神が退行してしまったようじゃの……」
「ど、どうすればいいんですか? ユートさんには時間が……!」
「うむ。しかし、こればかりはわしにもどうしようもない。わしらに今できることは、ただユートを信じて待つことだけ……いや、そうではないな。お嬢さん、今はおそらく、そなたの存在が何よりも重要な時じゃ」
「わたしの存在……?」
「動物の本能のようなものなのか、見たところ、ユートはそなたを母と思っているらしい。
母というものは、男には逆立ちをしてもなり代われぬ重要な役目。じゃから、どうか頼んだぞ、お嬢さん。今のユートにとっては、そなただけが頼りであり、安らぎなのじゃ」
「は、はあ……」
そう言われても、子守りなどしたことがないのだから、何をすればよいか全く解らない。戸惑いながらも、ダインにやれと言われればやるしかないので頷くと、
ぐ~っ。
と、緊張の欠けたような音が洞穴に響いた。
一瞬、自分の腹が鳴ったかと思って慌てたが、どうやらそうではないらしい。リラの傍にいたユートが居心地悪そうに腹を押さえて、
「ママ……お腹空いた……」
「え? あ、ああ……そ、そうですね、わたしもです。じゃあ、何か朝ご飯を作りましょうか。ユートさんは何が食べたいですか?」
「食べたいもの? うーん……あっ、ハンバーグ!」
両手を元気に上げ、ピョコンと小さく跳ね上がりながらユーマは叫ぶ。しかし、聞き慣れない料理名である。
「はんばーぐ? なんですか、それ?」
「ハンバーグ、作れないの……?」
笑顔に輝いていたユートの表情が途端に陰り、その目にじわりと涙が盛り上がる。
「い、いえいえ! 大丈夫、ちゃんと作れますよ。でも、それはまた今度ね。ユートさんがいい子にしてたら、たくさん作ってあげます」
「うん! 僕、ママの言うこと聞いて、いい子にする!」
再び満面の笑みを浮かべて、ユートはガバリとこちらに抱きついてくる。
その無邪気さと、それに似合わない体重の重さにギクリとさせられるが、まさしく子供らしいその甘えっぷりを見ていると、なぜか不意に笑みがこぼれた。
今まで感じたことのない感情……驚きの影の中でふと芽生えた、この何か満たされたような気持ちはなんだろう?
自然と手が伸びて、ユートの頭を撫でる。
あんなにも頼りがいがあって、いつも毅然としていたユートが、今はこちらの胸に顔を押し当てて、幼児のように笑っている。
それはやはり奇妙な感覚だったが、それよりも、数年ぶりにしっかりと地に足がついたような、不思議な精神の安定が胸に広がっていくことのほうに、リラは戸惑っていた。
「なんということじゃ……」
顎が外れたようにポカンと口を開けながら、ダインが呟いた。




