女神の炎。
「翠花さん? どうかしました?」
ほとんど幽閉されているような部屋の中で、ふたり何もすることがなく、黙って窓際のテーブルで向かい合っていた。
すると、手元に視線を落とした翠花の表情が、ふと凍りついたような気がした。
翠花はこちらの問いに何も答えず、テーブルの下、太ももの上に置いている自らの両手をじっと見下ろしていたが、やがてポカンとしたような顔を上げた。
「りんご……これ……」
と、翠花は両手で包み込むように持っていた金色の球体――勇登のエアパイツをこちらに見せる。
「えっ……?」
慌てて、自らにも授けられている『ゴールデンボム』をスカートのポケットから取り出し、りんごは言葉を失う。
『ゴールデンボム』
その文字通り、それは眩いまでの金色に輝いているはずだった。つい今しがたまではそうだったのを、りんごはその目で確かめたばかりのはずだった。
しかしどういうわけか、今はその見る影もない。ゴールデンボムから、全く輝きが失われているのだった。
あたかも泥団子のように生気が失われているそれを、りんごと翠花は呆然と見下ろす。が、ほぼ同時にハッと息を呑む。
「まさかっ……!」
「まさか、勇登くんに何か……!」
翠花は弾かれたような勢いで立ち上がり、
「行くわよ、りんご!」
「え? 行くって、どこに?」
「もちろん、勇登くんを捜しによ」
「でもアイツ、『今は騒ぎを起こすな』って、あたしたちに……」
「そんなことを言っている場合ではないでしょう。今この瞬間、勇登くんが危険な状態にいるのかもしれないのよ?」
「そうですけど、でもまだ『かもしれない』っていうだけで……」
「りんご」
と、翠花は怒ったような顔でこちらに向き直り、
「あなたは勇登くんに怒られることと、全てが手遅れになること……どちらが本当にイヤなの? それが起きてしまった時、本当に後悔をするのはどっち?」
「それは……でも、あたしたちはアイツの居場所も知らないんだし……」
「それがなんだというの? 居場所が解らないなら、世界中を捜すまでのことよ」
「いやいや、そんな簡単に言われても」
思わず呆れてしまうが、ふと思い出す。
「うん? でも、そういえば……」
「……? どこか思い当たる場所でもあるの?」
「あ、いや……今ちょっと思い出したんですけど、そういえば今朝、あの金髪の男が『乳の波動』がどうのこうのとか言ってたな、って」
「『乳の波動』? 波動……なるほど、波動! つまり、音と同じ『波』。それを辿ることができれば……!」
「本当にそんなものがあればの話ですけどね。っていうか、あったとしても、どうやってそれを感じ取ればいいのか……」
――もしこれさえ生きてたら、何か手がかりになったかもしれないのに……。
最早なんの力も感じない『ゴールデンボム』を握る手に、思わず力がこもってしまう。と、すっ……と目の前から衣擦れの音が聞こえた。目を上げて、
「え」
ギョッとする。
こちらの世界の下着――紐ビキニのようなパンツをこちらに見せつけるように、なぜか翠花がドレスのスカートを思いきりたくし上げている。
だけでなく、ブラジャーまでも勢いよく捲り上げる。ぶるん、と音がしそうなほど、その大きな乳房が揺れながら顔を出す。
「りんご、パイモニーを」
「や、やっぱり世界中を捜し回るんですか?」
「ええ。けど、その前に試したいことがあるの」
「試したいこと?」
「『ゴールデンボム』に、私たちのミルクを注いでみましょう。勇登くんの命を取り戻せたあの時のように、これもまた蘇らせることができるかもしれない」
「なるほど……解りました」
若葉色のドレスと白い下着を、翠花と同じようにたくし上げる。互いのふくらみの頂上同士を触れさせ――パイモニー。今は翠花に主導権を与える。
りんごと合体し、白い輝きを纏う女神となった翠花は、手の中にある二つの球をテーブルに置き、その真上で、心臓に近い左の乳を絞る。
ぽたり、ぽたりとミルクが垂れ、土色の球体に鮮やかな白を纏わせる。だが、テーブルに小さな水溜まりができるほどそれを注いでも、とんと反応はない。
『ダメ……みたいですね』
「……そうね」
パイモニーをしている今、痛いほどに伝わってくる。
焦り、恐怖、苛立ち……。
それらの感情で、今にも心臓が張り裂けそうだ。この勇登へのあまりにも強い想い――まるで火山のように激しい愛情には、毎度のことながら少し悔しさを感じてしまう。
だが、今はそれどころじゃない。りんごがどうにか翠花から感覚を切り離し、よい意味での冷静さを保とうとしていると、廊下の外から何やら騒がしい音が聞こえだした。
ショベルカーでも走っているような、ガチャガチャという金属音の混じった重たい音。それが次第にこちらへと近づいてくる。
『なんですか、この音? 足音?』
「パイモニーをしたことがバレたのかしら……。でも、構わないわ。このまま行くわよ、りんご」
『ホ、ホントに行くんですか? あたし的には、やっぱりここにいたほうがいいのかなって思うんですけど……』
「ごめんなさい。どうしても我慢できないの」
ゴールデンボールを掴み上げ、翠花はテーブル脇の大窓を開け放つ。すると、
「お待ちください!」
ドアが開かれ、グリーゼが部屋へ駆け込んできた。その後ろには、重厚な鎧を着込んだ大勢の兵士たちの姿がある。
翠花が動きを止めたのを見ると、グリーゼは安心したように一つ息をついて、「そこで控えていなさい」と兵士たちに囁いてからこちらへ向き直る。
「どこへ行かれるのですか? 彼を牢に置き去りにして、自分たちだけで逃げるおつもりですか?」
「あなたには関係のないことです」
勇登たちは既に牢になどいないのだが、それを教えてやる義理などない。それにもしかしたら、こちらが勇登から何も知らされていない可能性があると考え、それを利用しようとしているのかもしれない。
安易に余計なことは言うべきでない。瞬時にそう判断した翠花に、グリーゼは苦笑を交えて言う。
「やはり、あなた方もご存知なのですね。牢の中身は既にもぬけの殻であるということを」
「もぬけの殻? どういうこと? 勇登くんは牢にいるのではないの?」
「ふっ。よいのですよ、そのような白々しい演技はしなくとも。あの遊仙のダインも、いつまでもこちらを騙せるとは思っていなかったでしょうしね」
グリーゼは引き止めに来たとは思えないような砕けた調子で言い、テーブル上のミルクの水溜まりに怪訝そうな目を向ける。
「……そう」
既に知られていたなら、何も気兼ねすることはない。そして、一秒たりとも相手をしている暇はない。
「なら、話は早いわ。私はもうここを離れます。そして、あなたにはそれを止めることなどできない」
「その通りです。しかし、だからといって、このまま見過ごすことはできません。何せ、あなた方はこの国を救う光明なのですから」
「そう感じさせてしまったのなら、謝ります。けれど、りんごが言ったように、それはあくまでそちらの勘違い。こちらがいつまでもそれにつき合うことなどできないわ」
「ふむ……何か妙に慌てたご様子ですが、彼に何かあったのですか?」
グリーゼが鋭く目を光らせる。翠花が思わず目を逸らすと、グリーゼはわずかに沈黙を挟んで、それから全てを察したように、
「そうですか。ならば、しかたがない。わたくしにあなた方を止めることはできません。どうぞお行きなさい」
『やっぱり、いい人……』
りんごは思わず呟く。グリーゼは漆黒のローブを揺らして窓の外、広いベランダへと出て、
「このまま彼を一人にしておくのは、さぞご不安でしょう。彼の安否はもとより、彼の心が離れていってしまうことが……」
「心が……?」
「ええ。いま彼のもとには、あの美しいハーフエルフがいるのでしょう? となれば、何かアクシデントに見舞われた彼の癒しとなっているのは当然彼女であって、そしてそんな彼女に心が傾いてしまうのは、男性にとってはごく自然な――」
雷撃のような速さだった。
翠花はグリーゼの鼻先に長槍、『天の雷』を突きつけ、
「彼を愚弄することは絶対に許しません。今の言葉、撤回しなさい」
声は冷ややかに、しかし胸の裡には炎を猛らせながらその目を睨みつける。
刃が掠めたらしい、グリーゼの黒い眼帯がはらりと落ち、左目が露わになる。右の青い瞳とは異なる、明るい緑色の瞳……。
グリーゼは当然ながら驚いた様子でよろよろと後退し、手で左目を隠してこちらを睨み返す。
気のせいだろうか、その瞳が蛇のように縦に割れていた気がしたが……。
そうりんごが驚いていると、翠花が駆け出してベランダから飛び立った。大きな二枚の羽で空気を叩き、一気に青空高くへと舞い上がる。
しかし、
「お待ちください!」
背後から男の声で呼び止められる。
軽く振り返ると、白いフードつきのローブを着た数人が、空を飛んでこちらを追ってくる。まだ全力で飛んでいたわけではなかったが、男たちはいとも簡単に翠花を追い抜き、前に立ちはだかる。
「お願い致します。何卒、城へお戻りください」
男たちはフードを目深に被っていて、その顔はほとんど見えない。だが、そこにあるのが敵意ではなく畏れであることは容易く解った。
翠花は何も答えず、先程よりも格段に速い速度で再び舞い上がる。
と、後方から何か異質な気配が飛んでくる。見ると、何やらわずかに空気の歪みが見える。こちらを拘束するための魔法だろうか。
「っ!」
他愛もない。翠花は『天の雷』を振るってそれを払い飛ばし、瞬く間に男たちと大きな城とを、地平の彼方へと追いやったのだった……。




