清く温かな光。
目が覚めると、洞穴の部屋の中にリラの姿がなかった。
ダインはまだ死んだように眠っており、洞穴の空気はまだ夜中のようにひっそりとしている。
が、腕時計を見ると、眠りに就いてからおよそ八時間が経っている。よほど疲れていたらしい、布団が岩であるにも拘わらず、思いのほかグッスリと眠ってしまった。
リラがかけ返してくれたのだろう、いつの間にか身体にかけられていた自分の制服に腕を通してから、勇登は痛む背中を軽く捻りつつ洞穴の外へと出る。
そこには、昨夜とはまるで異なる森の姿があった。
朝露を纏う木々や草の緑に朝の光が当たり、森中がキラキラと輝いている。聞こえてくるのは当然、車の排気音などではなく小鳥たちの囀りで、一瞬で眠気も消え去るほどに空気は冷たく、清らかだった。
ふと、その清冽な空気に水音が混じった――ような気がした。
そういえば昨夜、ダインが、この地はよい水に恵まれていると言っていた。喉が渇いているし、顔を洗いたいし、ちょうどいい。リラを捜しがてら、水辺へ散歩でもしよう。
そう思って、勇登は水音のした気がするほうへと歩いて行く。
透明に濡れた草を踏みしめて森を歩くことしばし、やがて目の前の景色が開けて、青空を映すように澄んだ広い池が姿を見せた。
だが、姿を見せたのはそれだけではなかった。一人の天使が、そこで水浴びをしていたのだった。
水面の光が逆光になって、そのふくよかな身体のラインは、はっきりと描き出されている。女性的な腰の丸み、ほどよい肉づきの腹のラインと、水滴を滴らせてぷるぷると弾む、胸の二つの果実……。
母性と官能、その両方を極限の高みで融合させたその肉体を前にして、勇登が呆然と立ち尽くしていると、
「ああ、私の愛しい人。あなたはどうしてここへ来てしまったの?」
と、不意にリラが言った。くるりと回れ右をして、その片手を自らの豊かな胸に、もう一方の手を空へ向けながら、
「何を言うのだ、アルテ。私には君が全てで、君がいなければこの命に意味などないのだ。なのに、どうして死を恐れる理由があろうか」
再び回れ右。両手を胸に当て、
「ああ、私の愛しいユーマ。あなたはどうしてユーマなの? 私たちはなぜ――」
「美しい……」
まるで女優のような迫真の演技をするリラの姿に、勇登は思わず呟いてしまった。すると、
「え――きゃっ!?」
こちらに気がついたリラが、水面の中へ身体を隠す。その声で勇登もハッとして木陰に戻る。
「失礼しました。あまりに美しいので、思わず……。しかし、捜しました。ここで水浴びをしていたのですね」
「す、すみません、勝手に出て来ちゃって……。でも、起きたらなんだか少し頭が痛くて……あ、そういえば、その……わたしに服をかけてくださって、ありがとうございました」
「いえ、あなたは世界の宝なのですから、それしきのことをさせていただくのは当然のことです。――ところで、その頭痛ですが……おそらく、きのう飲んだ酒のせいでしょう」
「はあ、やっぱり、そうなんですね……」
「その症状からも解るとおり、どうやらリラさんは酒が合わない体質のようです。昨日のように、酔ってバッタリと眠ってしまうことは、あなたのような女性には非情に危険なことですし……これからは例え人に勧められたとしても、もう飲むのはやめておいたほうがよいでしょう」
「え? えーと……」
リラは妙に頬を染めながらもじもじとして、
「そ、そうですね。じゃあ、そうします。お酒、とても美味しかったような気はするんですけど……」
今の控えめな性格からは全く想像できないが、酒に酔ったリラは老人の頭を躊躇なく瓶で殴る狂犬である。だから、リラ自身のためというのはもちろん、周囲の人のためにもそれがいいだろう。
「ところで、リラさん、一つ、訊きたいことがあるのですが」
「は、はい、なんでしょうか」
池から上がり、脱いだ服の傍に畳んであった布で身体を拭いているのだろう、その気配を感じつつ、
「リラさんは……人間を恨んではいないのですか?」
「恨む?」
「あなたの母親は、人間に殺されたも同然です。だから、当然の感情として、あなたは人間を恨んでいるはずです。僕やダインさんと接していて、その様子は全く見られませんが、やはり……」
ここまで連れてきて、今さらこのようなことを訊くのは遅いかもしれない。しかし、やはり今後上手くつき合っていくためにも、知っておかねばならないことだろう。
そう思って尋ねた勇登の問いに、リラはしばし沈黙してから答えた。
「いえ、わたしは恨んでなんていません。恨んでなんていません、けど……正直に言うと、恨みたい気持ちもあるかもしれません」
「……そうですか」
「でも、そういう気持ちはあるかもしれませんけど、わたしは人を恨みません。だって、それって簡単なことだと思うんです。結局は、ただ自分が楽になりたいだけっていうか……」
微かに衣擦れの音を立てながら、リラは慎重に言葉を選ぶように続ける。
「それに、わたしには半分、その人間の血が流れているんです。だから、恨めば恨むほど、それはきっと自分に返ってくるわけで……それなら、もっと別のこと……例えば、エルフと人間の中間にいる自分にしかできないことをして、それで誰かに感謝をしてもらえたほうが、幸せに生きられる気がするんです」
「…………」
「すみません、わたし、上手く説明できてないですよね」
と、服を着直したリラが、はにかむような、申し訳なさそうな微笑をふっくらとした頬に浮かべて、勇登の隣に立つ。
清らかな水に濡れた金色の髪はまだポニーテールにはされず垂らされていて、朝の透明な光のためか、その肌は青い血管が透けて見えるほど白く眩い。
その全身から清く温かな光が放たれているような、そんな感覚を勇登は覚えながら、
「あなたは美しい人だ。やはり、僕の目に狂いはなかった」
「そ、そんな、わたしなんて……」
「いや、あなたは美しい。少なくとも、僕はそう断言します。あなたは奇跡のような存在です。だから、もっと自分に自信を持つべきだ。あなたにとっては、きっとそれが踏み出すべき最初の一歩です」
「ユートさん……」
目をパチパチさせながらこちらを見たと思うと、どう返事をしていいか戸惑うように赤らめた顔でオロオロして、まるでこの場から逃げ出すように早足で洞穴のほうへと戻り始める。
りんごや翠花もそうだった。二人も、初めその美しさを称えると、まるでこちらを警戒するように怯えていたものだった。
そう懐かしみながらリラの後について洞穴へ戻りつつ、
「ところで、リラさんは演劇がお好きなのですか?」
「えっ?」
ギョッと驚いたようにリラはこちらを向き、
「や、やっぱり、さっきの……見ちゃってました?」
「盗み見るつもりはなかったのですが、偶然……。ですが、素晴らしかったです。僕は演劇というものには馴染みのない人間ですが、それでも思わず、あなたの演技には見入ってしまいました」
「そんな……!」
と、リラは尖った耳を真っ赤にしつつ顔を逸らし、再び歩き出しながら、
「わたしなんて、ただ好きなだけですから……。単なる真似事です」
「リラさんは演劇を見るのが趣味なのですか?」
「はい、それはもう、休みの日には必ず観に行くくらい!」
リラはパッと表情に花を咲かせ、宝石のように目を輝かせながら、
「演劇って、いいですよね。ドキドキして、ハラハラして、ワクワクして……。
それに、演劇には色んな種族の方々が出て来ます。みんなが一つの舞台で一所懸命に輝いていて、それを見ていると、わたし、なんだかとても嬉しくなってしまうんです。もちろん悲しい物語では悲しくなりますけど、でも、わたしはそれも含めて――」
しばし一人でまくし立てて、ふと言葉を呑み、
「あ……すみません、わたし、一人でベラベラと……!」
「いえ、もっと話してください。リラさんのことをより知ることができて僕も楽しいです。思わず、僕も演劇に興味が湧いてきたくらいに」
「本当ですか? じゃあ、いつか街に戻れたら、一緒に観に行きましょう! でも、どれがいいかな……? やっぱりまずはアレかな? いや、でもアレのほうが……」
と、子供のようにはしゃぐリラの姿に心和らげながら洞穴の近くへと戻ってきて、勇登ははたと足を止めた。
洞穴の入り口、その手前に一人の男が立っていた。
すす色の半袖の上着に、黒いズボンとブーツ、革のグローブを身につけた、丸太のような腕をした身長百三十センチメートルほどの男――シャルナクである。




