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乳ワールド-異世界降誕ノ章-  作者: 茅原
異世界降誕ノ章
54/61

忠告。

 天蓋つきのベッドで、りんごは目を覚ます。

 

 眠る前、『目が覚めたら元の世界に戻っていますように』と心から祈ったのだが、この世界の女神様はそれを聞き届けてはくれなかったらしい。

 

 りんごはシルクのような手触りのタオルケットにくるまりながら、割と手狭な、しかし瀟洒な装飾が細部にまで施されている一室をぼんやりと眺め、それから寝返りをして、隣に寝ている翠花の方を向く。

 

 すると、翠花もまた目を覚ましていた。ずいぶん前から起きていたのかもしれない、険しい目で天蓋を睨んでいた翠花は、小さく溜息をついてから悲しげな目をこちらへ向け、


「おはよう、りんご」

「……おはようございます」

 

 爽やかさとは対極のような気分で挨拶を交わす。と、ドアに耳を当てて物音を探っていたようにドアが開けられ、数人のメイドがなだれ込んできた。

 

 ネグリジェから、簡素ではあるが質のいい、若葉色をした布のドレスに慌ただしく着替えさせられ、朝食の席へと連れられていく。

 

 寝室からさほど離れていない一室に入ると、部屋の真ん中に置かれている巨大な長机の上にはパン、スープ、果物の類などが所狭しと並べられていて、にも拘わらずそこには三つのイスしか置かれていない。

 

 部屋の奥、大きな窓を背にした席には既にハイゼルベルトが座っており、こちらへは目も向けずに黙々とスープを口へ運んでいた。しかし、りんごと翠花がメイドに導かれて席に着くと、


「お二人とも、ご気分はいかがです?」

 

 窓から差す朝陽のように爽やかな微笑をこちらへ向けてくる。


「いいです」

 

 翠花はつんと返すが、ハイゼルベルトはあくまで爽やかに、


「それはよかった。ところで、昨日の話について何か考えてはくださいましたか?」

「……ええ、でも、まだ……」

「そうですか。急かすつもりはありませんが、なるべく早く決断していただけると助かります。あなた方も、彼をあのような場所に長く留めておきたくはないでしょう」

 

 ふと小さくノックがあり、扉が開けられた。

 

 失礼いたします、そう小さく頭を下げてから部屋に入って来たのは、眼帯で左目を隠した一人の男性――ではなく、女性だった。

 

 鋭く整ったその面立ちと、短めに整えられた銀色の髪を見た瞬間、男性かと思ってしまったが、その声と、そして勇登が目を輝かせそうなほど大きく膨らんだ胸は明らかに女性のものだった。


 女性は、翠花よりも背が高いその身体に纏った黒いローブを揺らしながら、りんごの背後を通って王の傍まで歩き、顔を王の耳元へ寄せる。


「王、ご相談させていただきたいことが」

「どうした」

「内密の案件ゆえ、ここでは」

「……解った」

 

 ハイゼルベルトは席を立ち、造花のように綺麗な微笑を翠花に向け、


「では、私は先に失礼。お二人は、どうぞごゆっくり」

 

 と、部屋を出て行く。女性もまたそれを追って扉へと向かい、しかしなぜかりんごのすぐ背後で足を止めると、


「あなたはリンゴさん、でしたね」

「は?」

「なんでもあなたは、王や兵に向かって物怖じ一つせず抗弁したとか……。あのお噂は本当ですか?」

「え? あ、ええと……まあ……」

「ふふっ、そうですか。それは、さしもの王も驚かれたことでしょう。よもや自らの娘であってもおかしくない年齢の女性に啖呵を切られるとは」

「啖呵を切るなんて、別にそこまではしてない……と思うけど……」

「ああ、失礼。名を名乗るのが遅れました。わたくしはハイゼルベルト王の下で宰相を務めております、グリーゼと申します。以後、お見知りおきを」

「はあ、ええと……新原りんごです。こちらこそ、どうぞよろしく……」

「ええ、よろしくお願いいたします」

 

 グリーゼはにこりと柔和に微笑んで、


「できることならば、まだ色々とお話をさせていただきたいところなのですが、いま少々、急ぎの仕事がありまして、それができぬことが大変残念です。なので、よろしければ是非、私の部屋に遊びにいらっしゃい。あなた方であれば、いつでも歓迎させていただきますよ。特上のお菓子と紅茶を用意してね」


 あくまで柔らかな物腰でそう言い、では、と翠花にその青い瞳を向けて会釈し、部屋を出て行った。


 気さくで明るく、イヤミのない、話しやすそうな人だ。あのような人も、この城にはいちおういるのか。そうりんごは嬉しい驚きに打たれるが、ふと目に入った翠花の面持ちは相変わらず暗く沈んでいた。

 

 パンにも果物にも手をつけた様子がない、思い詰めたその様子を見て、りんごはあえて明るく言う。


「どうしたんですか、翠花さん。食欲がないなら、あたしが翠花さんのぶんまで食べちゃいますよ」

「勇登くん、大丈夫かしら……」

 

 こちらの言葉には応じず、宝物のようにその手に持っている金色の球体を見下ろしながら、翠花は呟く。

 

 なんと言葉を返せばいいのだろう。というか、この場で勇登のことはあまり喋るべきではないだろう。部屋に残っているメイドを横目に見つつりんごはハラハラしたが、翠花もまたそれは理解しているらしかった。

 

 それきりじっと口を噤んだ翠花に、りんごは、


「翠花さん、はい、あーん」

 

 と、ぶどうのような果物の一粒を差し出す。


「え……?」

「口を開けて、食べなさい」

「いいの、今はあまり食欲が……」

「あたしは勇登から、翠花さんのことを頼まれてるんですよ。つまり、あたしは今、翠花さんの保護者なんです」

「ほ、保護者……?」

「そうです。だから、はい、ちゃんと食べなさい。言うことを守らないと、後でお仕置きですよ」

「お仕置き……?」

 

 翠花は目をパチパチさせて、意地でも引かないこちらに気圧されたように果実を口へ入れ、それからようやく張り詰めていた表情を解く。


「ありがとう、りんご……。あなたがいてくれて、本当によかった。あなたがいてくれなかったら、きっと、もう私は……」

「それはお互い様です。あたしだって、翠花さんを頼りにしてるんですから」

 

 と、りんごは自分も同じ果実を一粒頬張り、その胸のすくような爽やかな甘みと酸味を味わいながら、


「そりゃあたしだって、何もかも不安ですよ。でも、あたしがいて翠花さんがいれば、それだけで大丈夫だって信じてます。翠花さんは違うんですか?」

「……いいえ、私も同じよ」

 

 と、今度は翠花が別の果実を指に摘み、それをりんごへと差し出す。りんごがそのサクランボに似たものを噛んで受け取ると、翠花は普段どおりの表情で微笑し、


「そうね。私とあなたがいれば、大丈夫。勇登くんのことも、必ず守ってあげられる」

「はい。だから、あたしたちはあたしたちで、いつでもしっかりしていましょう」

 

 『その時』が、いつ来てもいいように。そうりんごが翠花の目を強く見据えると、翠花は確かに頷き返す。

 

 二人、何も受けつけようとしない胃に無理やり朝食を押し込んで、食べ過ぎというくらいに食べてから食事の間を後にする。

 

 と、監視役を兼ねているのであろう中年のメイドに導かれて部屋へと戻る途上、一人の金髪の男が、腕組みをしながら壁に寄りかかって立っていた。

 

 軍人の着る礼服らしき、白い詰め襟の服を纏ったその男は、こちらがその前を過ぎると、


「あなた方が、あの男と共に来たという女性か」

 

 ぼそりと、呟くように言った。目をちらりと上げてこちらを見、


「なるほど。お二人とも、実に美しい。王がご執心なされるのも納得だ」

「何か用? っていうか、あんたは――」

「あの男への敬意から、一つ、警告をしておこう。敵を見誤らないことだ」

 

 ――敵を……? 

 

 なんのことだとりんごが訝ると、翠花が小さく息を呑み、


「『あの男』って、ひょっとして……!? あなたは勇登くんをご存じなんですか?」 

「昨日、私たちは剣を交えた。彼は敬意を払うに値する男ではあるが、少々期待外れでもあった。だが、それはあなた方ふたりの責任でもある」

「あたしたちの、責任……?」

「乳の波動……。あなた方がその力に気づくことができれば、あるいは……」

 

 と、男は半ば独り言のように言いながら、りんごたちが歩いてきたほうへと去っていく。


「忠告はした。後は自分たちでどうにかしたまえ」

 

 静かな廊下の空気に染みるように男の声が反響し、りんごは困惑の中で立ち尽くす。

 

 ――敵を見誤らないこと? 乳の波動……?

 

 彼は何を言っているのだろう。そう困惑しながら傍らの翠花を見やると、その目は全くこちらを向いていなかった。


「昨日の勇登くんのケガは、あの人にやられたんだわ……! 絶対に、許さない……!」

 

 今にもエアパイツ――『(あめ)(いかづち)』を出して飛びかかりそうな形相で、男の背中をギッと睨みつけている。


「…………」

 

 やはり翠花は勇登のこととなると、感情が先行して獣のようになる。彼はどうやら警告をしてくれたらしいのだが、翠花はそれを解っているのだろうか。

 

 ――本当に、あたしがしっかりしないと……。

 

 保護者という立場が板についてきたように、りんごはそう思ったのだった。

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