女神派。その2
思わず荒げたくなる声をどうにか抑えながら、勇登は続ける。
「乳の大小ではない。乳の美しさだけでもない。
顔、首筋、腰のくびれ、手足の肉づき、手の指の形、足の爪の形、あらゆる肉体的造形美を全て兼ね備えた人間はこの世界にごくわずかで、それに内面的美しさも伴うとすれば、全世界でも数えるほどしかいないだろう。
その存在は、まさに奇跡だ。つまり、君は世界の奇跡なんだ」
こちらの気勢に押されたのか、りんごは濡れそぼった弁当箱を抱えながら、その場に立ち止まり続けている。勇登は自らの両手を痛いほど握り締めながら続ける。
「そんな、『女神』とも呼べるような存在の君が、乳ワールドに生きる全ての女性の上に立つんだ。そうして、女神による世界の統治、ほぼ完全なる平等を世に実現する。それが俺の夢だ。俺の目指す世界だ」
「そ、それのどこが平等だっていうのよ……。むしろ、その逆じゃない」
「所詮平等とは、こういうことなんだ。確かに完全な平等ではないかもしれない。だが、女性の価値を巨乳か貧乳かのみで格づけし、ただ貧乳であるというだけで多くの人々を虐げている今この世界よりも、ずっとマシなはずだ。違うか?」
詰め寄る勇登に、りんごは一、二歩後ずさるのみで何も返さない。鳶色に輝くりんごの瞳を、勇登はぐっと覗き込む。
「俺は本気で世界を変えたいんだ。でも、悔しいことに俺は男だ。男である俺には、できることなど何もない。ただ乳ワールドを傍観していることしかできない。だから……だから、どうしても君の助けが必要なんだ」
「助けって……あ、あたしがその『女神』になるっていうの……?」
「そうだ。君は、世界を変えたくはないのか? 君を取り巻く、この理不尽な日常に不満はないのか?」
「不満は……あるに決まってんじゃん。でも――」
「なら、君は絶望すべきじゃない。君は輝いている。君は誰よりも美しい。巨乳派の作り上げた、欺瞞に満ちた基準で自分を測ってはいけない。君は世界の女神になることができる、選ばれし人間だ」
「そ、そんなの無理だって!」
と、りんごはやや頬を染めながら、栗色の長い髪をなびかせて顔を逸らす。
「無理に決まってんじゃん! 第一、あたしはなんの力もないんだし……」
「『ヴァイス』、それに『エアパイツ』のことか?」
「あ、あんた、そこまで知ってんの……!?」
りんごは弁当箱を落としそうになるほど驚くが、このような頼みごとをしているのだから、それらを知らないはずがないのだった。
「乳の中、乳腺で作られる特殊なエネルギー――その名を『乳気』、別名ヴァイスと言う。それは、人の『何かを守りたい』という気持ち、『野望』とさえ呼べるほどの強い欲望に反応して物質化するという特徴を持つ。
その物質化したヴァイスは、人それぞれの願いに応じた形状の固有武器となり、乳ワールドではそれを『エアパイツ』と呼んでいる。それまでは単に数のみで権勢を保っていた貧乳派は、この圧倒的な力の前に瞬く間に敗れ、長らく有していた権力を失った。
『乳は剣よりも強し』という時代が、そうして幕を開けた」
何か間違いは? 目で問うと、りんごは呆気に取られたようにしていたその顔に、慌てたように厳しい面持ちを作る。
「そ、そこまで知ってんなら、言われなくても解るじゃん。あたしみたいな貧乳はヴァイスなんてほとんど持ってない。だから、エアパイツなんて持ってないの。この時点で、巨乳派に刃向かえるはずなんてないのよ」
「君もエアパイツを持てる。そう言ったら、信じるか?」
え? と、りんごは目を丸くする。
そんなりんごに、勇登は個室の一つに置いておいた自らの鞄から『ある物』を取り出して手渡す。薔薇のように熱血的な赤い布でできた、しかしわずか下から一センチほどしか乳を覆う部分のないブラジャーである。
りんごは思わずと言った様子でそれを受け取ると、虚無を見つめるような冷たい眼差しをしばらくそれへ注いでから、
「は?」
眉間に嫌悪の皺を作りつつ勇登を見上げる。
「勘違いするな。これは、身につけることでヴァイスの出をよくし、エアパイツを強化させる、れっきとした科学的装置だ。巨乳派は研究でこんな物まで作り出し、限られたごく一部の人間のみでこれを使用しているんだ」
「エアパイツを、強化……? っていうか、なんであんたがこんな物を……」
「そんなことは今はどうでもいい。さあ、君もこれを身につけてみるんだ。そうすれば、きっと君もエアパイツを持つことができるようになる。そうして、君が女神派の女神となり、まずはこの地区の管理者となるんだ」
「は、はあ? 何言ってんのさ。支配者なんて、どうやって……」
「それは君も知っているはずだ。日本には非公開ながら、巨乳派が乳ワールドの支配をするにあたって自ら定めたルール、『乳ワールドの組織及び運営に関する法律』――通称『おっぱい法』がある。
それには、こんな条文があるはずだ。『下位の者から決闘を申し込まれれば、上位の者は必ずそれを受けねばならない。ただし、決闘に参加できるのはエアパイツを所有している者だけとする。』。
そして、またこうも言っている。『上位の者がそれに敗れた場合は、その役職を決闘を申し込んだ者と代わらねばならない。』」
「で、でも、それは巨乳の人たち同士の話で――」
「条文にそんな文言はどこにもない。ただ、エアパイツを持ってさえいればいいんだ。それだけで、決闘に参加する資格は発生する」
「あ、あんた、本気なの……?」
と、今更なことを訊いてくるりんごに勇登は首肯し、
「男である俺が、このようなことを知り、さらには反体制の活動をしているとなれば、内閣総理大臣直属の非公開組織である乳安委員会に命を消されるのは必然だ。俺は当然そのことも知っている。
知っていながら、俺は君に話をしている。このこと自体が、俺が本気であることの何よりの証拠とはならないか?」
「…………」
りんごは警戒する猫のような眼差しでじっと勇登を見上げ、ごくりと細い喉を鳴らす。
「あんた……ここの地区の管理者が誰なのかは知ってるの? その乳安の委員長なのよ」
「無論、知っている。そして、乳安の委員長の管理する地区に君がいる。これは間違いなく運命だ。俺はそう感じて、この計画に全てを懸けるつもりでいる」
「本気で……? 本気で言ってるの?」
「何度も言わせないでくれ」
「でも、あんた、なんで知り合いでもなんでもないあたしをそんなに信用してんのさ。あたしが、今あんたが言ったことを全部バラしたらどうすんの?」
「そこで全てが終わりだ。だが、君が協力をしてくれないことには俺の計画は何も始まらず、希望は全て消えるのだから同じことだ。もちろん、悔しくはあるがな」
「そ、そんなこと言われても……じゃあ、あたしは? あたしはどうなるの? 乳安に戦いを挑んで、もし負けたら、あたしは……!」
「俺と共に、どこぞの山の土に還ることになるだろう。だから、無理強いするつもりはない。あくまで、最後の選択は君に委ねる」
しかし、どうか俺に力を貸してほしい。そう勇登が目で訴えかけると、りんごはその勝ち気そうな目をしおれさせるように俯け、自らの手に握られた真っ赤なブラジャー――エアパイツ強化装置を見つめる。
「本当に、あたしがエアパイツを……? 巨乳の人だって、みんながエアパイツを持ってるわけじゃないのに……」
「確かに、君は持っているヴァイスの量は少ないかもしれない。だが、誰にも負けない強い意志は持っている。そうだろう?」
「意志を……?」
「『伝えたいから会いたい。会いたいから伝えたい。でも、どれだけ走っても、どれだけ手を伸ばしても、わたしはあなたに会えない。あなたはあなたで、あなたじゃない。仮面を脱いで、素顔のあなたに、わたしは会い――』」
「うわあああああああああああああああああああああっ!?」
と、りんごはやにわに顔を真っ赤にしながら頓狂な叫び声を上げ、
「やや、やめてっ! な、なんで、そんな――」
「恥じることはない。素晴らしいポエムじゃないか。君はポエムを綴るのが趣味なんだろう? 綴ったポエムは、部屋の本棚の隙間に隠しているはずだ。機会があれば、今度全て読ませてもらえないか」
「読ませるわけあるか! ってか、なんでそんなこと知ってんだよ!」
と、りんごは今にも殴りかかってきそうな形相で睨みつけてくるが、声が大きいぞと勇登はそれを宥め、
「なぜ俺がそんなことを知っているのか、そんなことは今はどうでもいい。それよりもだ、君には誰か、想いを伝えたい人がいるんだろう? 仮面を脱がせて向き合いたい人がいるんだろう?
それとも、あれは単なる空虚な文字列に過ぎないのか?」
うっ、とりんごは悔しさと恥ずかしさからか、唸る犬のように鼻に皺を寄せてこちらを睨む。その眼差しには、まるで侮辱されたような怒りが剥き出しになっている。
「りんご、君には確かに力がある。そして力を持つ者には、戦う義務がある。そうは思わないか?」
「だから、あたしには何も力なんて……」
「試してみるがいい。それを身につければ、何もかもが解る。ちなみに、サイズの心配はしなくてもいい。君のサイズにピッタリ合っている。さっき直に確かめたから間違いない」
「ああ、そう。『直に』ね……!」
と、りんごはエアパイツ強化装置をぐしゃぐしゃに握り潰しながら、その白く小粒な犬歯を見せて笑い、それから何もかも観念したように溜息をついた。
「いいわ。解ったわよ。試してやるわよ。でも――」
「ん?」
「学校でこんなブラジャーにつけ替えるのは無理」
なるほど。それは確かにそうだろう。勇登は納得して、
「なら、放課後、俺がアジトとして借りているアパートに来てくれ。『メゾン・ド・ノース』というアパートで、その場所は知っているはずだ」
「え? ちょ、ちょっと、まさかあんた、そこから……!」
と、何やら口をパクパクさせ始めたりんごを置いて、勇登はトイレの個室へと入った。
昼休みの終わりまで、もう時間がない。早く変装を解かなければ。勇登はりんごの喚く声を全て無視して、身体をウェットティッシュで急ぎ拭き始めたのだった。