牢の女神。part1
ベッドもない、寒々とした狭い牢である。
どれほど地中深くにある場所なのか定かではないが、積み上げた岩の壁から冷たい地下水が染み出していることからして、ここが相当に深い場所であることは容易に想像できた。
牢を満たす冷えた空気には、公衆トイレに油の腐ったような臭いを加えたような悪習が満ちていた。どこからともなく叫び声とも何かともつかない声がわずかに聞こえ、その声の中には女のさめざめと泣くような声も交じっていた。
勇登はじっとそれらの中で目を閉じながら、座禅を組み――待っていた。
すると、こちらへと向かってきていた数人の足音が目の前で止まり、ガチャンと錠の外される音がした。
「入れ」
そう兵に言われて勇登と同じ牢に入ってきたのは、一人の老年の男性である。
「失礼、お邪魔させてもらおう」
そう言って、まるで休憩所にでも入ってくるかのように気楽な足取りで男性は牢に入ってくる。
禿頭の、仙人のような姿の男性である。眉毛は筆のように長く垂れ下がっていて、口元は白い髭に覆われている。身につけているのは民族的な紋様の入った緑色のローブで、足は土に汚れた裸足である。
兵が鍵を閉めて立ち去ると、男性はその年老いた姿の割にスッと機敏に腰を下ろし、
「どうやら、この牢はヒト以外の者たちで溢れているようじゃの」
「ヒト以外の者たち?」
うむ、と男性は髭を撫でながら頷き、
「ああ、これは失礼。わしはダインという者じゃ。そなたは?」
「富士岡勇登と申します」
「フジオカ……? ふむ、変わった名だな」
と、男性――ダインは、その長い眉毛の下から鋭い、何もかもを見徹すような目でこちらを見つめる。只者ではない。勇登は一瞬でそう察しながら、
「失礼ですが、あなたはなぜこのような場所に?」
「わしは友人が多くてな。この国の多くの者たちが『魔族』と一括りにする者たちの中にも色々と縁がある。その者たちと共に酒を飲んでおったら……不思議なことじゃのう、なぜかここに連れてこられてしもうたのじゃ」
「……なるほど」
「そなたこそ、なぜ捕らえられておるのだ? というか、そなたは一体……何者じゃ?」
ダインの目つきが鋭さを増す。勇登は静かな座禅の姿勢を崩さぬまま、
「単なる若輩者です」
「そうは見えんな。そなたは実に不思議な目をしておる。見たところ十代の青年のようじゃが、その目はまるで円熟した学者のようじゃ。それに……その胸には、何か、もう一つの……」
と、ダインはこちらをじっと凝視してから、ふとその表情を崩し、
「ああ、またもや失礼。詮索が過ぎるの」
「いいえ。こちらこそ、失礼でなければお伺いしたい。あなたは何か……特殊なモノをお持ちですね? 特殊な知識か、あるいは……」
「なに、わしは単なる死に後れの老いぼれじゃよ」
「……そうですか」
はぐらかされてはどうしようもない。仕方なく勇登は退き下がり、ふと腕時計を見て、
「失礼。日課のトレーニングをさせていただいてもよいでしょうか」
「ほう、やはり勤勉な方のようじゃな。わざわざわしの許可など得るまでもない。どうぞお好きにやってくだされ」
では、と目礼をしてから、勇登は壁際に立ち、とある岩の一つに右手を当てた。そして、
「ふっ」
素早い動きで右手を引き、今度は左手をその石に当てる。右手、左手、右手、左手……。その動きを可能な限り素早く、そして精密に繰り返す。ダインが尋ねてくる。
「何やら興味深い動きじゃが……その訓練にはなんの意味が?」
「この岩を見てください」
「ふむ」
「解りませんか?」
「むぅ? わしには、ただの丸みを帯びた石に見えるが……」
「はい。この牢に入れられた多くの人間が触ったことで磨かれ、丸くなったのでしょう。この岩……女性の乳の形によく似ています」
「ほう……言われてみると確かに。しかし、それが何か?」
「いま僕がしているのは、乳を触る訓練なのです」
「ち、乳を触る……?」
「はい。繊細な乳房を一切傷つけることなくそれに触れ、かつ一瞬で乳腺を強く刺激するための訓練です」
「なぜそのような訓練を……?」
「僕は乳に命を捧げた人間ですので」
「乳に……?」
キツネにつままれたような表情で、ダインは眉毛の下の目を丸くする。
コイツは頭がおかしいんじゃないか。そう思っているに違いないが、乳に命を捧げる湧磨にとって、他人にどう思われようと痛くも痒くもなかった。
次のトレーニングに移る。反対側の壁際へと移動し、素早く反復横跳びのような動きを初めながら少しずつ前進し、乳に似た形の岩にタッチ。再び反対側の壁へと戻り、同様の動作を繰り返す。
恐る恐るといった様子でダインが尋ねてくる。
「そ、それは何を……?」
「縦横無尽、予測不可能に走り回る子供たちの間を通り抜けて、その先で捕らわれている女性の乳を触る訓練です」
「どんな状況? というか、なぜ乳を触るんじゃ?」
ふと、こちらへ近づいてくる数人の足音が岩壁に反響して聞こえてきた。
――この歩調は……!
勇登ははたと動きを止める。そして、自分の一か八かの賭けが的中してくれることを祈りながら通路を見つめていると、
「勇登……!」
「勇登くん!」
やはり、兵に先導されて姿を見せたのはりんごと翠花であった。りんごは笑顔と泣き顔が入り交じったような表情を浮かべ、翠花は両手で口元を覆って硬直して、
「こっちに来てるならさっさと会いに来なさいよ、バカッ」
「勇登くん、顔にケガをしているわ……!」
と、ほとんど同時に言った。
二人はいつものセーラー服姿で、見たところケガはしておらず、何か手荒なことをされた様子はない。そのことに勇登は深く安堵しながら、
「心配をかけて申し訳ありません。ですが、僕はどうにか無事です」
「よかった。あたしたちも無事よ。ところで、そのお爺さんは……?」
「いや、どうぞわしには構わず。ただの同居人じゃ」
りんごの視線を受けて、ダインはこちらへ背を向けて座り直す。すると、りんごはすぐにダインの存在など忘れたように、
「っていうか、勇登、あんた、こんな所で何してんのよ? なんで牢屋なんかに入れられてるの?」
「何か怪しげな宗教を広めようとしていた、なんていうふうに聞いたけれど……」
「いいえ、そんなことはしていません。僕はただ乳の尊さをこの世界の人間たちにも伝えようとしていただけです。――が、ただそれのみが目的だったわけではありません」
「他の目的……? じゃあ、やっぱりあんた、わざと捕まってここに……?」
流石はりんご、こちらのことをよく知ってくれている。勇登は我ながら苦笑して、
「俺はお前や翠花さんのように女神ではないからな。こうでもしない限り城内に入ることはできなかった。しかし……本当によかった。りんごも翠花さんも、どうやら今のところ危険な状況にはないようだな」
「はぁ? なに言ってんのよ。全然、そんな暢気なこと言ってられる状況じゃないわよ」
「どうした? 何かあったのか」
その……。と、翠花はやや離れた場所でこちらを監視している兵をチラチラと気にしながら、何やら言い淀む。そんな翠花を思いやるようにりんごはその手を握って、そして勇登へ顔を寄せて囁いた。
「翠花さんが、王様から結婚を申し込まれたのよ」
「なっ!? けっ……!」
結婚だと!? 勇登は思わず叫びそうになりながら、
「翠花さん、本当ですか」
「ええ……おそらく冗談ではないと思う、けれど……」
「どうするの、勇登? このままじゃ翠花さんも、それにあんたも……!」
「ああ。だが、見ての通り、今の俺にできることは何もない」
「なら、今すぐあたしがこの牢屋を――」
と、りんごはそのエアパイツ――腕を覆う白銀の装甲、『エルガー』を出現させようとするが、勇登はそれを制する。
「待て。ことをこれ以上、荒立てるな。元の世界に帰る方法も解らない今、無闇に敵を増やすのは上策とは言えない」
「でも……!」
「落ち着け。お前が今しなければならないことは、翠花さんの傍を離れないことだ。いいか、絶対に翠花さんから目を離すな。翠花さんが王に刃を向けざるをえないような状況は、絶対に作らせるな」
「そ、それは解ってるけど……」
「でも、いつまでも引き延ばすことなんてできないわ」
翠花がりんごの語を継ぐ。その目は不安に張り詰め、セーラー服の胸元を掴むその手は寒さを堪えるように震えている。
今すぐにその不安を取り去ってあげたい。しかし、どうすればいい……? と、勇登が冷たい鉄格子を強く握り締めていると、
「あ、あの……」
ふと誰かに声をかけられた。
皆で一斉に声のほうを見ると、そこには一人の女性が立っていた。翠花と同じくらいの身長の、ややふくよかな体型の金髪の女性――もとい少女である。




