尻の波動。part1
「生まれてよかったことなど一度もない? それは本当に?」
「あ、ああ、本当だ。おれはこれまで、いいことなんてなぁんにもなかった。親なんて初めっからいなくて、気づいた時からずっと家もない暮らしで、辛いことばっかりで……誰ひとり、神様だっておれを守ってなんかくれなかった」
昼なお暗くカビ臭い路地の突き当たり、雑魚寝をする浮浪者たちのニオイがムッとこもった石造りの家の中に、男の悲しげな声が響く。
家の入り口にいつの間にか現れていたボロキレを纏ったそのひげ面の男は、家の中に集まっていた老若男女――明らかにヒトという種ではない、肌の色が青や緑がかった色で、ツノや羽を持った者たちが大勢混ざっている――の視線を浴びて、臆病そうに口ごもる。
理由は解らないが、なぜか共通の言語である日本語で、勇登は再び問う。
「ならば訊こう。あなたは、なぜいま生きている?」
「な、なぜって……そりゃあ、蹴られても殴られても、どうにか死ぬ気で働いて……」
「確かに、あなた自身の努力のおかげでもあるだろう。だが、どうしてそうやって働けるようになった?」
「どうして……?」
「あなたは憶えていないかもしれない。だが、確かにいたはずだ。あなたに優しさを与えた女が。あなたを憐れに思い、あなたの口に乳を含ませた女が」
「お、おれを……憐れに……?」
「そうだ。人は必ず、誰しもその優しさのおかげで生きている。あなたも、ここにいる皆も、平民も、貴族も、そして王も……皆等しく、乳という大いなる存在の下に生きる存在なのだ」
「大いなる存在……」
「そう。だから、あなたは孤独を感じる必要はない。誰にも愛されたことがないと悲しむ必要もない。あなたの命は、初めから乳の愛と共にあるのだから」
数秒の間を置いて、建物内に割れんばかりの歓喜の声と拍手の音が響く。勇登がそれに軽く手を上げて応えると、それと同時、
「貴様ら、何をしている!」
荒々しい声が歓声と拍手を掻き消した。大勢の武装した兵士がどっと建物内へ流れ込み、浮浪者たちを蹴飛ばしながら勇登へ詰め寄ってくる。
その一人が湧磨へサーベルを突きつけ、
「貴様、なんのつもりだ」
「なんのつもりとは?」
「しらばっくれるな。こうして民衆の扇動をしているだろう。目的はなんだ」
「知らないな。俺はただ皆と乳の話をしているだけだ」
「嘘をつくな! これはごまかしで、密かに反乱の企てを進めているんじゃないのか!」
「……どうやら信じてはもらえないようだな」
こちらを睨みつける兵士たちの鋭い目、そしてこちらへ突きつけられた多数の剣を見回しながら、
「ここにいる者たちに用はないだろう。さあ、皆は逃げるがいい」
と、怯えて動けなくなっているらしい、まだ建物内に残っていた数名を外へ逃がしつつ、勇登はその手にエアパイツを出現させる。
しかし、それは勇登がかつて使用してきたエアパイツ――金色の二つの球、『ゴールデンボム』ではない。神々しく輝く金色のバット――『ゴールデンバット』であった。
あの日……勇登がわずかな時間ではあるが確かに命を落とし、それをりんごと翠花の二人によって救われたあの時、勇登は二人から授かった強力なヴァイスによって、新たなエアパイツを手に入れたのだった。
両手でもずしりと感じるほどに重く、石さえ砕くほどに固く、そそり立つように毅然と真っ直ぐに伸びたその金色のバットを固く握り締めながら、勇登は周囲の兵を睨み返す。
「な、なんだ、それは……? この場で殺されたくなければ、その妙な武器を捨てろ!」
「これは俺の身体の一部だ。捨てたくて捨てられる物ではない」
重たい静寂が場にのしかかる。兵たちは横目で視線を交わし合い、そして――
「はああああああああああっ!」
勇登の左手に立っていた一人が、戦いの口火を切った。
勇登はその一撃をゴールデンバットで弾き上げ、胸当に蹴りを入れて吹き飛ばす。
直後、ゴールデンバットを横薙ぎに振るって、こちらへ突進してきていた一人の兜を打つ。衝撃でその兵は横へ吹き飛び、その隣に立っていた兵を巻き込んで倒れる。背後からの刺突を後方宙返りで躱し、前へとつんのめったその兵の兜にゴールデンバットを叩きつける。
「無駄だ」
愕然とした様子で動きを止めた兵たちを、勇登は鋭く睥睨する。
「俺は女神の加護を受けた人間だ。並の人間では相手にならない」
「ほう……。ならば、一つ、私の相手もしていただこうか」
と、勇登を囲む兵たちの向こうから、涼しげな声が聞こえてきた。
兵たちは号令を受けたように左右に割れ、その後ろ、壁に寄りかかって立っていた銀髪の男の前に道を作る。
男は、女性のように長い銀髪をしている。背は高いが、その体つきはまるで女性のように細身で、なぜか一人だけ鎧を身につけていない。純白の、やけに派手なデザインの軍服姿である。
男はその口元に薄く笑みを湛えつつ、宝石のように真っ赤な目でこちらを見据える。
「私の名はシリウス。君は?」
「……勇登。富士岡、勇登」
「ユート……聞いたことのない名だ。しかし、その身のこなし、確かに只者ではない。……どれだけやるのか、楽しみだ」
ニヤリと酷薄に微笑しながら、男はこちらへと踏み出す。その腰の左右に提げていた二本の剣を、腕を交差させながら抜き、
「誰も手を出さないように。これは私の戦いだ」
「…………」
――コイツ、強い。




