金の月、銀の月。
「もう二度と、あんたにおっぱい見せてやらないから」
こちらをきつく睨みつけながら、りんごは吐き捨てるように言う。
「な、なぜだ、りんご。俺たちは今まで一緒にやってきたのに……」
「それが何よ? もうあんたみたいなゴミは用なしなのよ」
ソファに腰を下ろしているりんごは、セーラー服の上に重ね着しているミルク色のカーディガンの袖を弄りながら、
「いつまでそこにいる気よ。さっさと出て行きなさいよ、この役立たず」
「一体、何がお前の気に触ったんだ。俺が何をした? ちゃんとそれを説明してくれ」
「別に何も。あんたみたいな間抜けの顔なんて二度と見たくないっていう、ただそれだけのことよ」
「な、なぜだ、りんご……?」
勇登は床へ崩れ落ち、がくりと首をうなだれる。
「あんた、そんなにあたしのおっぱいが見たいの?」
「あ、ああ、当然だ。俺ほど、お前たちの乳のコンディションを最高の状態に保てる人間はいないんだ。定期的に俺がマッサージをして――」
「そんなこと言って、実はただ揉みたいだけじゃない。……でも、まあいいわ。どうしてもって言うなら見せてあげてもいいわよ」
「本当か。た、頼む、俺はどうしても――」
「じゃあ、まずぜんぶ服を脱いで、それからそこで三回まわって、『私はバカです』って言いなさいよ。そうしたら、特別に見せてあげてもいい、っていう気分になるかもね」
「りんご、お前はどうしてそんな……」
勇登が絶望に暮れて言葉を失うと、不意にガチャリと部屋の扉が開けられて、
「二人とも、何をしているの? もうすぐ定例会議だけど……」
と、濃紺のセーラー服姿の翠花が顔を見せた。勇登はスッと立ち上がり、詰め襟制服の着崩れを正す。
「なんでもありません、翠花さん。ちょっとした訓練――精神鍛錬に、りんごにつき合ってもらっていただけです」
りんごが小さく嘆息をして、
「ねえ、勇登。こんなの、ホントに意味あるの? なんか、ただあんたの趣味つき合わされてるだけのような気がするんだけど……」
「それは完全に誤解だ。こうして深い絶望を味わっておくことで、お前と翠花さんへの日ごろの感謝を深め、そして強靱な精神力と、さらなる乳への欲望を培うことができるんだ。決して趣味などではない」
「あたしは茶番につき合わされてるだけで、あんたからの感謝なんて全く感じないんだけど……。しかも、おっぱいへの欲望なんて、もう今のままで充分すぎるくらい充分よ」
「そんなことはない。俺はまだまだ上を目指せる」
言いつつ、勇登は開けてある窓の前まで歩き、深緑芽吹く乳パラダイスの庭園に向かって深呼吸をする。
ここは女神のために用意された、乳キャッスル最上階の最も日当たりのいい部屋。当然、眺めも風通しも最高である。
何を言っても無駄だ。そう呆れたようにりんごは再び溜息をついて、
「それより、またわざわざパイモニーしなきゃダメなの? 今日の会議なんて別に話し合うこともない、十分くらいで終わりそうなやつなのに」
「それでもダメだ。ここは弱肉強食の世界、一つの油断が命取りとなる場所だということはお前も知っているだろう」
「そうよ、りんご。私たちがこういう立場になって、まだ半年も経っていないのだし……」
「そうですけど……でも、また翠花さんにお願いしちゃいますよ。あたし、やっぱり会議ってどうしても苦手なんで」
「ええ、それくらい構わないわよ。私も毎日、色々とりんごには助けてもらっているんだし」
と、翠花はポケットから出した折りたたみの櫛で、ツーサイドアップにしているりんごの髪の毛を梳いて整える。
翠花に肩をぽんと叩かれ、りんごはしょうがないという顔で立ち上がり、ソファの後ろに立っている翠花の前へ行く。そして、それぞれ異なるセーラー服の上着の裾に手をかける。
湧磨が礼儀として二人に背を向けると、二人の方から白い光が炸裂し、部屋を白一色に満たした。
しばし瞼を閉じ、やがてその光が収束したのを感じて後ろを見ると、そこには一人の少女――否、女神がいる。
腰ほどまである艶やかな黒髪は先程までと同じだが、その目は心なしか鋭く、凛々しくなっていて、背にはまさしく天使のような純白の翼がある。
女神モードの翠花である。その姿はまるで芸術品のように美しいが、湧磨にとってそれはもう見慣れたものである。だから、今さらそれに対して愕然としたりはしない。しかし、湧磨は思わず息を呑み、目を見張った。
「これは……?」
と、翠花もまた目を丸くして後ろへよろめく。
その身体のすぐ前には、小さな白い渦――白いブラックホールのような何かが、ふわふわと浮かんでいる。
それは一見、シャボン玉のように暢気に漂っている。だが、それは明らかに異常な現象だった。異質な存在だった。
「翠花さん、早くそれから離れろっ!」
勇登は慄然と翠花へ駆け寄り、白い何かと翠花との間に身体を滑り込ませた。
瞬間、その白い光の渦から閃光が迸り――
○ ○ ○
目を開けると、そこは暗い空の只中であった。
夜明けなのか、水平線の一方は白く染まっているが、空のほとんどはまだ暗い藍色に包まれている。
――ここは……?
翠花は翼を羽ばたき、体勢を整える。整えつつ真後ろを向いて、目を疑った。
そこには二つの三日月が、重なるようにして浮かんでいた。
金色の月と、銀色の月。いくら目を瞬いてみても重ならない二つの月が、確かにこちらを見下ろしているのだった。
緩やかに落下していく間にも刻々と白んでいく空から視線を落として、翠花はまたも息を呑む。
下に広がっているなだらかな丘陵に、何をしているのだろうか、目を疑うほどの大勢の群衆がひしめいているのだった。
何千、いや何万にも及ぶようなその人々は、開けた丘の左右に大きく分かれながら向き合っている。が、これだけ大量の人がひしめいているというのに、群衆の音は何ひとつ聞こえてこない。夜明けのしんとした静けさと朝靄が、丘陵にはただ横たわっていた。
群衆と群衆が分かれて大きく開けた草原の上へと、翠花は白く淡い輝きを纏いながらゆっくりと降りていく。
そして、地面まであと五メートルほどというところで、唐突、丘陵の下方でひしめいていたほうの群衆から高らかにラッパが鳴り響いた。すると、彼らは一斉に喚き声を上げながら後方へ走り始めた。
「……?」
何が起きているのだろう? というか、
『え、何? どこですか、ここ?』
ちょうど思っていたことを、りんごが頭の中で呟く。
「さ、さあ、私にも……」
翠花は怯えながら草原にふわりと降り立ち、悪魔か何かでも見たように一目散に去っていく群衆――どうやら軍隊らしき人の群れを眺める。
そうして、やがて軍隊が森の中へ全て呑み込まれていくと、山を背にして陣取っていたほうの軍隊から、三人の男が馬に乗って近づいてきた。
鈍い銀色の鎧に身を包んだその男たちは近くまで来ると、無言で馬から降り、翠花へ向かって真っ直ぐに歩いてくる。
身の危険を感じ、翠花はそのエアパイツ――長さ二メートル以上にも及ぶ長槍、『天の雷』を構えたが、
「我らが女神、ルーナ・レピドゥスよ」
三人は立ち止まり、フルフェイスの兜を脱いでから翠花の前に跪いた。
三人の中央にいた、長い髪に立派な髭を蓄え、ムッとするような汗臭さを纏った頑健な男は、左右の男たちと共に深々と頭を垂れ、
「我らの国の危機を救ってくださいましたこと、感謝の至りにございます。誠に……驚きと喜びの余り、どのように礼を申し上げればよいかも解りません」
「え? い、いえ、人違いです。私は女神などでは……」
深く頭を下げ続ける三人の男に翠花はただ狼狽するが、男は頭を上げないまま、
「よろしければ、我が国の都へおいでください。できうる限りのもてなしでもって、この度、女神より賜った勝利の感謝を捧げさせていただきたい所存にございます。
女神が我が国に勝利をもたらし、また凱旋に加わってくださったとあらば、戦禍に怯えていた我が国の民も心よりの安寧を得られることと存じます。我らに勝利をお与えくださった女神に更なる願いを申し上げること、誠に心苦しい限りでございますが、どうぞ……何卒お願い申し上げます。
我らが王も、女神が凱旋なされることを心待ちにしておりましょう……」
と、おののいているように強張った声で言う。
都? 凱旋? 戦禍? ……王?
翠花は目をパチパチとさせながら、男たちが身につけている、作り物とは思えない重厚な鎧を見つめた。というか、頭が真っ白になって口から言葉が出て来ない。
『ホント……どこに来ちゃったんですか、あたしたち?』
ここが夢の中であってほしい。そう願う翠花をまるで嗤うように、空は爽やかな水色に染まりだし、二つの三日月は白く姿を消していく。
ゆっくりと、そして非情な機械のように時間は流れ、今日という一日が始まろうとしていた。




