おっぱいがある限り。その2
なぜこの二人がここに? この店のこの場所という意味でも驚き絶句したが、どうにか気を取り直しつつ二人から目を逸らす。
「僕に……なんの用ですか?」
「なんの用も何もないでしょ。どうして何も言わないでいなくなったのよ」
「あれからもう三ヶ月も経ったけれど……ずっとあなたのことを捜していたのよ?」
二人はじっと目を凝らすようにこちらを見つめている。その視線を痛いほどに感じながら、勇登は再びおっぱいマウスパッドの前に屈み込む。
「どうして僕がこの街を去ったか……そんなことは言わなくても解るでしょう。僕は、もうこの街に住むことはできなかったんです。確かに、僕は乳ワールドの危機を救うための一端を担ったかもしれない。しかしそうだとしても、僕が女性の聖域に踏み込んでしまった男であることには変わりないんです」
二人も、当然こんなことは解っているはずだ。当然至極のことをいちいち説明させられることに辟易しながら、勇登はおっぱいマウスパッドをつつく。
「それで、その後はどうなっていますか?」
「そんなもん触りながら訊いてくるんじゃないわよ」
りんごは相変わらず突っかかってくるが、翠花が答えてくれる。
「おおよそ何事もなく……かしらね。自主的に職を退いた富士岡さん――勇登くんのお母さんを除いて組織は前の体制に戻って、今はもうすっかり落ち着いているわ。
けれど、あれからすぐに『おっぱい法』が改正されて、貧乳派への差別行為は固く禁じられたりして……水面下では、乳ワールドは大きく変わったわ。
現実はまだまだ難しいところもあるみたいだけれど……勇登くんのおかげで、乳ワールドは確かに変わりつつあるのよ」
「俺のおかげなんかじゃありませんよ。りんごと――新原さんと御山さんが頑張ったから、世界が変わったんです」
「勇登……」
りんごが何か言いたげに口を開くが、勇登はそれに背を向けて立ち上がる。自分はもう、この二人の傍にいるべき人間ではないのだ。
「あ、勇ちゃん。こんなトコにいたの?」
じゃあ。と別れを告げて去ろうとしていた矢先、この店で待ち合わせの約束をしていた友人――和がヘラヘラと笑いながらやって来た。翠花が驚いたように言う。
「あら、和さん……どうしてこんな所に?」
「ボク? ボクはここで勇ちゃんと待ち合わせだよ。久しぶりに遊ぶって約束してたからさ。翠ちゃんこそ、なんでこんな店にいるの? 翠ちゃんもゲームとかアニメが好きなの?」
「えっ? い、いや、えーと……まあ、その、ちょ、ちょっとだけ……」
と、翠花は顔を赤くして和から目を逸らす。そんな二人の様子を見ていたりんごが不思議そうに尋ねる。
「っていうか、前からずっと気になってたんですけど、翠花さんと和さんって友達なんですか? それとも、昔からの知り合い?」
「知り合いというか……和は……」
翠花はどこか気まずそうに和を見やるが、和はいつものニヘラ顔のままさらりと言う。
「ボクは翠ちゃんの妹だよ。まあ、今は弟なんだけどさ」
「……えっ?」
と、りんごは目を丸くして、こちらを見る。
「ど、どういうこと? 確か、翠花さんの妹って、あなたの目の前で……」
「確かに、和は――和花は俺の目の前で飛び降りました。でも、別に死んだわけじゃありません。その後に割合大変な手術をして、それからまた『別の手術』をして……今はこうして無事に生きています。……男として」
「そうだよ。イヤだな、りんごちゃん。ボクを勝手に殺さないでよ。まあ、確かに女としてのボクは、あの時に死んだんだけどさー」
あははー、と和は屈託なく笑い、翠花は気まずそうに苦笑いする。自分でさえ、まだ和とはどうつき合うべきか迷っている部分があるのだ。それが姉妹、否、姉弟となれば尚更のことだろう。
だから、和にはなるべく触れずに、静かに見守ってやっていてほしいところなのだが、りんごはそのややつり上がり気味の目をまん丸にしながら翠花に尋ねる。
「え? でも、そんな……だって、和さんは乳パラ――あそこで働いてるじゃないですか。ってことは、女の人だっていうことなんじゃないんですか?」
「男性と言っても、和さんはやはり元女性だから……今でもあそこに出入りできるくらいの『力』は持っているの。男性に知られてはいけない色々な秘密も知ってしまっているから、仕事を与えられるという名目で、今も半ば監視を受け続けているのよ」
「そ、そうだったんだ……」
まさに鳩が豆鉄砲を喰らったような顔でりんごは呟き、それからギロリとこちらを睨む。
「勇登……! あなた、よくわたしを騙してくれたわね……!」
「べ、別に騙してなんかいませんよ」
騙すつもりなど本当になかった。あの時は自分も必死で、不必要な情報は極限まで頭に入れないように努めていたのだ。
だが、どうやら今のりんごにはそのような言い訳は通じなさそうである。まるでカツアゲをしてくる不良のような形相で睨みつけ、胸ぐらを掴んでくるりんごからどうにか目を逸らしていると、
「あ、りんご、こんな所に」
と、先ほど聞いたのと同じような言葉、しかし女性の声がおっぱいマウスパッドのコーナーに響く。
その、黒と白のチェック柄のポロシャツと、白地のシャツにジーンズという服装をしたすらりとした姿の女性は、頭の後ろのポニーテールを揺らしながらこちらへと歩いてきたが、こちらを見るなり、
「あ」
と、ギョッとしたような様子で足を止めた。と思うと、アマガエルのストラップがついたスマートフォンを握り締めながら、突然その頭を深々と下げ、
「す、すみませんでした、富士岡くん! あなたには本当に、何もかもご迷惑をおかけして……!」
「え? は……?」
誰? と、勇登は傍らのりんごに目で尋ねる。すると、りんごはささやかな胸を張りながら、なぜか誇らしげに笑って、
「解らないの? 純よ、純」
「純? 純って……え? あの……須芹純さん?」
「は、はい、須芹純です……」
と、その細身の女性――純は、そのくりくりとした円らな目を忙しなく上下しながら、白い頬を朱に染める。くつくつと笑いながらりんごが言う。
「ほらね、純。この人も目丸くしてるでしょ。あんたはやっぱこっちのほうが数倍可愛いのよ。まあ、私の可愛さには敵わないかもしれないけどさ」
「も、もう、りんご……!」
と、顔を赤くして、恥ずかしさを隠すように純はりんごを睨むが、二人の間には明るい笑みがあった。その何もかも信じがたい光景を見て思わずポカンとしてしまっていると、ふと左腕が何やら温かく柔らかなものに包まれた。
見ると、そこにはニットセーター越しの巨大なおっぱいがある。その深い谷間に呑み込まれて見えなくなりつつある自分の腕から目を上げると、こちらをじっと見つめる、潤んだ大きな目があった。
「え? あ、あの……御山さん?」
なぜか涙ぐみながら、ひしとこちらの腕を抱いて放すまいとしている翠花に勇登は狼狽えるが、翠花はただ何も言わずに、潤んで鏡のようになった黒瞳でじっとこちらを見つめ続ける。と、不意に右腕も温かな感触に包まれる。
さらにドキリとしながらそちらを見ると、りんごが睫毛の長い目を細めて、ふふんと満足げに微笑んでいる。
そんな陽だまりのような笑みを間近から向けられて、狼狽えずににいられるわけもない。勇登が慌てて目を逸らすと、りんごが何やら笑みを含めて言うのだった。
「ねえ、やっぱりあなた、本当は女の子と一緒にいるの苦手なんでしょ。仕事って割り切ってたから、わたしたちのおっぱいも平気で揉めただけでさ」
「い、いや、別にそんなことは……」
「ふぅん。じゃあ、なんでそんなに顔真っ赤なの?」
ねえねえ。と、まるで甘えてくるようにこちらの肩に頬をすり寄せてくるりんご、それに深い胸の谷間へずりずりと腕を引き込んでいく翠花から勇登は腕を引き抜こうとするが、
「イヤです、勇登くん。もう、一人でいなくなったりしないで……」
じわりじわりと涙を目に盛り上げながら、翠花はまるで許しを請うような眼差しでひたすらにこちらを見つめてくる。
「そうよ」
と、りんごもまた勇登の腕をその小ぶりな乳へ押しつけるようにして抱え込む。見ると、りんごの目にまで涙が輝き出している。りんごは微かに震える声で、しかし明るい笑みを浮かべて言う。
「あっちの世界では、女神はまだまだ必要とされてるのよ。で、わたしたちが女神になるには、あなたがいなくちゃいけないの。つまり、わたしたちはあなたがいなきゃダメってこと。っていうか、わたしたちを女神にしたのはあなたなんだから、ちゃんと最後まで責任持ちなさいよね」
何も言い返せるはずがない。イヤだなどとは口が裂けても言えない。和と純に苦笑されようが、勇登はやはり女神たちの言いなりになるしかないのだった。
だが今は、今のこの状況からはとりあえず全力で逃げさせてもらうことにした。
「行くぞ、和!」
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってよー!」
おっぱいマウスパッドコーナーで、美少女二人の乳を同時に堪能していたのだ。四方八方から殺意のこもった眼差しが飛んできて、身の危険を感じざるをえなかったのだ。
「待ちなさい、勇登ーっ!」
「勇登くん……!」
と、追ってくる二人の女神には申し訳なくも、飛び込んだエレベーターの扉を素早く閉じて下へと向かう。と、一緒に乗り込んでいた和がくつくつと笑う。
「勇ちゃんも、どうやら逃げられなさそうだね。一度関わったら、乳ワールドはどこまでもボクたちを追ってくるよ。しつこいよ、女の人は」
「しつこいのは男も女も変わりないさ。何歳になろうが結局乳離れのできない男に、そんなことを言う資格はないんだ」
「あはは……。じゃあ、男と女はおっぱいがあるからこそ繋がり続けている部分もあるのかな? だとしたら、おっぱいは人類の宝だね」
「ああ、おっぱいは愛の象徴だ。おっぱいがある限り、人類は滅びない」
やがて扉が開くと、そこには女神たちの優しく温かい笑顔がある。
――全く、敵わないな……。
おっぱいの前にはひれ伏すしかないという男の宿命を受け入れて苦笑しながらも、勇登は妙に清々しい気分だった。




