女神派。その1
その日の昼休み。
勇登は授業終了のチャイムが鳴るなり『この場所』へやってくると、手早く着替えと準備を終わらせて所定の位置に着く。
文化棟二階にあるトイレの、その個室である。すぐ目の前には、洋式の便器がある。壁際に設けられている、鞄を載せるのにちょうどよさそうな段差の上で股を開いて中腰になりながら、勇登はある人物がそこへ現れるのを待ち始めた。
ほどなく、しんと静まり返っていたそのトイレの扉がギィと開けられた。その足は静かな歩調で一番奥の個室であるここへと向かってきて、やがて個室の扉が開く。
弁当袋を片手に姿を現したりんごは、ふぅと小さく溜息をつきながら扉の鍵を閉め、どこか疲れた様子で便器に腰を下ろして細い足を組む。
よく見れば、右手に提げられた卵色の弁当包みからは、水滴がぽたりぽたりと落ちている。
「それはどうしたんだ?」
「うぉわぁっ!?」
勇登が怪訝に尋ねると、りんごは反対側の壁に背中を打ちつけるようにしながら立ち上がり、目を剥きながらこちらを見上げた。
「なな、あ、あんた、何してんのよっ!」
と、りんごが震える手で指差す勇登の身体は、今はほぼ満遍なく淡いピンク色に染まりきっている。そこへ白い十字線が均等に引かれ、ピンク色のブリーフパンツと水泳キャップを身につければ、どこからどう見てもこのトイレのタイル壁である。
そうしてカメレオンのごとくトイレの壁に擬態をしている勇登は、シッと口元に指を立てる。
「静かにしろ。『巨乳派』に聞きつけられる」
「え……?」
「それは……その弁当箱は、連中にやられたのか?」
勇登が冷静に切り出すと、りんごはどこかまごまごしながらもこくと頷く。
「え? ええ、まあ、そうだけど……でも別に、今日が初めてじゃないし……。っていうか、あんた今、『巨乳派』って言わなかった?」
「ああ、俺は既に知っている。この世界の隠された秘密を」
タイルになりきり微動だにしないまま、勇登はりんごを見下ろす。
「俺はあることから、この世界の実情を知ってしまった。この世には男の知らない世界があり、女は通常の世界だけでなく、情け容赦のない格差が存在する世界でもまた生きている。
巨乳派が『乳ワールド』と名づけた、『女の、女による、女のための世界』で」
「……あんた、何者なの?」
勇登を怪しむような表情で沈黙していたりんごが、声を潜めて尋ねてくる。勇登はその意志の強そうな目をじっと見据えながら答える。
「俺は、世界の理に――乳ワールドの現状に異を唱える者だ」
「現状に、異を……?」
「女は十六歳になると三年ごとに、乳安の――乳安委員会の設ける、通称『おっぱい検定』というテストを強制的に受けさせられ、その結果によって貧乳派と巨乳派に問答無用で区分される。
そして、区分されたその二派同士で、乳安の権力を手にするために激しく争い合っている。……そんな馬鹿げた話が事実なものか、俺は初めそう思った。
しかし、よくよく調べてみると、あったのだ。あるはずもないと思っていたがゆえに見えなかった、もう一つの世界が」
「…………」
りんごはいまだにこちらを疑るような目つきをしながら黙り込む。が、何も嘘やハッタリでこんなことを言っているわけではない。信じてもらうためにも、勇登はタイル柄の胸を張って続ける。
「そんな世界が、今は巨乳派によって支配されていて、貧乳派はまるで奴隷のように虐げられている。その現実に君は苦しみ、悩んでいる。そうだろう?」
「……あんた、男でしょ? なのに、どうしてそこまで知ってて乳安に消されないの? 言っとくけど、あたしたちのクラスの担任って、乳安の人間よ」
「無論、そんなことは知っている。
だが、なぜ俺がここまで知っていて消されないか……それは『よき母であり、よき妻であれ。』という乳ワールドのスローガンと、母には母の計画があるおかげなのだが、まだ詳しくは言えない。君が俺に協力を約束してくれれば教えよう」
「協力?」
りんごの表情が、いっそう怪しむように険呑になる。だが、勇登はあくまで淡々と言う。
「俺はこの世界を――乳ワールドを作り替えたい。つまり、いま権力を有している巨乳派に打ち勝ち、その地位を手に入れたいということだ」
「巨乳派に打ち勝つって……あんた、正気なの?」
「貧乳の女性を下等な人間として扱う……この誰が見てもおかしな現状に異論を唱えて、それで正気を疑われるとは、心外だな」
「正気の人なら、女子トイレのタイルになりきったりしないと思うけど」
「これはあくまで作戦の一環だ。別に俺の趣味ではない」
そう思われることこそ心外だ。勇登が壁から離れ、床に下りながら反論すると、りんごは一瞬ビクリと身構えてから、おずおずと口を開く。
「そ、そう。それならまあいいけど、いや、よくはないけど……っていうか、どうしてあたしなのさ? 本気で乳ワールドを変えたいってんなら、エアパイ――その……『力』を持ってる人と協力すればいいじゃん。
そこまで知ってるあんたなら、見れば解るんでしょ?あたし……そんなの持ってないし」
と、りんごは自らのささやかな胸をちらりと恥ずかしげに見下ろす。
「俺は巨乳派が嫌いなんだ」
巨乳派、その言葉に改めて嫌悪感さえ抱きながら、勇登は言う。
「しかし、それは別に、巨乳の女性が嫌いと言っているわけではないし、俺が貧乳派を支持しているというわけでもない。巨乳派にも当然、素晴らしい女性はいるし、貧乳派も単なる被害者ではないからな。
貧乳派が現状に耐えることしかできずにいるのは、過去にかなりあくどいことを巨乳派にやってきたがゆえだということも知っている。でも、それでも俺は何より巨乳派が嫌いなんだ。憎いと言っても過言ではない」
「憎い……? どうしてよ? 乳ワールドとはなんの関係もない、男のあんたが」
問われて、勇登は思わずしばし口を閉じた。この問いに答えなければならないであろうことは解っていたのだが、その意志とは関係なく、口が重く閉じてしまったのだった。
だが、どうにか勇登はその鉛のような口を開く。
「俺には中学の時、好きな女の子がいたんだ。その女の子は、もうこの世からいなくなってしまったがな」
「え……?」
「彼女は世界の真の姿を知り、それに絶望し、俺の目の前で……飛び降りた。彼女に愛の告白をしておきながら、彼女を守ると言ってやれなかった、俺の目の前で」
言葉にすると、そのあまりの情けなさに頭が痛む。勇登は思わず額を押さえながら、
「彼女を死なせたのは俺だ……。俺が無力なせいで、貧乳であった彼女はいっそう自らの将来に絶望してしまったんだ。
だから、俺は誓った。もうこれ以上こんな惨めな思いをしないためにも、俺は戦わねばならないと。そして、全ての女性が、自らの乳の大きさのために涙を流すことのない世界を創ってみせると……」
勇登を見上げるりんごの目は、大きく見開かれながら揺れている。勇登はそんなりんごの肩を、タイル柄の手でそっと掴む。
「そのために、君の力を借りたいんだ。俺は男だから、そもそもその戦いのステージにさえ上がれない。女性たちに相手にさえしてもらえない。だから君の力を借りて、世界を変えたいんだ」
「あ、あたしだって、変えられるものなら変えたいわよ。友達のためにも、自分のためにも……。
でも、そういう思いだけじゃどうにもならないことなんだから、しょうがないじゃない。あたしに何ができるっていうの? こんな、貧相のおっぱいのあたしに……」
「君ならできる。君は美しい」
断言し、長い睫毛をしぱしぱ上下させて呆然としているりんごに訴える。
「君は自分の乳を貧相と言ったが、それはつまり大きさのことだろう? 単純な大きさが、一体なんだと言うのだ。巨乳派が作り上げたまやかしの価値観に溺れ、自分を卑下するべきではない。君の乳は、君の全ては、紛れもなく美しい」
「美しいって……バ、バッカじゃないの?」
と、りんごは勇登の手を払いながら、ついと朱い顔を逸らす。それからじろりと勇登を睨み、
「なんなの? あんた、もしかして、あたしをおちょくってバカにしてんの?」
「バカになどしていない。じゃあ、よく俺に見せてみてくれ。君の美しい乳を」
そう言うと、勇登は無防備に突っ立っていたりんごの上着の裾を掴み、一気にそれを捲り上げた。
丁重かつ素早く水縞のブラジャーをずらし上げ、そこから顔を出したりんごの乳をまじまじと見つめながら、その柔肌にそっと指を這わせる。
「やはり、最高だ……。小さめながらもぷりんと膨らんだ全体の形、弾力、乳首の色合い、大きさ、膨らみ具合に上向き具合……! まるで、瑞々しい小さなりんごのように輝いている。これこそ至高の――」
「こっ……この変態っ!」
と、しばしただ唖然としていたりんごが、その怒りの拳を勇登の顔面めがけて放つ。がしかし、その拳は勇登の眼前でピタリと止められる。
「……殴らないのか?」
当然、覚悟はしていた。殴られて然るべきと思っていた。だから、ガードをすることもせず、その一撃を甘んじて受け入れようとしていた勇登は、むしろ怪訝に尋ねる。
白い小さな拳を震えるほど強く握り締めながらも、りんごはやがてその手を下ろし、歯を食いしばった顔を俯けて言う。
「殴りたいよ、殴りたいに決まってんじゃん……! でも、あたしは人に暴力なんて振るわない。巨乳派と同じになんてなりたくないから……!」
「……そうか」
「でも、どうしてこんなことするのさ……! あたしは確かに貧乳だけど、あたしだって人間なんだよ……!?」
勇登がたくし上げた服を下ろし、それを押さえつけながら、りんごはその目に涙を溜める。が、勇登は首を振って淡々と言う。
「別に傷つく必要はない。俺に下心は微塵もないんだからな。医者に触られたのと同じだと思えばいい」
「あんた、頭おかしいんじゃない?」
と、りんごは刃のように尖らせた目でこちらを睨む。勇登はその目を静かに見つめ返し、
「なんとでも言うがいい。俺は、ただ自分の信念に基づいて行動しているだけだ。そしてその信念は、何ひとつ恥じることのないものだと固く信じている」
「はぁ? 何が信念……っ、帰る。どいて」
と、りんごは強く何か言い返そうとしたらしい言葉を呑み込み、勇登を脇へ突き飛ばして個室の外へ出ていく。勇登はそれをすぐに追い、りんごの背中に訴える。
「俺は本気だ。俺には君が必要なんだ。巨乳派でもなく貧乳派でもない新しい勢力を作り、この腐った世界の理を変えるんだ。君が『女神派』の『女神』となるんだ」
「女神派……?」
始めて耳にする言葉に思わず興味を引かれたように、りんごはピクリと立ち止まってこちらを向く。