VS須芹純。その1(りんご視点)
気づくと夜は明けていて、気づくと正午も過ぎていた。
あれから何度、パイモニーを試みたかは既に解らなくなっていた。一度も成功をさせられないどころか、たった一つの進歩も見えない。
ただ不安と焦り、そしてパイモニーを失敗した際に味わわせられる乳首の痛み、それらだけがいたずらに募っていくばかりで、それは翠花もまた同じようだった。
――こんな時に、勇登がちゃんといてくれれば……。
翠花の顔にも、ハッキリとそんな思いが表れていた。
しかし、そんなことを思っていてもしょうがない。初めは互いを励まし合っていたが、次第にりんごと翠花は交わす言葉を失った。互いの乳首の痛みが引けば無言で頷き合い、パイモニーを試し、失敗する。ただその繰り返しであった。
午後三時半頃、思い出したように昼食――というよりも単なる栄養補給を済ませ、それから再びパイモニーの練習を行ったが、やはり最後まで光明は見えなかった。
諦めるわけにはいかない。しかし、何をどうしたらよいか解らない。そんな暗澹たる気持ちで四時半頃に練習を切り上げ、二人ともセーラー服に着替えて、
「勇登。わたしたち、絶対に勝つからね。だから、安心してここで待っててね」
と、心の裡とはまるで異なる空虚な言葉を勇登にかけてから、五時過ぎ、二人でマンションを出た。
夕焼けの時刻も過ぎ、街は既に夜の暗さの中に包まれつつある。肌を切るように冷たい風が足の間をすり抜けるが、不思議と寒いとは思わない。身体が余計な情報を遮断しているかのように寒暖の感覚はなく、けれど腹の底から来るような身体の震えが止まらなかった。
と、マンションを出てすぐに、隣を歩く翠花がこちらの手を優しく握った。
「りんご、あなたは一人で純さんと戦うことになるけれど……私はちゃんと傍にいることを忘れないでね?
もしもの時は、決闘を中止させてでも止めに入って、あなたを守るから……」
はい、とりんごが頷くと、翠花は微笑しながら頷き返した。しかし、冷たい白い街灯に湿らされるその顔はいつになくか弱げに見え、りんごの手を握るその手は凍えるように小さく震えているのだった。
やがて乳パラダイスのある公園へと到着し中へと進めば、夜闇の中でさえ赤く燃えさかる紅葉の向こうに、乳パラダイスの門が見えてくる。
互いに強く手を握り続けたまま門へと向かい、その前に立つと、そこにいた門番――勇登が『和』と呼んでいた門番が門を開き、そのまま自分たちを先導するように歩き出した。
乳技場へと続く一本道を歩き出しながら、りんごは思わず目を見張った。
まるでこれからパレードか何かがあるかのように、通りの両脇に大勢の人垣ができているのだった。寒風の吹きすさぶ秋の宵にも拘わらず、通りに沿って人がずらりと並び、外灯の下で顔に暗く影を作りながら、こちらをじっと見つめているのだった。
「『今日の決闘を見に来なければ、罰を与える』。そう委員長が通達を出したんだよ」
前を向いたまま、和が小さく言った。
「委員長のエアパイツの恐ろしい噂は、既に乳ワールドに広まってる。つまりどういうことか……解るよね? みんな、りんごちゃんと翠ちゃんを応援してるんだよ」
「わたしたちを……?」
見てみると、確かにこちらを見つめている人々の表情には怯えの色が濃く表れていた。路頭に迷い、寒さに震えているように隣の人間と肩を寄せ合い、祈るように手を組み合わせている人さえもいる。
「はは……」
これまで自分を見下し、ゴミを見るような目で見てきた巨乳派の人間たちが、こんな目で自分を見る日が来るとは思いもしなかった。その滑稽さにりんごは思わず笑ってしまうが、今の自分に笑っていられる余裕などないのだった。
凍りついた表情で翠花が空唾を飲み込んだのを視界の端で見てそう思い出し、りんごはだらしなく弛んだ表情を引き締める。
するうち、通りは一旦、突き当たりへと行き当たる。その正面にあるのが、乳聖石で作り上げられた聖像に見守られる聖なる決闘場――乳技場である。突き当たりから左右二手へ分かれる路地の右手側へと、和は曲がっていく。
乳技場を囲む人垣のせいもあってか、四隅の外灯で闇から照らし出された乳技場のステージ上に、純の姿は見えない。まだ来ていないのだろうか。そう思いつつ、乳技場の右手入り口の前に立つと、正面側にその姿がはっきりと見えた。
こちらと同じセーラー服をまとった純が、乳技場左手の入り口を入ってすぐの所に立ちながら、ニヤニヤと笑ってこちらを見ている。
「りんご、やっぱり……」
乳技場へ入る柵の入り口を和が開くと、翠花がりんごの手を強く掴んだまま口を開いた。が、りんごは微笑しながら静かに首を振り、その手を自らの手から解く。
「大丈夫です、翠花さん。まあ、きっとわたしは負けるんでしょうけど……でも、それでも逃げるよりはずっとマシなんです。女にだって、負けると解っていても戦わなきゃいけない時があるんです。わたしは筋を通します。勇登に顔向けできなくなるようなことだけは、したくありませんから」
既に覚悟はできていた。りんごは思ったよりもスッキリ笑えたことに自分自身驚きながら、翠花の手を離れて一人、扉から柵の中へ――乳技場へとその足を進めた。
腰の高さほどある正方形の石のステージへと、りんごは階段を上る。と、その大きな胸と腹の前で腕を組みながら一足先にそこに立っていた純が、
「来たわね、りんご。それに御山も。けれど、御山、今日は私とりんごの決闘なのだから、あなたはそこで大人しく見ていなさいね。でなければ、この決闘が全て台無しになってしまうのだから」
まるで舞台女優のように大げさに腕を広げ、純は乳技場を取り囲む観衆に向かって声を張り上げる。
「では、これより私と新原りんごの決闘を開催致します。決闘は、どちらかが戦闘不能になるか、あるいは降参をするまでとし、この決闘の審判は、富士岡副委員長に代わって、今日より新たに副委員長となった鈴谷恵に任せます。皆さん、異存はありませんね?」
数え切れないほどの人間がいるとは思えない、足音一つ聞こえない静寂が広大な空間を満たしている。その静寂の中で、鈴谷がコソコソとステージに上がって観衆に一礼し、すぐにステージを降りて暗がりからこちらを見つめる。
審判があのような隅っこに、しかも純の背後に控えている時点で、その存在がないようなものであることは明らかだ。だが、純はまるで正義の執行者のように高らかに言う。
「しかし、決闘の勝敗を決めるのは、鈴谷だけではありません。今日ここに集まってくださった皆さん一人一人が、この決闘の証明者となるのです。
私と新原りんご、どちらがよりこの乳ワールドの支配者にふさわしいのか、どちらがより美しいのか、この決闘を見届けてそれを判断し、全国の乳パラダイスにそれを語り広げる義務を――」
「ちょっと、純」
と、りんごは純の演説を遮って言う。
「いつまでベラベラと喋ってんのよ。ご託はいいから、さっさと始めましょうよ。弱い犬ほどよく吠えるって言うけど、あんた、もしかして、わたしと戦うのが怖いの?」
「ふふっ。まあまあ、落ち着きなさいよ。これは決闘の前の決まり文句のようなものよ。こんな挨拶に噛みついてくるあんたのほうこそ、実は余裕がないんじゃないの?」
何も言い返せない。確かにその通りで、りんごは思わず黙り込む。そんなこちらを見て純は嬉しそうに微笑み、
「まあ、いいわ」
と、肩越しに背後を見やる。すると、鈴谷がビクリと飛び上がってからステージへと上がってきて、
「で、では、これより決闘を開始します!」
裏返ったような声でそう言うと、またすぐに元の位置に駆け戻った。
どうやら、もう決闘が始まってしまったらしい。締まりのない始まりの合図にポカンとしてしまったが、ともあれ気を引き締めねばならない。
背後を見て、その大きな胸の前で両手を握り締めている翠花と目を見交わしてから、よし、とりんごは純を睨んで身構える。自分は決して一人じゃない。弱気になってはいけない。落ち着きをなくしてはいけない。
「……どうしたのよ、早くあんたのエアパイツを出しなさいよ」
裸の拳で構え続けるこちらを見て、純は不満げにこちらを睨む。
『プリンセス・プリンセス』
エアパイツを介して他者のヴァイスを喰らう、純のエアパイツ。ほかならぬ自らの体験と、それに翠花から聞いた話で、その能力のことは既に知っている。
迂闊にエアパイツを出すわけにはいかない。近づくわけにもいかない。かと言って、慎重に様子見をしたとして勝機があるのかも解らない。八方塞がりとはこんなことかと途方に暮れつつも、どうにかそれを顔には出すまいと努める。
が、まるで人の弱み辛みは好物で絶対に見逃さないというように、純はにたりと笑う。
「やっぱり……あんた、私を殴れないんでしょ」
「はあ?」
「知ってんのよ、私は。あんたは人を殴ることができないんだって。どうせあんたのことだから、自分だけは清廉潔白のいい子でいたくてそういうふうにしてるんでしょうけど、でも、あんたはそんな偽善者ですらないのよ。ただ度胸がないだけなのよ」
星空を覆い隠す厚い雲――街の光を受けてどす黒い橙色を反射する雲の天井まで響かせるような大声で、純は言う。
「ほら、どうしたのよ。やれるならやってみなさいよ。ほら、ほら」
目を瞑り、大福のような自らの頬を指差してそう言う純に、
「いいわよ。お望みなら、本気でぶん殴ってやるわよ。その代わり、あんた、絶対よけるんじゃないわよ!」
りんごもまた声を張り上げて言い返す。その憎らしい顔つきに、りんごもいよいよ腹が立ってきていたのだった。
「はいはい。解ったから、さっさとやってみなさいよ。『親友』の私の顔を、ホントに殴れる――ガッ……!」
純へと一直線に歩み寄り、その歩を緩めることなしに最後は左足を深く踏み込み、右の拳を純の顔めがけて振り抜いた。
やや手首に痛みが走ったが、当て所がよかったのか、案外軽く純の顎はねじ曲がり、純は勢いそのままステージに倒れた。
ザワッと軽く悲鳴にも似たざわめきが起こるが、その中でりんごは清々しく純を見下ろしてやる。
「ああ、気持ちよかった。ずっとぶん殴りたいって思ってたのよ、あんたのこと。でもまあこんなもんじゃ、あんたのひん曲がった根性は直ってないでしょ? さあ、立ちなさいよ、純」
「ふふっ……」
横たえているその身体を震わせながら微笑し、純はゆっくりとステージに手をついて起き上がる。
「そう……今のあなたは、前までのあなたとは違うのね。でも、いいじゃない。あんな腑抜けと戦ったって決闘にも何もならないって、困っていたところだったのよ。これで……私もちゃんと本気を出せるわ」
純の背後に、見覚えのある黒い影が朦朧と現れ出る。それはまるで炎のようにゆらりと立ち上り、やがて数本の黒い腕の形をなす。
夜の暗さよりも暗い色を湛えた、まるで人間の怨念そのものを象徴するような黒い細腕を。




