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乳ワールド-異世界降誕ノ章-  作者: 茅原
女神降誕ノ章
36/61

プライド。(りんご視点)

「……りんご?」

 

 深く暗い海の底からゆっくりと水面へと浮き上がっていくように、目の前がゆっくりと白み始める。すると、目に染みるようなその光の向こうから、誰かがこちらを覗き込んでいるらしいのが見えた。


「よかった……。目が覚めたのね、りんご」

「翠花……さん?」

 

 白っぽい光に目が痛くて、まだ瞼を上手く開けられない。だが、枕元で椅子に座っているらしいその人物が翠花であることは、その長い漆黒の髪ですぐに解った。


「大丈夫よ、安心して。ここは私の部屋だから……」

 

 その目に涙を溜めた様子で微笑み、翠花はその細い手でこちらの手をそっと握る。ようやくはっきりと見えてきた景色を見回すと、確かにここは翠花の部屋だった。だが、なぜ自分は翠花のベッドで横になっているのだろう。

 

 そう疑問を抱いてしかし、りんごはすぐに思い出す。


「そっか……。わたし、純に襲われて、それで……」

「ええ。それで、今までずっと眠っていたの。あれから、もう二日が経ったのよ」

 

 モノトーンの白いワンピースを纏った翠花はそう優しく微笑むが、こちらを看病するために寝ずにいたのだろうか、その顔はどこかやつれているように見える。

 

 そのことにも驚いたが、それ以上にその言葉に驚かされた。りんごは思わず肘を立てて身体を起こしながら、


「二日も……!? え……じゃあ、明日が決闘の日なんですか!?」

「ええ、そうよ」

 

 りんごは言葉を失う。驚きが引いていくとただ絶望だけが残り、まるで熱があるように重い身体を再びベッドへ横たえる。翠花に背を向けながら身体を丸め、目をぎゅっと瞑る。


「無理です……。わたしたちがどれだけパイモニーで強くなろうと、純のエアパイツには絶対に勝てません。あんな悪意の塊になんて、敵うわけない……!」

「大丈夫よ、りんご。まだ時間はあるから……だから、今はゆっくり休んで? 身体が弱っているから、心も弱ってしまっているのよ」

「違います、そうじゃないんです!」


 何も知らないらしい翠花に苛立って、りんごは思わず声を荒げる。翠花に対してつい怒鳴ってしまったことにハッとするが、それでも正しいのは自分なのだった。

 

 純の背後から飛び出し迫ってくる無数の黒い手。それに纏わりつかれた後に全身を襲った虚脱感。様々な記憶と感覚がフラッシュバックしてくる頭を抱えながら、りんごは言う。


「わたしは実際に見たから解るんです……。わたしたちじゃ敵いっこないんです……。女神派計画なんて、初めから無理だったんです」

「そんなことはないわ。私たち二人なら――」

「翠花さんは、何も知らないからそんなことが言えるんです! 勇登も、わたしたちも、現実を何も知らない、ただのバカだったんです……!」

 

 そもそも、どうして自分は本気で世界を変えられるなどと信じていたんだろう。美しいと勇登に褒めそやされて、それで調子に乗ってしまったんだろうか。なんてバカなんだろう、子供なんだろう。と、恥ずかしささえ混じった怒りにりんごは頭を抱え込むが、


「……りんご、ちょっと来てもらえる? 少しなら、立てるわよね?」


 静かに、翠花がそう言った。

 

 その声に、いつもとは違う何か、怒りにも似たものを感じて、りんごは驚いて翠花の顔を見る。と、翠花はその睫毛の長い静かな瞳で、じっとこちらを見つめている。

 

 その目に怒りの色はない。だが、触れれば火傷しそうなほど熱い意志のこもった、まるで勇登のような目で翠花はじっとこちらを見据えていた。

 

 そうして、やがて痺れを切らしたようにこちらの腕を掴んでベッドから立ち上がらせると、手を繋いだまま決然とした足取りで部屋を出て、窓の外には薄暗い曇り空が広がっているリビングを横切って和室へと入る。

 

 翠花の後についてそこへと入り、りんごは思わず足を止めた。


「え? 勇登……?」

 

 和室の中央に布団が敷かれ、そこには勇登が横たわっていた。


 どうして勇登がここで寝ているんだろう? まるで手術跡のような下唇のどす黒い傷はなんだろう? そう驚いたりんごに、翠花は勇登の枕元に膝を下ろしながら言う。


「あなたが純さんに襲われた時……ほとんど同時に、私もまた襲撃を受けていたのよ。無理矢理眠らされて、乳キャッスルの地下牢に連れて行かれて、そこで尋問を受けたの」

「尋問を……?」

「ええ。もちろん、私は何一つ彼女には教えなかった。けれど……これが自分の運命だと思って、全てを諦めてしまったの。もうここで命を落としても構わないって……何もかも受け入れたような顔をして、戦いから逃げようとしたのよ。

 ……でもね、そんな私を、勇登くんは命がけで助けてくれたの」

「勇登が……」

 

 りんごもまた勇登の布団の傍へと膝を下ろし、その血色の悪い顔を見つめる。翠花は濡れタオルでその顔を愛おしげに丹念に拭きながら、話を続ける。


「この人は私をここへ連れ戻して、そしてそれ以来、ずっとこうして眠り続けているわ。どうして目を覚ましてくれないのか、私にはよく解らないけれど……でも、もしかしたら、純さんから逃げる時に勇登くんが使った金色の玉……あれはひょっとして……」

「金色の玉? それって、まさか……」

「りんご? あなた、何か知っているの?」

「は、はい。わたし、勇登に見せてもらったことがあるんです。『ゴールデンボム』っていう、勇登のエアパイツを」

「そう……。やっぱりそうだったのね。じゃあ、勇登くんは自分で自分のエアパイツを爆発させて、そのせいで……」

「はい。勇登はそう言っていました。意志の象徴であるこのエアパイツを爆殺させるんだから、これを使えば無事では済まないだろうって……」

「勇登くん……。あなたは本当に、私を命懸けで……」

 

 勇登を見つめるその慈愛の瞳が潤み、頬に涙が伝う。

 

 と、まるで翠花の涙の匂いでも嗅ぎ分けたかのように、勇登の眉間にピクリと皺が寄った。呻くような声を小さく上げながら、手を上へ伸ばそうとするように布団の中でもがき始める。


「大丈夫だよ、勇登」

 

 りんごは勇登の腕を軽く押さえながら、身を乗り出して語りかける。


「わたしも、翠花さんも、ちゃんとここにいるわよ。二人ともちゃんと無事だから、安心して休んでなさい。後は、わたしたちがちゃんとやるから」


 この言葉が解ったのか、勇登は確かに安心したようにその表情と身体から力を抜き、深く息をついた。

 

 穏やかな寝息を立て始めた勇登の顔を見下ろしていると、胸の中でパチパチと火花が弾け、炎が燃え上がり始める音をりんごは聞いた。


 自分は何を寝惚けていたんだろう? 今ようやくしっかりと目が覚めたような心地で、りんごは言った。


「……そうですよね。わたし、なんで諦めようとなんてしてたんでしょうか? 絶対に諦めない。わたしはそう決めたんです。純のために、わたし自身のために、そして勇登のために……わたしは戦わなくちゃいけないんです」

「ええ、私も決して諦めない。諦めてはいけない。今ここで逃げてしまったら、私はこの後一生後悔することになる……。そんな気がするの。だから、りんご。二人で一緒に、力を合わせて戦いましょう。私も勇登くんのおかげで――」


 と、その手を前へ伸ばし、突如、そこに物干し竿よりも長い、純白の薙刀を出現させる。


「え? 翠花さん、こ、これって……」

「私のエアパイツ――『天の雷』よ」


 どこか自慢げに微笑みながら、翠花は手からその薙刀を消失させ、


「勇登くんのおかげで、私はこれを取り戻すことができた。だから、もしかしたら、パイモニーも前回とは違う結果になるかもしれない。成功させられるかもしれないわ」

「は、はい、そうですね。試してみましょう!」

 

 まだ潤み続けながらも、確かに強い輝きを宿している翠花の瞳を見つめ返しながら、りんごは頷く。


「じゃあ、そうと決まったら、早くパイモニーの練習をしないと……。パイモニーを成功させられないと、わたしたちはきっと純に勝てません。でも、まだ時間はあります」

「え、ええ、そうね。けれど、りんご……あなたは今、目が覚めたばかりなのに……」

「大丈夫です。三分で歯を磨いて顔も洗ってきますから、翠花さんはリビングで待っててください!」

 

 一分一秒も無駄にはできない。りんごは洗面台へと向かって駆け出した。リビングの壁かけ時計を見ると、決闘開始の時刻まで、後およそ二十七時間。


 自分の意地とプライドに懸けて、必ずパイモニーを成功させてみせる。りんごは洗面台の鏡を前にそう誓いながら、いつものツーサイドアップの髪型に髪を整える。


 二度と解けなくてもいいくらいに、ヘアゴムを痛いほどキツめに巻きつけた。

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