か弱き祈り。(鈴谷恵視点)
事務室の隣にある小さなキッチンの、その流し台の掃除をしていると、
「はっ……!」
エプロンのポケットに入れていた携帯電話が不意に震動し、鈴谷は背筋をピンと逸らすほど驚きながら、すぐさまその『須芹純委員長』からかかってきた電話に出る。
「なな、なんでございましょう、委員長?」
「ミルクティー、熱いやつ」
それだけ告げて、純はこちらの返事も聞かずに通話を切る。
「っ……どうして、私が……」
思わずそんな愚痴が口をついて出るが、鈴谷は今朝から純に着させられているメイド用制服――つまりメイド服の黒いスカートをひらめかせながら、狭いキッチンを駆け回って純の好きな甘いミルクティーの準備に取りかかる。
自分が今、純に『餌』にされずに済んでいるのは、ただ単に運がいいだけである。身の回りの世話をするメイドが一人ほしいだけで、自分が特別なわけではない。代わりなどいくらでもいる。だから、自分が『餌』にされないためには、どうにか優秀なメイドであらねばならない。
なぜ巨乳である自分が、こんな小間使いをやらされなきゃならないのだ。忸怩たる思いが胸に渦巻くが、今いつにも増して機嫌の悪い純の逆鱗に触れるわけにもいかず、鈴谷は繁忙期のレストランを駆け回るウェイターのように慌ただしく、純に熱い紅茶をお届けさせていただくしかないのだった。
と、一階にあるキッチンから三階へと一段飛ばしで階段を駆け上っていると、ふと見覚えのある後ろ姿が目に入った。
「あなたは、富士岡副委員長……ですか?」
三階にちょうど着いたところだった、黒のレディーススーツを身につけたその女性は、パーマがかったロングヘアをなびかせて、冷然とした表情でこちらを振り向く。
その厳しい目に射貫かれ、鈴谷は思わずギクリとしながら、
「副委員長が、なぜここに……? 確か、ドイツへの長期出張に行かれたという話を聞いておりましたが……」
「今の事態を聞いて、急遽帰ってきたのです。純さんは委員長室ですか?」
「は、はい。しかし、今は会わないほうがよいと思われますが……」
「そうは言っていられません。私は今すぐに彼女と話をしなければ」
言いながら、富士岡は決然とした足取りで委員長室へと向かっていく。その迷いのない富士岡の後ろ姿が、鈴谷には眩いほど輝いて見えた。
――富士岡副委員長なら、純を止めることができるかもしれない……!
鈴谷は思わず笑みが浮かんでしまうのをどうにか堪えながら富士岡を追い越し、先に委員長室の扉をノックする。
「委員長、紅茶をお持ちしました」
「……入りなさい」
少しの間を置いて低い声が返ってきたのを聞いてから、鈴谷は扉を押して中へと入り、
「委員長。それと、富士岡副委員長がいらっしゃっております」
扉を入ってすぐの場所でそう言ってから、後はただ富士岡に全てを託して、自らは従順なメイドとなった。
「副委員長? まあ……!」
執務机に紅茶を置いた鈴谷は一瞥もせず、その椅子に深く腰かけていた純は久方ぶりの笑みをその顔に広げる。
その右の眉あたり――御山を奪還される際、富士岡勇登にかすり傷を負わされた箇所にはガーゼを貼り、前委員長の物らしいスーツを身につけている純は、今朝から不機嫌の極みであった。
人を蹴る。扉を蹴る。電話を投げる。人を呼びつけては罵詈雑言を吐き、『プリンセス・プリンセス』でヴァイスを吸い取る。傍若無人の魔王のような暴れっぷりを見せていた純も、やはり副委員長のような地位の人間に対しては同じことができないらしい。
「さあ、どうぞそこへおかけになって」
そうにこやかに微笑みながら、ソファの上で死体のように昏睡していた女性を引きずり下ろし、足蹴にしながら富士岡を部屋へ招き入れる。
「こ、これは、わざわざありがとうございます……」
と、富士岡は笑みを引きつらせながら勧められたソファに腰かけ、正面のソファに腰かけた純に向かって手揉みをする。
「いえ、あのですね、今日はあなたを見込んで、お話をさせていただきにきたのです」
「はあ。私を見込んで……ですか?」
「ええ。いや、それにしても……とても驚きましたわ。まさか、あの委員長が急に席をお譲りになって、しかもそのお相手があなたであるとは」
はあ。と純は丸い目をパチパチさせながら淡々と答える。富士岡はその額に汗を浮かせながら続ける。
「い、いえしかし、きっと近い将来にあなたが委員長となることは、ずっと前から解っていたんですよ? でも、まさかその日がこんなにも早く来るとは……。それはやはり、あなたのお母様が、それだけあなたのエアパイツに感動をなされたということなのでしょうねえ」
「いえ、私はまだ遠く母には及びませんわ。『よき母であり、よき妻であれ。』……乳ワールドに古くから伝わるその言葉を従順に守りながら重責を果たしてきた母やあなたのような方々に、私はまだまだ敵いません」
「そんなご謙遜を……! もう噂には聞いております。あなたのエアパイツは、それはもう恐ろし――素晴らしいものであると。それで、その……お一つ、お願いをさせていただきたいのですけれど……どうかよろしければ、私をあなたの賛同者とさせてはいただけませんか?」
「賛同者? ああ、なるほど……」
ふむふむと頷きながら、純はその口元に怪しい笑みを浮かべる。期待とは全く異なる富士岡の言葉に呆然となっていた鈴谷は、その瞳の冷たい輝きに思わず背筋を凍らせる。
純はあくまでにこやかに頷きながらソファから立ち上がり、ゆっくりとした足取りで執務机のほうへと歩いて行く。
鈴谷がそこへ置いておいた紅茶をズズズと音を立てて啜り、なるほど、ともう一度呟いてから、満面の笑みでこちらを振り向いた。
「そうでしたか。それは、ちょうどよかった」
「では……」
と、その表情を明るくしながら立ち上がった富士岡に純は頷き、
「ええ。でも、その前に、あなたのエアパイツを私に見せてくださる?」
「エアパイツを、ですか?」
「そうです。申し訳ありませんが、どうしても確かめたいことがありまして……」
あくまで低姿勢を装った表情と声で、純は言う。その笑みの裏にある影を見て取った鈴谷は身を強張らせるが、富士岡はやや訝しげながらも、
「はあ」
と、手慣れた様子でそのエアパイツを出現させる。両手の内で金色に輝く、二丁の拳銃――『ヒメル』。ドイツ語で『天命』を表すその言葉のごとく、それから放たれる弾丸は一発必中、強力無比として、貧乳派を恐怖に陥れた強力なエアパイツである。
もしかしたら、このエアパイツならば純に勝てるかもしれない。富士岡は騙されたフリをしていて、ここで颯爽と仮面を脱ぎ、純に制裁を加えてくれるのかもしれない。
と、鈴谷はすがる思いで富士岡を見守ったが、その儚い希望は当然のごとく霧散した。純の背後から突き出すように現れた四本、いや五本の手が、『ヒメル』をその両手ごと掴んだのである。
「こ、これは……? 委員長、一体、何を……?」
「くっ――あははははっ! ねえ、副委員長、もうそんな寸劇はやめて? 私はね、あんたの考えてることなんて、なんでも解っちゃうのよ。だって、あんたは私と同類の、それ以下の人間なんだから」
「ど、同類……? なんのことです?」
「どうせあんたは、自分の息子の富士岡勇登が何を計画しているか、ずっと以前から知っていたんでしょう? それで、表面上はそれに協力してやっていた。もしも失敗した時に備えて、言いわけが出来る程度にその情報をこちらに漏らしながらね」
「い、委員長……? そ、そんな……私はそんなことは全く……!」
「無駄よ。あんたの考えなんて全部解ってる。あんたの本当の狙いは、富士岡勇登たちが乳ワールドを支配した後に、その監督者として、自分が委員長の位を手にすることなんでしょう?
あんたがドイツに行ったフリをして、近くのホテルにずっと泊まっていたことだって、乳安の調べでとっくに解ってるのよ?」
「いや、それは……」
「あんたみたいな小者なんて、私はさらさら相手にするつもりはないわ。でも、ちょうどあんたに用事があったところだったから、こうして来てもらえて助かったわ。腐っても乳安の副委員長であるあんたのヴァイスは食べておかなくちゃって、そう思っていたのよ」
「ヴァイスを、食べる……?」
「ええ。あんたのような役立たずは、それくらいでしか私の役に立てないでしょう? でも、そうだわ。その前に、あんたにちょっと訊いておかなきゃならないことがあるのよね。――ねぇ、『パイモニー』って何か、知ってる?」
「パイモニー……?」
と、富士岡は戸惑い顔で純を見返す。純はその顔をじっと鋭く睨み、すぐに嘆息する。
「そう、知らないの。なら、もういいわ。あんたはもうここで『プリンセス・プリンセス』の餌に――」
「い、いえ、知っています、委員長!」
と、富士岡は両腕を捕らえる黒い腕たちから逃れようとするようにもがき、床に尻餅をついて言う。
「パイモニーとは、絆で結ばれた者同士が、互いのヴァイスを通じ合わせることで融合し、一つの肉体を得る秘術のことです。それをすることで、その肉体に宿るヴァイスの量は凄まじいほど向上し、それまでとは全く異なるエアパイツを持つことも可能になるのです!」
「へえ……二人の人間が融合して、新しいエアパイツを……。なるほど……なるほどねえ……ふっ、あはははははっ! あははははははははははははっ!」
「あ、あはは……」
「そんな馬鹿げた話があるわけがないでしょう」
身をよじって笑い始めた純につられたように、富士岡はその頬を引きつらせたが、直後、純は急激に表情から温度を消し去る。
「いくら怖いからって、そんな作り話でどうにかなると思った? 二人の人間が一つにって……そんなわけないじゃない」
「え? い、いえ、嘘ではありません! 本当です!」
富士岡は表情を凍りつかせてそう反論するが、純はそれを鼻先で笑い飛ばす。
「ああ、解ったわ。あんた、富士岡勇登からデマを教えられていたのよ。あんたは権力にしか興味のない人間。息子にはちゃぁんとそこを見抜かれていて、いつかあんたが裏切ることも予想されていたから、嘘を教えられていたのよ」
「ま、まさか……いえ、そんなはずは……」
「もうあんたに用はないわ。じゃあね、富士岡さん。申し訳ないけれど、あんたには今日限りで副委員長の役職を降りていただきます」
待って――
富士岡は黒い物質に覆われた手を必死な様子で純へと伸ばしたが、純が弱者の懇願に耳を傾けることなどありうるはずもない。
鈴谷が思わず目を背けた数秒後には、ドンという硬い物を落としたような音が部屋に響き、まるで純に土下座をするようにして、顔面を床につけながら気を失っている富士岡の姿がそこにはあったのだった。
「鈴谷」
「……は、はひっ!?」
副委員長をもってしても、純に手足の一つも出なかった。その信じがたい事実を前にして鈴谷は呆然となっていたが、純にその名を呼ばれてギクリと背を伸ばす。
純は執務机の皮椅子にどっかと腰を下ろし、
「ぬるくなっちゃったからその紅茶は捨てて、代わりに熱いコーヒーを持って来て。それと、その『ゴミ』を、とりあえず副委員長室にでも放り込んでおいて」
執務机の引き出しから取り出した爪切りで、不機嫌そうな顔をしながら爪を整え始める。
――あれは悪魔だ……。
魂のない人形になるしかなかった。だが、一体誰が自分を嗤えるだろうか。まだ湯気の立っている紅茶を盆に載せてキッチンへと戻りながら、鈴谷は思った。
いや、違う。自分を嗤う資格のある人間は、まだ確かに存在する。
富士岡勇登、新原りんご、御山翠花。彼ら三人だけが、今の乳ワールドに残された唯一の希望なのであった。
――女神派計画……。本当に私たちのもとへそのお姿を現してくださると仰るのなら、女神よ、どうか、か弱き我らを救い給え。




