命を懸けて。
――十分ジャスト!
これだけあれば三、四日は余裕で持つだろう。それくらいパンパンに食材を詰め込んだビニール袋を両手に提げながら、勇登は疾風のような勢いで路地を駆け抜け、翠花のマンション敷地内へと駆け込んでいく。
急ぎすぎて卵を割らないように注意しつつ自動ドアをすり抜け、それからさらにもう一枚ある自動ドアをくぐるために、インターフォンで翠花の部屋に呼び出しをかける。すると、
『あ、勇ちゃん!』
思わぬ声が返ってきた。
「お前は……和か? なぜお前がそこにいる?」
『事情はこっちに来てから話すよ。だから、まずは早くこっちに来てよー!』
プツリと通話が切られ、それとほぼ同時に玄関ホールへと入る自動ドアが開く。その中へと入り、エレベーターで翠花の部屋がある階まで向かい、部屋のインターフォンを押す。すると、まるで待ちわびていたかのようにドアがすぐに開き、
「遅いよ、勇ちゃん! もう、どこで何してたのさー!?」
と、和が息を切らせて飛び出してくる。その普段は優しい面立ちがずいぶん険しくなっていることにも驚きながら、
「それはこっちの台詞だ。お前こそ、ここで何をしているんだ?」
「それはいいから、とにかくこっちに来てよ! りんごちゃんが大変なんだよー!」
「何!?」
部屋の中へと戻っていく和の後を、勇登は靴を脱ぎ散らかして追いかける。
和は私物らしいネイビーのチェスターコートを羽織っているが、どうやらその下には乳パラダイスの警備服を着ているらしい。なぜそのような格好をしているのかも不思議で、尋ねたいことだらけである。
だが、翠花の部屋のベッドに横たわっているりんごを見ると、勇登は思わず買い物袋を取り落としてその傍へ駆け寄った。その口元へ耳を寄せると、呼吸は通常どおりにしている。表情にも苦痛の色はなく、一見するとただ眠っているようにしか見えない。
しかし、それこそが異常なのである。大きな物音にも何一つ反応せず、昏々と眠り続けているりんごを見つめながら、勇登は背後に立っている和に尋ねる。
「……何があった?」
「須芹委員長の娘の――じゃなかったね。須芹純委員長に、襲われたんだよ」
「襲われた……? どこで?」
「このマンションに入ってすぐの所。ボクは遠くから見ていただけだったから、二人がどんなやり取りをしていたかまでは聞こえなかったけど……でも、委員長はどうやら、りんごちゃんを弱らすのが目的だったみたいだよ。この通り、りんごちゃんはただ意識を失ってるだけみたいだし……」
「……そうか」
全ては、しっかり部屋まで送り届けなかった俺のミスだ。勇登はそう悔やみながら、どこか落ち着かなさげに翠花のシンプルな部屋を見回している和を振り返る。
「それはそうとして、それでどうしてお前がここにいるんだ?」
「え? あ、うん。ボクは今日もいつも通り、乳パラダイスの門番をしてたんだけどさ、そこで妙な話を聞いたんだよ」
「妙な話?」
「うん。乳パラダイスに入っていった翠ちゃんと同じ学校の人たちがね、話してたんだよ。翠ちゃんが、学校で乳安の鈴谷さん――勇ちゃんの学校にいる先生と一緒にいるのを見たって。どうしてあの人がこっちの学校にいるんだろうね、ってさ」
「鈴谷が……?」
――奴は確か、今日は体調を崩して勤務を早退をしたはず……。
なぜその鈴谷が、自分が勤めているわけでもない学校にいるのだろうか。確かに妙な話である。
「でね、その少し前になんだけど、その鈴谷さんがさ、こーんな」
と、和はその両手を広く広げて、
「引っ越しか何かに使うような大きい段ボールを手押しの荷台に載せて、乳パラダイスに入ってったんだよ。『それはなんですか?』って訊いたら、『新委員長になる純様の私物だ』って言うし、それに鈴谷さんは乳安の人でしょ?
だから別にチェックもしないで通したんだけどさ……なんていうか、その時、本当になんとなくなんだけど、翠ちゃんの声が聞こえたような気がしたんだよ。凄く小さい呻き声っていうか、そんな感じの声が……」
「呻き声……」
「そうそう。でも、鈴谷さんは慌てて『猫だ』って言ってたし、ボクもそうなのかな? って思って、結局そのまま通したんだよ。でも……さ、鈴谷さんがまた荷台を押し始めた瞬間、これも本当になんとなくなんだけど――翠ちゃんの匂いがさ、したんだよ」
白い木製デスクの天板を手でさすりながら、和は言う。その、どこかぼんやりと遠くを見るような横顔を見つつ勇登は腰を上げる。
「……なるほどな。それで、ここへ来たのか」
「うん。嫌な予感がして、もしかしたら、勇ちゃんたちになんかあったんじゃないかって思ってさ。それで、門番を同僚に代わってもらって、自転車で急いでここに来たんだ。そしたら……」
――りんごが純に襲撃を受けているところだった、というわけか……。
勇登はりんごを見下ろしつつ頭を掻き、深く嘆息をしてから、
「ともかくは……和、りんごを保護して、ここまで運んでくれたことに礼を言う。ありがとう」
「う、うん。でも、その……翠ちゃんは……?」
「お前がそう言っているんだ。全て間違いないだろう。翠花さんは乳安に拉致をされたと考えるべきだ」
りんごはただ弱らせるだけで放置し、その一方で翠花を拉致する。
この事実から考えると、純の最大の目的は翠花であるように思える。こちらが進めている計画の柱を担うのは翠花と判断し、同時にりんごの実力も確かめ、その結果、脅威にはならないと判断して放置することにした……というところだろうか。
しかし、おそらく純の最大の目的は、あくまでりんごなのである。純がりんごに対して並々ならぬ執着を抱いていることは、既に解り切っている。
とすると、純が翠花を拉致した理由として考えられるのは、『翠花が決闘の邪魔をするのを防ぐため』、『女神派計画についての詳細な情報を手に入れるため』あたりである。
「ど、どうするの、勇ちゃん……?」
と、和がその顔に不安と焦りの影を広げて尋ねてくる。
「決まっている。翠花さんを取り戻す。あっちがなんの目的で翠花さんを拉致したのであろうと、そんなことは関係ない」
「でも、どうやって」
「どうやってもだ。――和、少しの間、りんごを頼む」
「もしかして、勇ちゃん一人で乳キャッスルに乗り込む気なの?」
「一人じゃないさ」
俺の中には、頼りになる父がいる。決して一人じゃない。早くも玄関へと向かって歩き始める勇登の後に、和はオロオロとついてくる。
「で、でも、勇ちゃん、危ないよ! 下手したら、ホントに殺されちゃうかも……!」
「これが俺の仕事なんだ。男である俺には、結局できることなど何一つない。だから、せめて命を懸けて守るしかないんだ、俺の女神たちを」
子供が脱ぎ散らかしたように転がっている自分の靴にどうにか足を入れ、勇登は玄関ドアのノブに手をかける。と、
「ちょっと待って、勇ちゃん」
和が呼び止め、制服の内ポケットから黒いタグホルダーのついた鍵を取り出し、勇登に手渡した。
「乳キャッスルのエマージェンシー・キーだよ。それがあれば、どの鍵でも開けられる。地下牢の鍵でもね。地下牢の入り口は、確か乳キャッスルの東側の壁にあった気がするけど……」
「そうか」
「同僚にはボクから連絡を入れておくから安心して。ボクの大切なパートナーだから、通してあげてって、そう言っておくから」
「すまない。お前には本当に、世話になりっぱなしだな」
「ううん、それはこっちの台詞だよ。本当に……ごめんね、勇ちゃん」
目に涙を浮かべて俯く和に頷き、勇登は翠花の部屋を後にする。
日は既に沈みかかり、空気は肌を締めつけるように冷たかった。赤と紫のグラデーションに染まる西の空には、純白の輝きを放つ一つの星が、ぽつんと寂しげに浮かんでいた。




