貧乳の女神。その2
どう見たって穏やかではない雰囲気だ。勇登はすかさず立ち上がり、その後を追った。そうしてやがて着いたのは、教室棟とは異なるもう一つの棟、教室棟よりもいくらか年季の入った佇まいをした文化棟の片隅である。
文化棟三階のトイレ前、ひと気もなく、しんと空気の冷え渡ったその場所に、ややひそめた女子の声が刺々しく響いた。
「なあ、お前。今朝、川瀬くんと話してただろ?」
「別に、話してませんけど? 挨拶されたから、返しただけです」
と、ふてくされたようなりんごの声。
階段前の曲がり角からそのほうを覗くと、ここで待っていたのだろうか、恰幅のよい体格をした、首の後ろで長い髪を束ねた女子が一人増えて、三人の女子が囲み込むような形でりんごを壁際に追い詰めている。
「嘘つくなよ。さっきだって、あの転校生に色目使ってたじゃん。わたし、ちゃんとそれ見てたし」
「使ってません。ただハンカチを拾っただけです」
りんごは淡々と答える。影に包まれてひんやりとした廊下の空気が、温度以上に冷たく感じられてくる。
どうやら三人のリーダー格らしい、りんごの正面に立っていた恰幅のよい女子生徒が、その丸々とした顔の真ん中に陣取った丸い鼻をピクリとさせながら重く口を開いた。
「適当なことばっかり言ってるんじゃないわよ。私は小学生の時からあんたのこと知ってるのよ。あんたの考えてることくらい、顔を見れば解るのよ。どうせあんた、自分のほうが男にモテるから、実際は自分のほうが上なんだって、そう思ってるんでしょ」
「上? 上って、なんの?」
「身分とか立場とか、そういうのに決まってんでしょ? あんたはどうせ今でも私たちのことを下に見てる、そう言ってんのよ」
「だから、純、あたしはホントにそんなことなんて思って――」
「『須芹様』だろ、この貧乳女! お前、やっぱ私らのこと見下してんだろ!」
と、ロングヘアの女子生徒が声を荒げる。しかし、りんごはあくまで静かに、
「見下してません。前から何回もそう言ってるでしょ?」
「そういう態度が見下してるって言うんだよ!」
と、恰幅のよい女子生徒――須芹純が、どうやらりんごの腹を小突いたらしい。よく見えなかったが、りんごが微かに呻き声を漏らしながら屈み込んだことから勇登はそう察し、今すぐに助けに入るべきか逡巡して拳を握り締める。
が、りんごはすぐにその顔を上げ、その凛とした瞳で女子生徒たちをじっと睨みつける。
「この生意気な……!」
純が歯噛みしたような声を漏らし、ボブカットの少女をちらと見る。
「あんたの『エアパイツ』で、こいつをちょっと脅かしてやりな」
「エアパイツで…? い、いや、純さん、エアパイツは流石にマズいのでは……?」
「私の命令に従えないの? 私は乳安の委員長の娘なのよ。まさかあんた、私がエアパイツを持ってないからってバカにしてるんじゃないでしょうね」
「そ、そんなことは……!」
ボブカットの女子生徒は怯えたように顔を振って否定し、それから両手で自らの胸を揉むような動きをした直後、微かな白い光と共に、その手に野球のバットらしき物体を出現させた。
これ以上は静観できない。なるべく目立ちたくはなかったが、流石にここはやむをえないと勇登は足を踏み出し、不必要なほど大きな声で呼びかけた。
「おい、りんご。こんな所にいたのか」
その声に驚いたように、その場にいた四人の女子がこちらを向き、ボブカットの女子生徒は、そのバットらしき物体を魔法のようにパッと手から消し去る。
勇登は分け入るように三人の女子の間へ入っていき、その中で床に屈み込んでいたりんごへ手を差し出す。
りんごはキョトンとしたような顔をしながらその手を取り、立ち上がる。床にずっと触れていたせいか、その指は氷細工のように冷たい。
「ちょっと」
と、ロングヘアの女子生徒が、どこかキョドキョドとしながら勇登を睨んだ。
「い、今、わたしたち大事な話してるところなんだから、邪魔しないでよ」
そうよ。と、純は見事なほどにその表情を一変させて、目をくりくりと輝かせながら媚びを売るような微笑を勇登へ向ける。
「今は女子だけで集まっていたところなの。だから、男子はここに来ちゃダメよ。でも、そういえば……あなた今、りんごのことを呼び捨てにしていたわよね? あなたは転校生なのに……どういう関係なの?」
「あたしは別にこいつと知り合いなんかじゃないわよ。全くの他人よ」
「そうなの?」
と、穏やかな、しかしどこか人を見下すような微笑を浮かべながら純はこちらを見やる。当然そうなのだが、ここで簡単に頷いて退き下がるわけにはいかない。
さてどうするかと勇登が困惑していると、それに助け船を出すように、
「やあ、みんな、そんな所に集まって何をしているんです?」
と、飄々とした声が廊下に響いた。
見ると、大人びた微笑を爽やかに携えた女子生徒が、勇登が先ほどまでいた階段のほうからこちらへと歩いてきている。
ボーイッシュなショートヘアによく似合う銀縁のメガネを薄く光らせながら、その女子生徒は純のすぐ後ろに立つ。
スラリと背が高く、しかし出るところはしっかりと出ている、グラビアモデルのような体型である。顔立ちも、可愛いという言葉より綺麗という言葉のほうが似合うほど垢抜けている。
ロングヘアの女子生徒が、どこか怖々とその生徒を見上げる。
「さ、三年生……ですか? べ、別に、わたしたちは何も……」
「いやいやまさか、何もしていなくはないですよねえ?」
わざとらしいほど慇懃な口調でショートヘアの女子生徒は言う。それから、そのスカートのポケットから黒革の手帳をちらりと微かに見せる。
「公の場所での『あれ』の使用は原則的に禁止されているはずですよ? 皆さん、もちろんそれは解っていますよね?」
「あ、あなた、乳安――」
と、純が呻くような声で何か言いかけたが、ショートカットの女子生徒はその口の前に長い人差し指を立て、
「私は、今日からこの学校に転校してきたシエロという者です。同じ学舎の友として、皆さん、よろしくお願いしますね」
にこりと涼やかに微笑むと、先ほどまでの勢いはどこへ行ったのか、純と二人の女子生徒たちは慌てたように深く一礼して、顔を伏せたまま去って行ってしまった。りんごも、つんと鼻を尖らせながら、遅れてその後について行く。
シエロもまたこちらへ背を向け、だが去り際にこちらを見てニヤリと笑った。
「私がちゃんと見ていますから、安心してくださいよ。新原さんも、須芹さんも……それにあなたのことだって、私はいつだって見守っていますよ」
「…………」
盗聴など、乳安の監視には気をつけていたはずだったが、こんなにも早く嗅ぎつけて、さらには直接顔を出して牽制までしてくるとは。
勇登は予想外の展開に思わず戸惑ったがしかし、遅かれ早かれ『乳安委員会』の手先が現れること自体は予想していた。
――りんごと接してみた感触も、そう悪くはない。スタートとしては上々だ。だが、山場はこれからだ。
自らも教室への帰路へと就きつつ、勇登は廊下の窓から差し入る眩い陽光に目を細めた。秋空の飛行機雲が、まるで異世界を飛ぶ女神のように遥か高くに浮かんでいる。